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2019年4月23日 (火)

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 - その8(完) 長崎・外海とハウステンボス

 

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 

- その8(完) 長崎・外海とハウステンボス そして 熊本城

 

World Cultural Heritage : Hidden Christian
Sites in the Nagasaki and Amakusa Region

http://kirishitan.jp/en

 

2018年から2019年にかけて廻った隠れキリシタン

・潜伏キリシタンゆかりの地を見ていただきましょう。

 

その8は、過去に行ったことのない 長崎の外海です。

パックツアーの旅、ハウステンボスも込み込み・・・・・

ついでに、熊本城へも・・・・

 

 

2019年4月2日の朝・・・・

 

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生まれて初めての佐賀空港へ・・・

本来なら長崎空港直行なんでしょうが、これも良し。 

 

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桜も真っ盛り・・・ 

 

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川登サービスエリアで 「天ぷら」・・見るだけ。

 

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目的地は 長崎外海地区の世界遺産 出津の集落。

 

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私の本当の気持ちは、世界遺産の出津集落ではなく、

右端にかろうじて描いてある黒崎地区の枯松神社だったんですが・・・

 

と言うのも、隠れキリシタンの時代も、そして今も

神社とキリスト教が共存していると聞いたからです。

 

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で、何はともあれ、出津教会堂。

この教会の背が低いのは 風当たりが強い場所に

あるからだそうです。

 

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この教会では、我々が内部を拝観した時に、

韓国語でのミサが行われていました。

 

 

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ガイドの方に伺ったところ、韓国からの巡礼ツアーの

団体だとの話でした。 

 

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出津の集落で有名なのは マルコ・アリ・ド・ロ神父です。 

 

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神父は村人の窮状を救うため・・・授産・福祉施設に私財を投じたそうだ。 

 

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この石積みの塀が特徴的なものだとのことです。 

 

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 ところで、「外海」(そとめ)とはどこなのかと言いますと

上の地図のように長崎市から北西に入った山々に囲まれた

ところで、隣の村へ行くにも大変なところです。

 

禁教時代に、全国から九州へ、九州から長崎へ、

長崎から外海、そして五島などの島々へと

隠れキリシタンの移住が進んだのです。 

 

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ここには 「沈黙」の遠藤周作文学館もあります。 

 

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バスの車窓から撮影した 黒崎教会。

出津の集落は世界遺産に含まれていますが、

黒崎の集落は入っていません。         

 

https://www.at-nagasaki.jp/spot/1096/

1897年にド・ロ神父の指導で敷地が造成され、1899年から

建設計画が進行、1920年に完成した、遠藤周作の小説『沈黙』

の舞台ともなった黒崎の地に建つ教会。」 

 

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「沈黙」の海が光っていました。 

 

私が外海に興味を抱いたのは、金鍔次兵衛の関連資料が

あるかもしれないと思ったからです。 

 

しかし、残念ながら、出津の外海歴史民俗資料館には 

私の目当てのこれというものはありませんでした。

バスの出発時刻が迫っていたので、ささっと見て廻ったん

ですけど・・・

 

https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/kibe187/densetsu/

「大村家の記録には、西彼杵半島の横瀬浦と面高から長与に

至るまで行われた「金鍔狩り」の様子が詳しく記されている。

その後、戸町の裏山の洞穴に身を移し、「金鍔谷」と

して知られるその場所から長崎の中心部に潜入した。」

 

耐久力があれば、この「次兵衛岩」に行きたいところなんですけど・・

https://blog.goo.ne.jp/rarirari-pinot/e/86be20943fc0d4d477a21d0e43cb9fe9

「外海の先、神ノ浦地区に「次兵衛岩」(その山中にも潜んでいた)

というのがあるのですが、そこへは山道を1時間以上登らないと

行けないそうなので、いつかはチャレンジしてみたいのです。

そこは金鍔岩とは言わなくて、次兵衛岩なんですけどね。

入口にはこんな案内板が立っています。」

 

・・・なぜ、この忍者司祭である金鍔次兵衛にこだわるか

と言うと、天正使節の4名、特に千々石ミゲルとの

接触が潜伏期間になかっただろうかと思うからです。

 

そして、もう一点は、隠れキリシタンの時代に

神社、寺などの年中行事に隠れキリシタンの人びとが

どのように関わっていたかを知りたいからなんです。

枯松神社のように・・・・

 

 

 

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そこで、この 諏訪神社(鎮西大社)なんです。

 

鎮西大社 諏訪神社

https://www.osuwasan.jp/

「長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かつて

長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社を、

寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山

(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まりです。」

 

何と言っても有名なのは「おくんち」ですね。

https://www.osuwasan.jp/page0115.html

「一年でもっとも重要な祭典を例祭といいます。

当神社では107日~109日に行われる一連の祭典

がこれに当たります。

当神社の例祭は「長崎くんち」と呼ばれ、昭和5423

に国の重要無形民俗文化財に指定されています。

荘厳な御神幸と国際色豊かな奉納踊により日本三大祭

と称されています。」 

 

そして、何かの本でも読んだことがあるのですが、

「長崎くんち」が始められた理由が興味深いのです。

これは、島原の精霊流しにも共通する理由なんです。 

 

「長崎くんちが始まった衝撃の理由とは?」

http://kininaru-trend.net/post-2635/

 

「この祭りを始めたのは、長崎奉行・榊原職直(さかきばら

もとなお)。武家出身で池上本願寺の僧となっていましたが、

徳川家康の命で「徳川四天王」の一人、榊原康政の養子と

なった人です。

長崎は、江戸時代を通じ幕府の直轄領で、幕府の奉行所が

置かれていました。


長崎奉行が「長崎くんち」を始めたのはなぜか?

その理由は、キリシタンの弾圧でした。

諏訪神社の祭礼(長崎くんち)を、長崎の町の神事と認定。

町民を神社の氏子にさせました。その背景には、キリシタンを

改宗させたり、弾圧する目的があったと言われています。」

 

・・・と言うことが歴史的にあるらしいので、


今年の日比友好月間イベントの「17世紀の日比交流」と

いうテーマの中で、どんなコンセプトにするか

悩みどころということです。

 

 

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長崎の港・・・そして出島

 

 

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そして、長崎市で最初に行ってみたのが出島です。

 

 

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異国人の靴が汚れないように、石畳にしたという話も

ありました。 

 

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これで見ると、マニラ以外にも、カガヤンやパンガシナンに

寄港していたというのが目新しい情報です。 

 

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こんなミニチュアの南蛮船を展示できたらいいん

ですが、金欠病なんで・・・・ 

 

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蘭学のことなどは 誰でも知っていることなんですが・・・ 

 

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「須弥山儀」なるものがあったなんて、初耳です。 

 

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出島の南蛮人や紅毛人は ビリヤードをやっていたらしい。
実際、現物が置いてありました。

 

 

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長崎も 春爛漫でした。 

 

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そして、夜には、 

 

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稲佐山の展望台からの夜景。 

 

この夜景ツアーのバスガイドのお姉さんにちょっと質問をしたんです。

何故かって言うと、ガイドさんご本人が長崎・外海地区の

出身だということが分かったからです。

それで、これ幸いと 今回のツアーで知りたかったことを

尋ねました。

 

「外海などに住んでいる隠れキリシタンの人たちは

 日本の伝統的な季節の行事、例えば七夕祭りなんかも

 普通にやるんでしょうか?」


「はい、一般的な年中行事はやっていますよ。」

 

ああ、これこそ聞きたかった言葉です。

なんとなく イベントのコンセプトをイメージできそうな

大発見になりました。

 

さて、パックツアー二日目の 4月3日・・・

今日は大浦天主堂、長崎平和公園からハウステンボスへ向かいます。 

 

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浄土真宗の境内からすぐ隣にある大浦天主堂をちらりと望む・・・

 

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その妙行寺のおニャン子ちゃん。

 

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こっちは、大浦天主堂の猫ちゃん。
後ろ足が不自由な猫ちゃんでした。 

 

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バスの車窓から撮影。

原爆で半分が吹き飛ばされたという鳥居。
分かりますか?

