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2017年5月20日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 112  革命政府転覆の共謀とボニファシオ最後の闘い

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」

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p246 

「新しい革命政府転覆の試み」

欲求不満のボニファシオは、好意での彼の指導力を失うことを

受け入れることを拒否し、新しく樹立された革命政府を転覆

しようと努力を傾けた。 

=== さて、この後は、ごちゃごちゃといろんなことが

    書かれているんですが、重要なポイントになる部分は

    すでに翻訳したところだと思うので、

    しばらく手抜きで進めます 

p247 

ボニファシオの、アギナルドとその革命政府を転覆させる

ために軍を組織しようという計画は、子供の風船がちくりと

針をさされたように破裂してしまった

 

Naic革命会議」

アギナルド大統領は、1897年4月17日にNaicに於いて、

革命会議を招集した。 度量の大きい男は、彼に対して

ボニファシオと共に陰謀を企てたマグディワンの役員たちを

許し、その会議に彼らを招待した。

このNaic会議で、アギナルド大統領は組閣を行なった

 

p248

Naic会議で取り上げられ承認された重要事項は以下の通り:

(1)新しい国旗、赤、白、青、白い三角形の中心に

太陽を描いたものを採用し、カティプナンの赤い旗を

置きかえる。

(2)革命軍に新しい戦闘部隊を加えて再編する。

(3)軍人の制服を採用 - rayadillo

(4)軍人の階級と階級章を新しい規則で定める。 

=== フィリピンの国旗については、こちらのサイトでどうぞ:

http://philippinesflag.facts.co/philippinesflagof/philippinesflag.php 

平和な時と、戦時とでは、国旗の掲げ方が違うんです:

http://labaq.com/archives/51810242.html

=== ちなみに、バギオ市内に、「アギナルド博物館」が

    あります。 独立当時と思われるフィリピンの国旗も

    館内に展示されています。

 http://janl.exblog.jp/13856326/ 

    また、こちらのマニラ新聞のサイトには、

    戦前にバギオに住んでいた古屋正之助氏

    アギナルド大統領との関係、そして国旗の写真も

    掲載されています。

 http://www.manila-shimbun.com/navi_manila/navi_pdf/vol3/navi0309.pdf

 

p248

「ボニファシオの最後の闘い - Limbon

彼の危険な試みが崩壊した後、ボニファシオは、彼の妻、

二人の兄弟、そして忠実な兵士とともに、Limbonに逃走した。

そこで彼は、彼の基地をつくった

・・・アギナルドは・・・Limbonに派遣し、ボニファシオと

その仲間を逮捕しようとした。 

・・・ボニファシオは抵抗し、激しい戦闘となった。

いつものように、ボニファシオは負けた。

・・・ボニファシオは、・・・囚人となり1897年4月29日に

Naicに連行された。 

p248

「ボニファシオ兄弟の軍法会議」

p249

次の日(5月6日)、戦争委員会はその裁定を下した。

ボニファシオ兄弟を有罪とし、死刑が宣告された

ボニファシオは、・・・「幽閉」に変更するように命令をだした。

・・・その減刑の命令を聞いて、ノリエル将軍とピオ・デル・ピラール

は、アギナルド大統領のところに急ぎ、その減刑の命令を取り下げるよう

懇願した、それは「ボニファシオを生かしておくことは、革命運動を

危機に落し入れる」からであった。

・・・説得され、アギナルドは、減刑の命令を撤回した。 

=== 革命のリーダーでありながら、戦闘では負け続けた

    ボニファシオ。 そして、革命政府転覆の共謀罪。

    なぜ、このボニファシオが人気があるのか、

    フィリピンの人たちに聞いてみないといけません。

    この本の著者がスペイン系の人らしいので、

    そこになんらかの理由でもあるんでしょうかね。

    この本自体がアギナルドに偏っているとか・・・

・・・ さて、次回 113号は 革命運動の章の最後の部分です・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月14日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 108  人気のボニファシオ と 実力のアギナルド

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第18章  フィリピン革命」

 

 

 

p236

 

「武装抵抗の拡大」

 

サン・ファンでのボニファシオの破滅的敗北の後、革命の炎は

森林火災のように、マニラ周辺や他の町々へと広がっていった。 

武装蜂起が、パシグ、パテロス、タギグ、マンダルヨン、モンタルバン、

サン・マテオ、そして、モロング(現在のリサール州)の

政治的地区の町々で勃発した。

ボニファシオ指令下のこれらの全ての反乱はスペイン軍によって

鎮圧された。 

しかしながら、カビテ州に於いては、その反乱はもっと成功した。

なぜなら、その愛国者たちには有能な軍の指揮官、とりわけ

エミリオ・アギナルドがいたからだった。 彼は、1896年

8月31日にカウィットでの反乱を率い、又、同日にノベレタを

解放したマリアノ・アルヴァレズも居た。

 