 

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平和の泉から望む 平和祈念像。 

 

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母子像 

 

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長崎市平和会館の展望台から・・・・

 

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長崎の桜・・・ほぼ満開でした。 

 

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ランチタイムは、

角煮まんじゅうと皿うどん。

皿うどんには やっぱウースターソースですかねえ。

 

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さあ、佐世保出身なのに、今まで中に入ったことがない

ハウステンボスです。 

 

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何度も倒産の危機があり、HISに助けてもらった

大規模な施設。

 

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様々なアトラクションを 次から次に打ち出さないと

安定した経営は非常に難しいのでしょうね。

 

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こういうショーは、寒かったけど、一見の価値は

ありました。

 

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夜のライティングは素晴らしい。
絵画を見ているような・・・

 

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ハウステンボス内の 大村湾に繋がる運河は

素晴らしいものでした。

 

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ホテル・ヨーロッパは

パックツアーならではの格安設定。

 

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朝ごはんに シャンパン付いてます。 

 

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チェックアウトは ボートで・・・・ 

 

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展望台からヨットハーバーを見下ろす。

大村湾の一部です。

 

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自宅からボートでお出掛けの生活はいかがですか? 

 

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保育園の子供達もお散歩に来ていました。

 

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「天翔けるブーツ ~長崎での竜馬~」 観ました。 

 

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ミニ「宝塚」で、初体験。
田舎な佐世保で こんな歌劇を観られるとは

まさに驚きでした。

 

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もちろん 食べました。 佐世保バーガー。 

 

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ハウステンボスを一歩出たところに

「変なホテル」もありました。

外国人観光客に人気があるようです。 

 

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さて、ここから、私だけパックツアーを離れて

熊本へ向かいます。 

 

そして、 4月5日・・・熊本・・・

 

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熊本市国際交流会館での待ち合わせ。

 

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天草市の古楽器アンサンブル・グループ

「コレジヨの仲間」との演奏会の打合せ。

 

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目の前に熊本城。 

 

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熊本地震で大きな被害を受け・・・・ 

 

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建物の修復はあと2年ほど、

そして石積みの石垣は あと20年ぐらい掛かるとの

ボランティアガイドさんのお話でした。

 

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どの石垣がいつの時代に造られ、補修されたのかを

忠実に 元の材料で復元するのだそうです。

 

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熊本空港から羽田へ向けて・・・

熊本空港も初体験。

 

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さあ、東京へ戻ってきました。

(・・・・と、埼玉人は言う・・・笑)

 

おやすみなさい。 

 

― これで一連の 長崎・天草の資料探しツアーは終了です。 -

― お付き合い、ありがとうございました。 -

 

 

 

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2019年4月20日 (土)

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 - その3 上五島から佐世保へ

 

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 - その3 上五島から佐世保へ

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2018年から2019年にかけて廻った隠れキリシタン

・潜伏キリシタンゆかりの地を見ていただきましょう。

 

その3はパックツアーで巡った 上五島の3日目。

五島で三つ目の世界遺産である、「奈留島の江上集落」がメインです。

 

では、お付き合いください。

 

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お宿の朝の空には、ピーヒョロローと トンビが飛んでいました。

 

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そして、船着き場へ向かう車窓からは 柿の木が・・・

今日は11月3日です。

 

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今日の我々の船はこれ・・・じゃありません・・・

 

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はい、こちらの黄色い船です。

 

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向かっているところは、「キリシタン洞窟」です。

 

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「若松島・里ノ浦のキリシタンたちは、・・迫害を受けて、

船でしか行けないこの険しい断崖の洞窟に隠れた。」

とあります。

 

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その洞窟に近づきましょう。

 

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ぐるりと廻って反対側にキリストと十字架が見えます。

この後ろ側に洞窟があるそうです。

もちろん、当時は隠れ住んでいたわけですから

このように目立つものはありませんでした。

1967年にキリスト像が建てられたようです。 

 

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 そして、今でも、毎年11月にこのようなお祈りの

集まりがあるそうです。 

 

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そして、船が到着したところは・・・・

「奈留島の江上集落」

世界遺産の3つめの集落です。

 

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木々に隠されたようなところにひっそりと建っている

江上天主堂です。 

 

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この江上地区には 1881年に長崎の外海地区から

4家族が移住した・・とあります。

 

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内部撮影は不可なので、窓から内部を撮影 

 

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さて、次にどこに行くかといいますと・・・・

五輪真弓さんが関係あるとかないとか言われている場所。 

 

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こちらのサイトで五輪真弓さんのルーツをご覧あれ・・・

http://oratio.jp/p_column/itsuwa-roots

 

 

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はい、その島にとうちゃこです。 

 

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子猫ちゃんがお出迎え・・・

 

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これが、旧五輪教会。 

 

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県指定の有形文化財になっています。

 

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なかなか趣のある教会です。 

 

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窓は、天然のステンドグラスのような美しさ。

 

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現役の新しい教会も建っていました。 

 

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子猫ちゃんのお母さん?にもご挨拶して島を離れます。

 

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そして、小舟で向かうところは・・・・

 

 

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福江港ターミナル

 

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ホテルでランチ。

島ぶり・・・だそうな。

もちろん五島うどんもね。 

 

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そして、この高速艇で 長崎の港へ・・・・ 

 

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長崎港に到着。

このパッケージツアーの3日間本当にほぼ快晴の天気で

嬉しい限りでした。

 

この長崎港で、私は家内と別れ、パッケージツアーから離脱して

一人旅になります。

長崎市から佐世保市の世界遺産・黒島へ行くためです。

 

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長崎―諫早―大村―ハウステンボスー佐世保へと電車は走ります。

 

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大村藩はかつてはキリシタン藩主の下で、キリシタン王国でしたが、

その後禁教令で厳しい弾圧へと変わった藩でした。

 

千々石ミゲルは、天正遣欧少年使節の一人でしたが、

棄教して、大村藩に仕えたということになっています。

 

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そして、佐世保駅に到着。

右に見える山は 烏帽子岳。

私が小学生の時から遠足などで何度も登った山です。 

 

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佐世保は、元々は寒村であった場所に、天然の良港があるという

ことで、鎮守府がおかれ、軍港になりました。

今は、佐世保駅周辺はすっかり模様替えをして

大型客船が入るようになっています。

ここから、ハウステンボスに向かうようです。 

 

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佐世保の我が家から真っ直ぐに広く見えていた港や山は、

今は駅前に林立する高層ビルやマンションで

すっかり隠されてしまっています。

昔は、佐世保港の大花火は全部見えていたのですが・・・

 

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しかし、駅前から少し歩くと、カトリック三浦町教会が見えてきます。

元々は1897年に別の場所に建てられ、その後1931年に

今の場所で、佐世保港を見下ろしています。

 

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この教会は、私が幼かった頃から気になる存在で、

時々遊びに行っては、内部を覗いたものです。

 

ちなみに、私の両親は浄土真宗でしたが、

母は結婚前には 東京で洗礼を受けていたと

言う話でした。

 

それに、母の弟であった私の鹿児島の叔父は、

浄土真宗であったにも拘らず、

キリシタンの歴史に詳しい郷土史家でした。

信徒の人たちが博物館に来たときには

キリシタンの歴史を教えていたそうです。

 

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久々の故郷なので、佐世保バーガーとともに有名とされている

「レモン・ステーキ」を食べに行くことに・・・ 

 

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ひと昔前に一度有名なお店で食べようと行ってみたものの

満員御礼で食べそこなった レモンステーキ。

仇をとりました。 

 

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この佐世保の老舗レストランは、カレーライスと

シュークリームで有名な 蜂の家。

勿論 シュークリームは欠かせません。

 

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お隣の白ばらも昔からのレストラン。

佐世保名物「レモン・ステーキ」と一緒に

長崎名物「トルコ・ライス」もやっていました。

 

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米軍基地もある佐世保には、こんなお店もあります。

 

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ホテルの近くには ちょっと気になるバーもあったんですが。

明日は朝が早いので、自粛・・・

 

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ツアー3日目はこれで終了。

 

4日目は 世界遺産のひとつ、佐世保市の黒島に

行きます。 

 

― その4 - に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月22日 (金)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その34 KYだったバウチスタと 間が悪かったサン・フェリペ号の土佐漂着

 

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p265

 

イエズス会贔屓のグレゴリオ教皇のあとを襲ったシスト五世

が「フランシスコ会は東インドおよび中国のすべての地域で

修道院や司祭館を建てることができる」という小勅書を

出したのだから、日本を中国の一部とすればフランシスコ会が

日本で活動することは合法的だという論法だった

 

p267

 

秀吉の書状は船長カルパハールがマニラにもっていったが、

・・・着いたのは1594年4月15日だった。

これに先立って、3月24日、総督はスペイン国王にあてて

手紙を書いている。

日本は今年でなければ来年襲ってくるであろう

まだ使節が返事を持って来ないが、監視を怠らず、要塞や

小砲を準備している。・・・セブ島に・・・昨年到着した

大型船サン・フェリペが停泊している・・・」

 

・・・刻一刻と、確実に、二十六人の殉教へとことが

運ばれていく・・・

 

=== フランシスコ会がマニラから日本に入った時、

    母国ではポルトガルがスペインに飲み込まれ、

    教皇が替わり、日本で既得権を持っていた

    イエズス会と 新参者のフランシスコ会などが

    すったもんだしていたんですねえ。

    それも、日本事情が分からないフランシスコ会だった。

 

 

p268

 

・・日本に返書がくるまでとどまっていたバウチスタ師らは、

自分たちが住む場所を秀吉に要求し・・・許可した・・・

彼らの家では説教したり集会をしてはならないと厳命・・・

しかし司祭らはおかまいなしに・・・

 

p269

 

その記録は・・・第一次史料だから・・

・・最初から公刊される目的で書かれたものではないので、

あまり政治的な配慮がない。 彼はバウチスタの態度が

いかに秀吉や武士たちを挑発するものだったかを教えてくれる。

 

p270

 

「会見に及んだとき、・・・通訳は「臣下として太閤に応答せよ」

と求めた。 ・・バウチスタは「わたしたちの国王および国民は

全世界の主である天主のみを王として認めるのであるから、

殿下に対して臣下として対するべきではない」と答えた。

太閤は激しい怒りとともに「マニラに帰れ」と言った・・・・」

 

p272

 

フランシスコ会は貧者の味方であり、慈善の精神をもつ宗派

であって、今で言うハンセン病棟のある病院を作り

貧者を救うことに熱心であった。

・・・秀吉の甥秀次さえ寄付をしたそうだが、秀次が秀吉に

切腹させられるとまずいことになった・・・・・

 

=== このハンセン病(らい病)患者については、  

    フィリピンの大学で使われている教科書にも

    次のように書かれています:

 

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/83-bacd.html

「1614年に高山右近に率いられたグループとは別に、

もっと多くの迫害された日本人キリシタンが、その後にも

マニラに到着した。1632年に、日本当局は、船一隻のらい病

患者の人びとをマニラへ送った。これらのらい病患者は、

フランシスコ会の修道士たちの下に置かれ、San Lazaro

病院でよく世話をされた。」

 

・・・ただし、これは徳川家光の時代だったようです・・・

 

「日本人移民の増加と減少

前述のとおり、1570年に、Goiti元帥はマニラで20人の

日本人を発見した。 1592年、秀吉の侵略の脅威があった

時には、フィリピンに300人の日本人居住者がいた

日本でのキリスト教徒の迫害と排斥にともない、マニラには

次々に日本人が落ち着くことになった。

1619年、日本人の人口は2,000人に達し、1612年

には、この数字は3,000人に増え、スペイン時代では

最高の記録となった。 」

=== ああ、ここでも編集がきっちりされていませんね。

    1612年じゃなくて、1621年でしょうね。

 

 

 

p273

 

・・・メキシコとフィリピンの場合、宣教師は強力に組織化

された国家や宗教を相手にしたわけではなく、・・スペインの

植民地であった。 しかし日本の場合はまったく事情がちがう

・・・フランシスコ会士はそのことを理解できなかった。

 

p275

 

1596年10月19日に、マニラからメキシコに行く途中の

スペインのナウ船サン・フェリペが土佐の浦戸の浜に漂着

して座礁した。

・・・これから太平洋を横切る航海をはじめようというときに

猛烈な台風にあってしまい・・・

・・・一か月以上漂流を続けたが、・・その後二度の台風

に見舞われながら日本近海をさまよい・・・・

 

 

p277

 

・・・・難破が10月19日で、・・・25日に大阪に着いて

・・27日にはこの船を没収することが決定していた・・・

 

 

p278

 

バウチスタは秀吉に抗議文を送った。

これは当時の状況では正気の沙汰ではなかった。

これらのことは殉教の一週間後、司教が裁判を行って

種々の証言を集めた結果わかったことである。

 

 

p281

 

フランシスコ会のオイテンブルグは、「当初没収を望んで

いなかった」秀吉がなぜその方向へ傾斜したかについて、

秀吉のその当時の経済的、政治的状態が最悪だったせい

と書いている。

 

=== はい、ここでその原因として挙げられているのが

    以下の3つです:

    - 朝鮮侵略の失敗

    - 火山の噴火、京都、伏見、大阪、堺に大被害

    - 巨大台風の襲来

 

 

p284

 

ペレス師の「宣教師の殉教に関する書簡」によって

ラウレス師が書いた・・・・

増田は船長に向かって、彼とその部下は海賊であって、

日本征服に来たのであり、メキシコ、ペルーおよびフィリピンで

やったように、この日本征服のためにフランシスコ会の宣教師

を派遣したのだろうと言った・・・

 

p285

 

・・このときこの航海士は、スペイン王の世界的領土征服に

ついて述べ、その征服にはカトリック神父が先駆的な役割

を果たすのだと言ったとされている。

このひとことが、秀吉の怒りを買って、フランシスコ会を

はじめとするキリシタンの大量処刑に発展したとされてきた

 