 

p237

・・・・やがて、カビテ州は革命の拠点となっていった。

 

北部では、マリアノ・ラネラ司令官が 「ヌエバ・エシハの叫び」

という反乱を起こし、サン・イシドロ(ヌエバ・エシアの州都)の

スペイン軍の陣地を1896年9月2日に攻撃した。

彼は、町を占拠したが、スペインの鎮圧軍が到着したため、

4日後に撤退した。

 

・・・

 

=====

「ヌエバ・エシアの叫び」については、こちらのサイトでどうぞ:

Mariano Llanera

https://en.wikipedia.org/wiki/Mariano_Llanera

 

Mariano Nuñez Llanera (1855-1942) of Cabiao, Nueva Ecija. He was a Filipino

General who fought in the provinces of Bulacan, Tarlac, Pampanga, and

Nueva Ecija. He is one of the three Fathers of The Cry of Nueva Ecija, along

with Pantaleon Valmonte and Manuel Tinio.[1]

 

 

 

 

p237

 

「恐怖のスペイン統治」

 

スペイン当局は、革命の上昇機運を抑え込む為、死に物狂いで

恐怖政治を進めた。 マニラや州に於いて、数百人のフィリピン人

著名な知識人や産業界の著名人なども逮捕され投獄された。

サンチャゴ要塞、ビリビド刑務所、そして市の城壁の下の地下

の牢獄は無実の被害者で溢れ返った。

 

例えば、サンチャゴ要塞の下の小さな地下牢には169名が

投獄された。 この地下牢には通気の為のひとつの小さな空気穴

があるだけだった。  ある雨の日、馬鹿な見張り番が、雨が

入らないようにと、この空気穴を塞いでしまった。

翌朝、窒息のため、54人の囚人が死体となっていた。

 

1896年9月6日、4名のカティプナンのメンバーが

・・・・銃殺刑に処され・・・カティプナン最初の受難者となった。

 

 

p238

 

およそ1,000人の愛国者たちは、銃殺刑を免れ、

グアム、フェルナンド・ポ(アフリカ)、その他のスペインの

流刑地に流された

 

 

=== グアムにフィリピン人が多いというのは

    こういう歴史にも理由があるんですね。

    おそらく流刑された人たちが親戚などを呼び寄せた

    こともあったでしょう。

    フィリピン人の移民については、こちらでどうぞ:

 http://www.waseda.jp/sem-urata/2003/report/taikou-semi98/keio98/keio9800.html

 

 

    ちなみに、アフリカのフェルナンド・ポというのは

    こちらに地図がありました。

    ポルトガルが持っていたものをスペインが取ったようです。

 http://www.zum.de/whkmla/histatlas/centrafrica/haxgeq.html

    今のカメルーン(ナイジェリアの東隣り)の領土に

    なっているように見えます。

    今はBIOKOという名前のようです。

    ・・・おっとっと・・・カメルーンじゃありません。

    カメルーンの方に近いけど、赤道ギニアの領土だそうです。

    「ビオコ島」

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B3%E5%B3%B6

    「1472年にポルトガルフェルナン・ド・ポー (Fernão do Po)

よって発見され、フェルナンド・ポー島と命名された。」

 

p238

「ビナカヤンとダラヒキャンの 対をなす戦闘」

スペイン軍に対する革命軍の初期の勝利の中で、ビナカヤンと

ダァヒキャンのふたつは決定的に輝いていた。

これらの対の戦闘は、1896年11月9-11日に

同時に戦われたもので、スペイン正規軍の初めての屈辱的

敗北を見て、又、スペインの誇る旗がフィリピンの塵に

初めて汚されたものであった。

・・・・・・

ふたつの戦闘は1896年11月9日の朝に始まった。

それは総督ラモン・ブランコの直々の指揮によるスペインの

侵略軍が、スペイン艦船による重海軍砲兵隊を伴ったもので、

ダラヒキャンの海岸に上陸し、彼は指揮所を建てたのでした。

直ちに、彼はその軍を二つの縦隊に分けた。 ・・・・

3日の間、物凄いハリケーンのような激しさで戦闘は

荒れ狂い、双方の兵士たちは甚大な犠牲を被った。

p239

 