 

p286

 

高知県中央図書館蔵の「南蛮絵図」が、サン・フェリペ号の

問題の世界地図の写しだと特定された。

・・・空欄に日本語で増田右衛門尉が太閤の命令で来たとき

に南蛮人がもってきた絵図の写しであると由来が書いてある。

 

p287

 

これらの記録は、少なくとも、イエズス会側では迫害の原因

がスペイン人船員の言動にあって、自分たちのせいではない

ことを証明しようという立場で書かれていることを

割引して読まなければならない。

・・・秀吉側にとっても民衆が聞いたら非常に愛国心を

刺激される上に、宣教師やキリシタンを売国奴、スパイと

見させるにはすばらしい宣伝になった・・・

 

=== なるほどねえ。

    いろんな本を読んでみても、大体がその船員の

    せいにされていますよね。

    しかし、ちょっと注意して史料を読んだ方が

    いいよと、著者は言っているわけです。

 

p290

 

秀吉はイエズス会士は無罪にするとしたが、フランシスコ会士の

死刑は譲らなかった。

・・・石田は最後まで希望を棄てず名簿を最小限にし・・・

・・・ところが12月30日、施薬院が、また秀吉に迫り、

・・・秀吉はすぐに石田を呼び、彼らの耳と鼻を削いで

京都、大阪、堺を引き回しの上、長崎で処刑するように命じた。

 

 

こうして十六世紀における、最初の大規模な殉教が起こった

のである。 ・・京坂の・・・二十六人が捕らえられ、

徒歩で長崎に曳かれ、1597年2月5日長崎の西坂で

十字架に架けられた。

 

05_076


p291

 

西欧世界ではこの事件についての同時代の史料はうなるほど

ある。 その理由は、二十六人の信徒の磔刑という大規模な

殉教は、少なくとも近世では、ほかの国では起こったことが

なく、ただ古代ローマの大迫害時代にしかその例を見なかった

ので、全世界のキリスト教徒に戦慄を与えた歴史的事件

だったからである。

そのためキリスト教世界の各地に日本二十六聖人殉教の

祈念碑や絵画が残っている

 

=== ということで、昨年世界遺産になった

    長崎の大浦天主堂や二十六聖人の記念碑などは

    一気に脚光を浴びているわけですが、

    このような歴史を知らなかったのは

    300年近くも世界に向かって窓を閉じていた

    日本だけだったのかもしれないですね。

    しかし、よくまあ、その後、ヨーロッパの

    どこの国も日本を攻めなかったもんですね。

 

< その35に続きます >

 

 

 

 

 

 

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2019年2月 2日 (土)

若桑みどり著「天正少年使節・・」を読む - その3 日本人は礼儀正しいが、好戦的だ

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

002_2

 

 

p95

 

ハンセン病などの病院を設けるための土地をあたえて

これを奨励する殿がいなかったならばこの慈善も

できなかっただろう。

このようなことをしたのは豊後の大名大友宗麟だった。

 

=== ハンセン病というのは昔は「らい病」と呼ばれて

    いましたね。 キリスト教関係の映画で

    イエスが一瞬にして治すというシーンが

    今でも記憶に残っています。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンセン病

    日本ではつい最近までいろんな迫害というか

    小島に隔離などの方法がとられていた病気です。

    「外見上の特徴から、日本では伝統的な穢れ思想を

背景に持つ有史以来の宗教観に基づく、神仏により

断罪された、あるいは前世の罪業の因果を受けた者

の罹る病と誤認・誤解されていた(「天刑病」とも

呼ばれた)。」

 

この日本のハンセン病患者については、

徳川家光の時代にフィリピンとの関係が

出てきます。

 

 

p103

 

このように大友とザビエルの双方が日本人をローマに送って

世界の情報を日本に知らせたり、世界に日本人のすぐれている

ところを知らせようとしたということを考えたのが、

早くも1552年のことだったということを忘れてはならない。

やがて三十年近くのちに・・・・・・

 

 

p105

 

ザビエルは戦国の日本人の殺傷をその目でたくさん見たので、

日本人が暴力的で強欲だという感想は持っただろう。

 

「日本人は自分たちを非常に高く評価している。 

彼らは自分たちの勇気や武器の扱いにまさるいかなる

国民もないと思っているからである。

そのため彼らは自分以外の国をすべて軽蔑している。

・・・彼らは刀や剣を家のなかでも外でも持ち歩き

眠るときにはまくらもとに置いて寝る。

わたしは人生のなかで、これほど武器に頼っている人間たち

を見たことがない。

 

・・・彼らはたがいに非常に礼儀正しい。しかし外国人には

その鄭重さを示すことがない。・・・・

彼らは非常に好戦的で絶えず戦争をしている

彼らはひとりの王(天皇)をもっている。 彼らはしかし

百五十年ものあいだこの王には従っていない。」

 

 

==== 日本人は礼儀正しいけれども非常に好戦的な

     人種だというイメージはこの時代から

     あるんですかね。

     第二次大戦の時も、もしかしたらこのような

     対外的イメージはあったのかもしれません。

     日本人は一見紳士的でも、ブチ切れますから

     ねえ。 怖いですねえ・・・・

 

     フィリピンとの関係で言えば、倭寇の好戦的

     なイメージはフィリピンの歴史の教科書にも

     出ているようです。

 

     「Tayfusa日本人の海賊の王国を作ってた??」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/79tayfusa-d8af.html

     「2年後(1572年)、Juan de Salcedo船長は、

マニラからイロコスに航行中、3隻の日本の海賊の

ジャンク帆船にパンガシナン海岸沖で遭遇し、猛烈な

戦闘後に追い払った。」

 

 

 

 

p107

 

このような義鎮(宗麟)のキリスト教保護政策と、

前に述べた病院や慈善などによって、大分はキリスト教布教が

もっとも盛んな土地になった。

・・・山口にあった布教本部が豊後に移って、布教長トーレス

府内(大分市)に移ってきたので、これ以後ここが

日本キリスト教の布教本部になった。

 

== 大友宗麟については、キリシタンの歴史の中

   では、最初は良かったけれど、どんどん勢力が

   後退してしまって、キリシタンも長崎の方に

   追い詰められて行ったようです。

   その影響か、巡察師ヴァリニャーノも後々

   苦労することになっていくようです。

 

   http://oitahistory.jp/ootomosourin.html

   「周防・長門(すおう・ながと、現在の山口県)

博多(はかた、現在の福岡県)を支配していた大内氏

の滅亡後、一族を当主として送り、また肥後(ひご・

現在の熊本県)の菊池氏を1554年に滅亡させて支配

するなど、勢力を拡大します。そして、1559年には

幕府の信任を得て九州探題にも就任するなど、権力も

確立していきました。この直後に出家し、休庵宗麟

(きゅうあんそうりん)という法号を得て、これが現在

よく知られている宗麟の名のもとになります。

 

   しかし1570年、今山の戦いで肥前(ひぜん・現在の

佐賀・長崎県)龍造寺(りゅうぞうじ)に敗れ、

肥前国の征服に失敗してしまいます。この後に長男

の大友義統(おおとも よしむね)に家督を譲り隠居を

始め、1577年にはキリスト教の洗礼を受け洗礼名を

「ドン・フランシスコ」と名乗りました。」

 

 

p121

 

フロイスは、・・・・・・

宣教師にはそれがひたむきな殉教へのあこがれに見えた。

しかしこれはすこしちがう。

この人たちは、そこを死に場所だと思った。

戦国の世の中では命はだれにとっても不確かで長くない。

みな死に場所を探し、せめてその名誉ある死でこのはかない生を

まっとうしようとしていたし、そう教えられていた。

 

 

p123

 

イギリス人のリチャード・コックはこう観察する。

「この日本の国の統治は、世界にもかつて類を見ないような、

おそらく世界で最大最強の圧政である。君主に対してすべての

国民はさながら奴隷である。」

 

岡田章雄氏は・・・日本でキリスト教が敗北した原因は、

神仏信仰と拮抗したからだけではなく、封建社会の道徳が

これによって破壊される危険があったからだと述べている。

 

=== 絶対王政の西欧からみても、日本はとんでもない

    殺戮満載の国だったようです。

    もちろん、西欧も乱世の時代を通じて世界征服

    での安定が出て来たのでしょう。

    おいおい出てきますが、日本が秀吉によって

    統一されてやっと、スペインを中心とする王政

    に近くなるようですが、それでも、キリスト教か

    天皇かという部分での違いが根本的な違いと

    して語られています。

 

 

p123

 

秀吉や家康のキリスト教迫害が本格化し、

君主か神かというふたつにひとつを選ぶように迫られる

ような事態になると、・・・・あるいは神をえらんで

殺されることになる。

 

 

p126

 

およそ武士道と言われるものは、人を死にやすくする教

である。 これは中世において「弓矢の道」と言われ、

主君への献身、そのためには死を恐れぬ勇気という戦闘者の

教えであって、まさしく戦国武士に求められたものである。

 

 

p127

 

武士道とは死ぬこととみつけたり」という極端な

思想に凝縮され、近代現代の戦争時にも有効に作用して

若者に死ぬことを教えた。

 

生きていても辛いだけの凄惨な貧困にある者には、

ここで死ぬことによって至福の天国に再生する望みを

与え・・・・異なった階級で、異なった思いで、

人びとは死ぬために教会に歩いていったのである。

 

 

=== 武士道は侍の論理になるのでしょうが、

    庶民からすれば、戦乱の中で奴隷のように

    つかわれ、今日戦乱の中で殺されるか

    あるいは飢餓の中で死ぬかということに

    なると、一向宗(浄土真宗)みたいな

    ものに結集するということになったの

    でしょうね。

    私には、浄土真宗はキリスト教と

    限りなく近い一神教だと見えます。

    死ねば阿弥陀様に迎えにきてもらえる。

 

 

p131

 

仏教や神道はただ個々の人間の信仰や心の問題ではなく、

日本の国家の構造もそのものになっていた。 だから、

新しい宗教がきたとき、この構造を支えている支配階級の

人にとっては、その新しい宗教に走ることは、自分の身分や

地位、そして経済的基盤や支配の形式さえも破壊の危機に

さらすことになってしまう。・・・・

いっぽうなにもこの地上にもっていない圧倒的多数の

貧困な人びとは、この世においてこれ以上失うものは

何もない。・・・・この世になにも失うもののない人びとは、

それだけ自由なのだ。

 

=== ここが本を読み終わったあとも分からない

    点なんですが、秀吉や徳川が禁教に向かった

    一番の事情はなんなのでしょうかねえ・・・

    スペインの侵略への懸念だったのか、   

    あるいはキリスト教の拡大によって

    日本の基本構造が潰されることへの懸念

    だったのか・・・・

 

 

<その4に続きます>

 

 

 

 

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2018年8月14日 (火)

MRI検査に行ったら西川口で国際通りを発見・・・・

去年の人間ドックで 要精密検査になっちまったもんで・・
まずはMRI検査の前に 腹ごしらえ・・・・
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MRI検査は、食事制限がないから楽でいいっすねえ・・・・
007
流石に日本の検査センター・・・
整然としていて「お客様は神様」でした。
。。。
。。
008
そして、MRI検査をしたんですが、
結果が出るのは3週間以上掛かるってことでした・・・・
・・・
その結果ですか?
・・・
なんと、さらに精密検査が必要になっちまいました。
10月に再度 一時帰国する羽目になりました。
。。
。。
それはともかく・・・
。。
020
西川口の西口周辺・・・・
国際的な飲み屋街だったことを発見。
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シルクロードってのは 国籍不明な感じですが・・・
。。
。。
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まあ、中国料理は当たり前ですが・・・・
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中華の食材屋さんもあり・・・・
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こちらは福建料理とありますね・・・
。。
。。
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こちらは焼肉店・・・韓国系ですかね?
。。
。。
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こちらは正真正銘 韓国居酒屋・・・です。
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こちらには 韓国式サウナの看板があります・・・・
。。
。。
026_2
タイ料理店発見・・・・・
・・
・・
032
一番左にも タイ料理の看板が見えています・・・・
一番向こうには 上海亭の看板・・・・・
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インド料理もありますね・・・・・
。。
。。
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こちらは なぜかヒューストン・・・・アメリカは関係なさそうだけど・・・
。。
。。
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・・・そして、駅のすぐ近くには・・・
フィリピンと韓国・・・・
・・
。。
040
・・・そして、西川口の駅・・・・
・・
・・
043
駅から見える看板には ベトナム料理も見えます。
。。
。。
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・・・川口警察署から こんな注意書きもあったんで、念のため・・・
・・
・・
皆さん、注意して、お楽しみください。
。。
。。
 

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trip to Hakata/Fukuoka - Reunion with my sisters and Highschool friends

福岡の、いわゆる老人ホームにいる姉のところで、3姉妹と戦略会議・・・
そして、高校時代の同期生と久々の飲み会・・・・
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conference meal with my 3 sisters  in care home of eldest sister,
who is 83 years old....
..
..
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長崎のカステラと言えば・・・・
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女3人寄れば・・・・・やっぱこれか・・・
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トドメは これだもの・・・・シュークリーム・・・・
。。
。。
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。。
。。
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・・
・・
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壱岐は麦焼酎発祥の地・・・でしたか。
長崎県人としては嬉しい・・・・・
。。
。。
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50年前の若者たち・・・ high school mates   after  50 years....
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そして、親不孝通りへ・・・・・・
 

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2018年8月13日 (月)

床屋の会話は難しい。今日はコミュニケーションの難しさの件。

6月に一時帰国して以来、日比友好イベントのことなどで
ジタバタしていて、ブログの更新をさぼっていました。
.
さて、久々ですが、
今日 台風14号の余波で、大雨続き。
すべての学校が休校になる中を、
明日のマニラ行のチケットを買いに
勇気を振り絞って街中まで行って来ました。
.
街まで出たついでに、床屋に行ったんです。
そこで、コミュニケーションの難しさをつくづく感じることがあったんです。
.
床屋の椅子に座っていまして。
お兄ちゃんが髪を切りながら、
「カラー、カラー」、「ホワイト、ホワイト・・」 と言ったんです。
.
鏡を見ると、両側に白髪がみえるんです。
私は、やっと年相応の白髪が出て来たか、と思って、
「OK」 と一言。
.
その後、しばらくして、お兄ちゃんが、
「カラー? ブラック? ブラウン?」
って聞くんです。
.
みりゃあ分かるだろう、俺の紙の色は黒だよ・・と言う思いで、
「ブラック」
って言ったんです。
.
すると、しばらくお兄ちゃんの姿が消え、
戻ってきたかと思ったら、なにやら小鉢で混ぜてるんです。
.
ひげ剃りも頼んだんで、髭剃り用のシャンプーだと思ったわけ。
すると、お兄ちゃんは 私の髪の毛の左側に
その練ったものを刷毛でつけ始めた。
.
「おい、おい、それ何??」
「カラーですけど・・・・」
「要らないよ、要らない・・・」
.
お兄ちゃんは 申し訳なさそうに
その刷毛で塗ったところを 擦り始めたんです。
.
髭剃りを終わってから・・・・
「あなたが聞いていたのは、ヘア・ダイしたいか?
髪を染めるかっていうことだったの?」
.
「はい、そうです。」
「ああ、そうだったの。
 私の理想は、自然に白い髪になることなんだよ。」
.
床屋のお兄ちゃんは、仲間と一緒に笑っていました。
.
もっと言うなら、
若い頃に憧れた、
ユルブリンナーの頭だけど・・・・・・
.
.
単語だけの会話は、思わぬ誤解を生みますねえ。
 