11月11日の夕刻、ブランコは二つの戦闘に勝つことは

出来ないとみて、総退却を命令した。 敗退した部隊を

待機していた艦船に引き揚げさせ、勝利の冠も無いままに

出航した。・・・・・

 

「アギナルド将軍の頭角」

革命の騒乱と戦闘の中から、ボニファシオと交代する運命の

新しいリーダーが頭角を現した。 それはカウィットの

若き町長 エミリオ・アギナルドで、闘う愛国者であり

大学中退者であった。

 

=== アギナルド将軍については、こちらでどうぞ:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89

マニラサンファン・デ・ルトラン高校に進学したものの、

1882コレラによる高校の閉鎖後、復学せずに13歳にして

学校教育を終えている。」

・・・今読んでいる本では、college drop-out(大学中退)と

書いてあるんですが、wikipediaでは高校中退とあります。

13歳ですから日本でいえば中学中退ですね。

しかし、17歳で地区長、25歳で町長になっていますね。

これは私の下衆の勘繰りなんですが、この歴史本は大学で

使われる教科書ですし、フィリピンは学歴を非常に重視

するお国柄なので、もしかしたら著者自身が将軍の為に

学歴詐称をしているのかも・・・???

 

p239

アギナルドが最初に世間の注目を集めたのは、彼が

単発の戦闘で 市民警察隊の軍曹を打ち負かし、かれの

故郷の町カウィットで起こした反乱が成功した時であった。

・・・・1896年11月の初期に、彼はバタンガスまで

遠征し、スペイン軍からタリサイの町を解放した。

革命家たちの多くに印象付けたのは、・・・彼の指揮官と

しての功績であった。

 

「ボニファシオ、カビテに行く」

カビテのマグディワン地区のカティプナンの招待により、

ボニファシオはモロングの隠れ家を出て、カビテ州に行き、

アギナルドの回顧録によれば、1896年12月1日に到着した。

彼は、妻と二人の兄弟、ルシノ司令官と20名の兵士を伴っていた。

アギナルドは、その時、ザポテ、ラス・ピニャスそしてバコールで

スペイン軍と闘っていたが、部隊を離れ、マグダロ議会の拠点で

あるイムスで ボニファシオを歓待した。

・・・・

p240

その後すぐに、マグディワン議会は緊急会議を開催し、ボニファシオに

Hari」(王)の称号を与え、彼を喜ばせた。

 

=== さあ、フィリピン革命は 本格的な戦争に突入しました。

    この後 どんな展開をしていくのでしょう。

 

・・・ 次回 シリーズ 109 をお楽しみに・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月11日 (木)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その6- 一応誰でも大丈夫みたいです、極楽

最終の その6 です。

漢文書き下しの中で気になる部分を、註釈をみながら
読んでみます。

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P52
「汝よ、仏語を持ち、未来世の一切衆生の、苦を脱れんと
欲する者のために、この観地の法を説け。 もし、この地
を観ぜば、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて(のち)
他世に、必ず、浄国に生まれん。・・・・」

===註釈
八十億劫の生死の罪を除きーー八十億劫という永い期間に
わたって輪廻すべき罪
・・・いずれも観法の浅深と関係して除罪に多少があるのでは
なく、あらゆる罪を除くという譬喩的意味であろう。

===このフレーズは何度も出てきます。
   「あらゆる罪を除く」とありますから、
   例の例外規定についても、大丈夫だよということ
   になるんでしょうね。

   ところで、「劫」の意味はきわめて長い時間の意味らしい
   ので、時間の単位としてはほとんど意味をなさない
   ように思います。

p60
これを<像想>とし、<第八観>と名づく。 この観をなさば、
無量億劫の生死の罪を除き、現身の中において、念仏三昧をえん

===註釈
念仏三昧ーー古来、この個所の念仏三昧について、念仏を
観仏あるいは称名ととる。 後者の称名と解するのは隠の義
であり、真宗は次の第九「真身観」の念仏三昧と同じとみて、
弘願の念仏がこれであるとする。

===この部分の現代語訳を見てみると。
この観想を行なう者は、無量億劫の間、かれを生と死に
結びつける罪を免れ、この世に生きている間、
<仏を念ずることによる心の安らぎ>を得ることであろう。

===ってことを書いてあるんで、
   「念仏三昧」=「仏を念ずることによる心の安らぎ」
   という話になりますね。

===そもそも「三昧」ってどういう意味??
「読書三昧」とか「ぜいたく三昧」とかよく言いますけど・・・
こちらにあります:
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/92105/meaning/m0u/