 

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2018年4月 3日 (火)

日本語教師症候群 - 「出せていける」と「出していける」って何?

 

NHKのニュースでのテロップ。

水泳選手のインタビューの時にこんな字幕が出たんです。

 

(A)「・・・記録を出せていけたらなと思います。」

という水泳選手の画像の下に・・・・・

 

(B)「・・・記録を出していけたらな・・・」

 

・・・「出せていけたら」を「出していけたら」と書き換えていた。

 

仮に英語で言うとするならば、

 

(Ae)「 ・・・if I can go to be able to record・・・・」

(Be) 「 ・・   if  I can go to record ・・・」

 

(こんな英語があるかどうか知りませんが・・・とりあえず参考

 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/6352044.html )

 

何が言いたいかといえば、

(A) は 「出す」の可能形「出せる」から「出せて」と、

その後に、「行く」の可能形「行ける」から「行けたら」を

使っているわけです。 

可能形を二重に使っているんですね。

(B) は 「出せて」の代わりに「出して」という

日本語教育では「て形」と呼ばれる形を使っています。

可能形は一回しか使っていない

 

ここで この文法の議論はするつもりはないんです。

私が知りたいのは、

日本人は小学校や中学校で「日本語の書き方」をいわゆる文法を

踏まえて教えてもらったことがあるだろうかということなんです。

 

作文の時間はありました。

それは覚えているんですけどね。

でも、赤ペンで添削されたことはあっても、日本語つまりは国文法

というものに照らして、日本語で文を作るときは

「こうなくてはならない」というような指導を受けた記憶がないんです。

 

国語の先生をやっていた年配の女性から、聞いたことがあるんです。

外国人に日本語を教えるということと、日本人に国語を教える

ことは全く方向性が逆なんですね。

国語は 解釈を教えるだけなんです・・・・

つまり、文を積み木のように積み上げて表現するという

ことは教えていない・・・ようなんです。

 

文章を書くというのは、日本の子供達にとっても

重要な勉強だと思うんですけどね。

最近流行りのコミュニケーション能力を育てるという意味では。

 

上の例文でいってみれば、

 

「出せていける」というように可能形を二重につかうのは

文法的に間違いである、「出していける」のように後段だけに

可能形を使うのが文法的に正しいのだ・・なんてことです。

 

現実の日常生活では 実際のところ上記二つの例文が

どのように使われているのか、ちょっとチェックしてみました。

ただし、「出していける」「出せていける」は実際にはあまり使われ

ないだろうと思い、「暮らしていける」と「暮らせていける」のふたつ

でどのくらい使用されているのかを検索してみます。

 

GOOGLEで検索してみると」

 

「暮らしていける」・・・・ 50件以上ヒット

「暮らせていける」・・・・ 17件ヒット(10ページまで)

 

およそ 3:1の割合で「暮らしていける」の勝ちですね。

 

どんな言語も日々変化しているので、どうでもいいっちゃ

どうでもいいんですけど、日本語教師としては どういう言い方が

基本的で間違いがないかという観点から教えなくちゃいけないもんで。

 

NHKのテレビのテロップは 非常に勉強になります。

 

 

 

====

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2018年3月 5日 (月)

夢を見まして・・・・意味が先か言葉が先か、それとも映像か?

 

 

最近 夢をふたつ見たんですけど・・・

 

その1:

 

5~6人だったと思う。

気が動転していたんではっきりは数えられなかった。

男たちがぞろぞろと私の下宿の部屋に何も言わずに入ってきた。

 

身の危険を感じたんで、後ずさりしながら、部屋を出た。

2~30メートル走りながら

大声で助けを求めた。

「たすけてくれ~~、どろぼ~~だ~~」

二人の男がやってきてくれた。

 

そして、部屋に戻って 見廻すと、

もう男たちはひとりもいなかった。

パソコンが無くなっていた。

 

去年の11月に秋葉原で買ってきたものだったのに。

そして、昨日買い替えたばかりの

NOKIAの携帯電話も・・・・

・・・・あ~~あ、・・・・

 

とがっくりして、目が覚めた。

・・・深夜2時か3時ぐらいだったと思う。

寝なおした。

最近の夢は リアルで 困る・・・・

 

 

その2:

 

私は何故かトイレの中。

洋式トイレに座っている。

座っているってことは「大」ですね。

 

どうも、雰囲気的には45年ぐらい前の新婚時代。

家内が2DKぐらいの綺麗なアパートのベランダで

洗濯物を取り入れている・・・

 

なんで、トイレに入っているのにそんな様子が見えるのかが

考えてみれば不思議・・・

 

そこへ突然来客・・・

玄関から誰かが入ってきて

いきなり開けっ放しのトイレのドアから

シェパード(犬)が顔を出した。

 

そして、トイレに座っている私をじっと見る。

私もじっと見返す。

その来客は高校時代の友人だ。 

シェパードと睨みあったまま

「吠えるんじゃないぞ・・・・」

 

これを「雪隠詰め」と言うのであろう・・・・

にっちもさっちもいかない状態で目が覚めた。

ジャンジャン

臭い話で すんもうはん・・・

 

・・・・・・・

 

かなりリアルな夢だったんで

ふと こんなことを思ったんです。

 

夢というのは、意味が先なんだろうか、

それとも 映像が先なんだろうかと・・・

 

夢の中に出てくる人の顔なんかは

そんなにはっきりと誰かなんて見えちゃいないと思うんです。

でも、それが 誰だというのがはっきりと分かる。

 

上記の夢の場合だと、

泥棒(数名の男)、今のバギオの下宿、パソコン、

新婚時代らしい、2DKのアパート、 家内、

そして高校時代の友達・・・・

 

夢の中の映像がはっきりしているわけでもないのに

泥棒は別として 特定の個人だと思ってみている。

おまけにそこになんらかの意味がある・・ように思ってしまう。

 

だから、意味があって、そこに映像がくっついて

出てくるのかな・・・と思ったわけです。

 

そして、意味が先だとするならば、

そこには言葉というか言語があるんだろうか・・・って。

 

意味あるいは現実の事物があるから

そこに言葉をくっつけたということでいえば

意味が先だってことになるんでしょうが

夢を起動させるものは 意味なのか言葉なのか・・・

 

一方で、こんな考えもあります。

以前 NHKテレビ番組のTEDで見たんですが、

物事を考える時に 言語で考えずに

映像で考えているというアメリカの大学教授の話があったんです。

一般的には言語で物事を考える人が多いと思うのですが

どうもそういう人たちばかりじゃないらしい。

 

「テンプル・グランディン: 世界はあらゆる頭脳を必要としている」

https://www.ted.com/talks/temple_grandin_the_world_needs_all_kinds_of_minds/transcript?language=ja

 

「絵で考えるという事は脳内で 映画を観るようなものです 私の脳はGoogle画像検索に近い 子供の頃 自分の思考法は変わっていると知らず みな絵で考えていると思っていました “Thinking in Pictures”という本を書くために 人々に思考方法を尋ねました そこで 自分の考え方が 人と違うことを知り ショックを受けました 「教会の尖塔について考えよう」と言えば 大半の人は一般的なものを想像します この会場では違うかも知れませんが 他の多くの場所では真実です 私の場合はGoogle画像検索のように 具体的な画像が次々と浮かんでくるんです 映画の中でも上手に描かれていて 「靴」という言葉が発せられると 50年代60年代の 靴がたくさん 私の脳内に浮かぶんです」

 

・・・これはもしかしたら、映像の方が言語よりも先だ

ってことを暗示しているんじゃないか・・・と思ったわけです。

 

私の脳の中に記憶されている映像が

夢の中でストーリーを伴って、あるいは脈絡もなく写し出される。

その映像に繋がりを持った意味が再生される・・・ような。

 

上のリンクの中で、それを「視覚的思考」と呼んでいます。

ってことは、人間の五感を考えると、それぞれに思考と

結びついている五感というのがあるのかもしれない。

 

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚それぞれの思考。

 

もちろん、この五感がセンサーですから、言語よりも前、

つまり根源的ということになる。

 

ってことは、やっぱり夢は映像が先だって話になるんですかねえ。

さて。、ここで、五感に障害がある人の場合はどうなるのか。

一番有名な耳と目が不自由だったヘレン・ケラーで検索してみると

サリバン先生の教え方が書いてありました。

 

http://www.cocoro-skip.com/fukushi/10148.html

サリバン先生

「障害のない子供はどうやって学ぶのだろうか?そうか!それは、人のまねをして学んでいくのだ。 人間というのは、生まれつき学ぶための本能が宿っており、そこの部分に刺激を与えれば自然と学ぶ生き物ものなのだ。 障害のない赤ちゃんは耳に話しかけている。ならば、わたしは手に話しかけよう」

 

ヘレン・ケラーは気が付くのです。

「そうだったのか!すべてのものには名前があったんだ。この指文字で、知りたいことを知る事ができるのね」

 

「ヘレン・ケラーの左手は、サリバン先生の口のあたりに触れており、「鼻」・「唇」・「喉」の動きで、話の内容をとらえています。」

 

「先生の顔に手を触れて、発音時の舌と唇の動きを真似る事で、しゃべれる努力をしたのです。 そして、自分の意志で初めて発した言葉が、「It is warm」(暖かい日)でした。」

 

・・・ここでは、指と唇などの触覚ですね。

触覚で言葉を覚え、言葉で考えていることになります。

 

もしかしたら、上の話が視覚的思考であれば、

ヘレン・ケラーの場合は触覚的思考ということに

なるのかもしれません。

(ただし、視覚的思考が、視覚で直接的に思考するのに

 くらべ、この触覚的思考が直接的なものかどうかは

 疑問が残りますが・・・)

 

しかし、触覚というセンサーの刺激が脳に記憶され

その刺激が言語に変換されているとすれば、

夢の中では その原始的触覚の刺激が 視覚の刺激と

同様に働くことがあっても不思議ではないかもしれません。

 

つまり何がいいたいかと言えば、

五感の根源的刺激が夢を作っているんじゃないかって話です。

 

その根源的刺激が脳の中で再生されて

その再生されたものに意味つまり言語が後付けされてんじゃないか・・・

 

・・・脳科学者の皆さん・・・どんなもんじゃろか?

 

 

ここまで書いたところで、

脳科学者の研究がどんな分析をしているのかを検索した方が

早いなってことで・・・・

 

見っけ・・・

「「夢のお告げ」は実在する 脳科学で仕組みを解明 日経サイエンス」

https://www.nikkei.com/article/DGXBZO59902100Z10C13A9000000/

 

「活性化している脳領域は覚醒時とは異なる。夢を見ているときは、

大脳皮質のうち視覚や動きの感知に関わる部分が活発に活動する。

情動に関連した部分の活動も活発だ。」

 

「このひとつの解釈は、思考を論理的で既知の事柄に制限している

「思考の抑制作用」が弱まり、常識にとらわれない思考を

することで、独創的な発想や、問題解決が導かれるというものだ。」

 

・・・「感知に関わる部分」とありますねえ。

 

こちらのサイトでは、

- 脳科学辞典

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/

 

「夢とは、ヒトが睡眠中に体験する明瞭な感覚・意識体験であり、

現時点でもっとも妥当と思われる夢の定義は、「ヒトが睡眠中に

受容する、感覚・イメージ・感情そして思考の連続体であり、」

 

・・・ここでも、感覚、イメージ、感情などの言葉が

並んでいますね。

 

なんか、当たらずとも遠からずの線じゃないっすか??

 

 

 

 

 

======

 

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2018年2月19日 (月)

「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読む - その8(完)

 

「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読む - その8(完)

 

 

矢部宏治著 集英社インターナショナル

「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」

を読んでいます・・・・

 

さあ、いよいよ最後の章です。

「最後の謎 - 自発的隷属とその歴史的起源」 です。

 

001a

― 私も最初、史実を知ったときは、かなりのショックを

  受けました。 けれどもさらに歴史を調べてみると、

  そうして落ち込む必要など、まったくないことがすぐに

  わかったのです。

 

・・・・はい、私もショックで、こりゃあどうしたら

ええんじゃろ・・って感じです。

でも、この著者は、

 

― 現在の日本が直面する苦境とは、実は日本人みずからが

  生み出した認知上の歪み(ひとことでいえば、

  「自発的隷属状態」)に主な原因があり、問題を整理

  して再出発することができれば、まだまだ日本の未来には

  無限の可能性があるからです。

 

・・・ってことで、この著者の処方箋を見ていきます。

 

― 結論から言えば、その答えは、

  「歴史的経緯のなかで、日本人自身が米軍の駐留を希望したから」

  「そこには昭和天皇の意向が大きく影響していたから」と

   いうことになります。

 

・・・確かにここまで読んでくると、この二つが結果的には

日本国民が落としどころみたいなものにしたと思えます。

 

 

― 結局はソ連がすでにヤルタ密約で対日参戦を決めていた

  こともあって、・・・・日本政府内で決定された和平条約

  の具体的条件は、

  「国土については、将来の再出発のことも考え、なるべく

  多く残すよう努力するが、最悪の場合、「固有本土」が

  残ればよしとする」となっていました・・・

  「沖縄、小笠原、樺太を捨て、千島は南半分が残ればよい

  とする」ものだったのです。

 

― 天皇の顧問、寺崎英成氏・・・・アメリカが沖縄その他

  の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望して

  いると、明言した。 天皇の見解では、そのような占領は、

  アメリカのためになり、また日本にも保護をあたえることに

  なる。

 

・・・そうですか。「固有本土」という言い方があったんですね。

だから、元は琉球王国だった沖縄は切り捨てられた。

 

実は、私が今住んでいるバギオ市に通ずる「ケノン・ロード」

という山岳道路は、1905年にバギオに米軍の高原保養地を造る

ために、日本人労働者も参加して建設されたんですが、

その時に本土からの日本人は1903年、そして沖縄からの

日本人労働者が1904年にバギオ入りしているんです。

 

今あるバギオの日系人会名簿の中に沖縄出身の人の名前が

ほとんどないので、不思議に思って調べたところ、

道路工事で亡くなった人たちの慰霊碑も別々だし、

当時のダバオ市あたりのマニラ麻生産に従事した日本人の

中でも、沖縄からの人たちは、地元のフィリピン人からも

本土の日本人とは別の日本人と見られていたとの記事が

ありました。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/08/post-44c5.html

 

少なくとも戦前には差別があったことは事実のようです。

 

それに、今現在の中国が、尖閣諸島などを中国の領土だと

主張するのも、このあたりの歴史にその理由を求める

のでしょうね。

 

 

― (アメリカの)国務省は、沖縄を非軍事化したうえで

  日本に返還することをふたたび主張し、同時にアメリカの

  世論も、軍部による南海諸島の戦略的信託統治構想を、

  「偽装された領土の併合である」

  「国連におけるアメリカの道義的地位をそこなう」と

  批判していると書いています。

 

― 翌1947年になっても、沖縄返還をめぐる国務省と

  軍部の対立はつづいていました。

 

― 「天皇のそのような措置(=米軍による沖縄の軍事占領

  の継続)は、ソ連の脅威ばかりではなく、ソ連が日本に

  内政干渉する根拠に利用できるような「事件」を引き起こす

  ことを恐れている日本国民のあいだで、広く賛同を得る

  だろうと思っている」

 

― 米軍駐留を日本側から、しかも昭和天皇が日本の支配層の

  総意として要請した。

 

― 冷戦の始まりによってアメリカの世界戦略が変わり、

  対日軍事政策も、従来のマッカーサー路線(本土は非武装化

  し、代りに沖縄を軍事要塞化する)から、冷戦対応型の

  新しい路線(沖縄にも本土にも巨大な米軍基地をおき、

  日本全体を反共の防波堤にする)に方向転換したからです。

 

米軍の日本への駐留に反対のアメリカ国民は

多かった。国務省もそうだった。 しかし、戦後の冷戦

に突入するなかで、「アメリカに駐留してもらった方がよい」と

日本自身が考えたってことですね。

 

― 日本国憲法のふたつの欠点

 

― ひとつは・・・「自分で書いていない」ということ。

  ・・・その内容を命がけで守るという社会勢力が

  いなければ、どんな理想も絵に描いたモチに終わって

  しまいます。 それがいま、まさに日本で起きている

  ことだと私は思います。

 

― もうひとつは憲法九条二項ですが、・・・なにより

  重要なのは、九条一項(戦争放棄)と二項(戦力および

  交戦権の放棄)をはっきり分けて議論するということです。

  ・・・「憲法九条を守れ」とひとくくりに主張してしまうと

  米軍を撤退させることが永遠にできなくなってしまうのです。

 

― この条文(憲法九条と国連憲章二条)は多くの挫折を

  経験しながら、現在もなお国際社会の基礎でありつづけて

  います。 こうした不戦条項は日本だけのものでなく、

  イタリアやフィリピンなど、多くの国にも存在します。

 

― みずから希望して九条を執筆したケーディスも、その主な

  目的は、「日本を永久に武装解除されたままにしておくこと

  でした」とのべています。

 

・・・・つまり、日本国憲法はしっかり今の日本国民が

自分の手で書いて、それを死んでも守るという大多数の国民が

いないことには 単なる紙っぴらになるということですね

実際に 今の憲法は解釈改憲でぼろぼろにされていますし・・・

おまけに、裏マニュアルで 首相なんか屁でもないという

裏組織によってコントロールされている・・・らしい。

 

― 私がおすすめしたいのは、日本と同じく戦争放棄条項を

  もつ、フィリピンやイタリアの憲法から学んで、二項を、

  「前項の目的を達するため、日本国民は広く認められた

  国際法の原則を自国の法の一部として取り入れ、すべての

  国との平和および友好関係を堅持する」とすること、

  つまり国連中心主義の立場をあきらかにすることです。

 

― フィリピンはこれとほぼ同じ条文のもとで米軍を撤退させ、

  しかもアメリカとの安全保障条約を継続しています。

  したがうべきなのは国際法の原則ですから、アメリカの

  違法な戦争につきあう必要もありません。

 

 

・・・ おお、フィリピンってそんなに凄いことをやった

国だったんですねえ。

日頃からいろいろな面で、日本はフィリピンから学ぶべきこと

があるとは思っていたんですが、こんなものまで

「フィリピンから学ぶべき」リストに加わるとは思いも

しませんでした。

 

011

 

― 日米安保条約をめぐる最終交渉でダレスから、

  日本を再軍備させたうえで、その軍隊を米軍の指揮下に

  おくという条約案を見せられたとき、吉田首相はこんな

  取り決めが国民の眼にふれたら大変だ、どうしても削除

  してほしいと頼んだ。

  その代わりに、今後そうした在日米軍に関するさまざまな

  問題を議論するため、合同委員会を設けたいという提案を

  したのです。

  ・・・それが、「安保村の幹部養成機関」である日米合同

  委員会の起源なのです。

 

― ですから「オモテ側の役者」である安倍首相をいくら

  批判しても、この大きな流れを食い止めることはできません。

  ・・・唯一、状況を反転させる方法は、憲法にきちんと

  「日本は最低限の防衛力をもつこと」を書き、同時に

  「今後、国内に外国軍基地をおかないこと」を明記する

  こと。 つまり「フィリピンモデル」です。

 

― 日本がふたたび侵略的な戦争をする国になることを防ぎ、

  加えて「大地震の活動期を目前にした原発再稼働」という

  狂気の政策を止めるには、この方法しかありません。

 

・・・・皆さん、お疲れ様でした。

これで読書を完了しました。

 

私の意見ですか?

私は、以前から「どうしたもんかなあ、この閉塞状態は・・・」

などと考えてはいたんですが、そのもやもやが晴れたような

気持ちがしています。

 

基本的に、今の憲法を素直に読む限り自衛隊は違憲だと

思います。 それはちゃんと憲法を書き替える必要がある。

 

かと言って、戦争を、少なくとも侵略的戦争をするような

国であっては困る。

その為にはどうしたらいいんだろ・・・と思っていたわけです。

 

それに、一番わけが分からないのは、憲法が国会議員に

よってぼろぼろにされている、あるいはその裏で別の

グループが実質的に日本をコントロールしている。

 

その辺りの、もやもやが この本を読んですっきりしました。

なので、

最初に書いたように、この本を全国の高校生たちに授業の

副読本として是非勉強して欲しい。

 

私なんかはもうすぐあの世行きですからね。

国会議員ももうすぐ死んじゃうような輩ばかりですから

実際に今から10年後、50年後の日本を背負う若い人たちに

しっかり自分たちや、自分の子どもや孫の命ことを考えて

自分の手で憲法を書きなおして欲しいと思います。

 

是非、是非、「新・日本国憲法/草案コンテスト」を

全国の高校・大学でやってちょうだい。

きっと、「ロボコン」より重要だと思うよ。

 

 

== 完 ==

 

 

 

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