「1 仏語。心を一つの対象に集中して動揺しない状態
  雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえ
  られるとする。」

「1 ともすればその傾向になるという意を表す。「刃物三昧に及ぶ」
2 そのことに熱中するという意を表す。「読書三昧の暮らし」
3 心のままにするという意を表す。「ぜいたく三昧な生活」」

・・・・何気なく使っている言葉ですが、説明してある言葉
・・・・も、いま一つしっくり来ません。なんでだろう。

===註釈より===
p102
一々の光明・・・--
原文「一一光明偏照十方世界、念仏衆生摂取不捨」の句は、
阿弥陀仏の救済の徳をたたえるものとして、搭婆の銘文に
書かれたりして、浄土教の人々に最も親しいことばである。

=== へえ~~、これが例の卒塔婆に書かれているのか。

卒塔婆(ストゥーパ)」って何を意味しているの?
https://www.e-ohaka.com/06omairi/o_sotoba.html
「卒塔婆に書かれる内容は以下のものがあげられますが、
それぞれの宗派、お寺さんによっても異なります。
[戒名(法名)/没年月日(命日)/経文・題目・聖句・
梵字/願主名/願主/供養年月日]」
※「浄土真宗」のように卒塔婆を建てる習慣がない宗派もあります。

・・・おお、ここでも浄土真宗はユニークなんだなあ。

===この註釈に大事そうなことが書いてあります。

念仏衆生摂取不捨」のところなんですが、

善導以来、読み方に二通りあり、いずれでもよい。
すなわち、第一はいまの書き下し文のごとく二段に切り、
あらゆる衆生のうち摂取の利益をうけるのは、念仏する
衆生だけ
であるとの読み方。
(つまり、「念仏の衆生、摂取して捨てたまわず。」と
 読む場合。)

第二は二段に分けずに、「一々の光明、あまねく十方世界
の念仏の衆生を照して、摂取して捨てたまわず」の読み方
である。

善導は仏の光明がなぜ念仏の行者だけを救いとるかの
理由を明かし・・・・
・・・法然や親鸞の理解では、念仏を称名ないし信心の
意にとっている

・・・善導さんー法然さんー親鸞さんの流れの中でも
   解釈が少しずつ変化しているわけですね。
   行から信心への流れかと思います。

===註釈
p103
仏身を観る・・・--
以下「もろもろの衆生を摂するなり」までの句も、
無縁の大悲をとくものとして有名である。このうち
無縁の慈しみ」とは、一切平等の理をさとっているから、
あれこれと相手を見わけて差別せず、平等に慈悲をたれる
こと。

・・・「差別せず」って書いてあるんですけど、
   上品・中品・下品で九ランクに分けているん
   ですよねえ・・・なんで??

===九品に関する註釈===

これにはいろいろ解釈の違いがあるみたいです。

天台、浄影などの諸師は(序説)中に出す三福を散善とし、
次の十六観を定善とする。・・・

善導は、この見解に反して、十六観中、前十三を定善、
後三をさきの三福を浄土往生の行として開いたとして
散善とみた。
・・・この散善をば、修する者の能力に応じて上輩・
中輩・下輩の三種に分け、かつ各々をさらに上中下の
三品に分けるから、すべて九品となる。

真言宗などで説くように、浄土に九種の世界があるので
九品というのではない。上輩とは大乗を学ぶ凡夫を指し、
三福のうちの行福を主として修する。
そのうち、上品上生の者とは大乗上善の凡夫・・・・

・・・とまあ、いろいろと宗派によって解釈が
分かれて行ったようですね。

よって、前回その5でリンクしたサイトの「まとめ」の
分け方も その中のひとつの解釈ってことになりそうです。

===書き下し文のp68 ===

「散心の凡夫、往生をうる九種の方法」の部分なんですが、
ここにこんな句があります。

三種の心を発さば、すなわち往生す。なにをか三とす。
一には、至誠心、 二には、深心、 
三には、廻向発願心なり

===「廻向発願心」の註釈

多分ここが 法然さんと親鸞さんの分かれ道みたいな
ところじゃないかなと思うんですが・・・・

浄土宗では浄土願生者の起こす菩提心と解するが、
真宗では・・・親鸞の独自の理解によって、自力と他力
二種に分けた。
特に後者を採り、阿弥陀仏が真実心中から衆生にふりむけ
給うた本願の正意を深く信じて、往生しようと願う心を
起こすとみて、他力廻向による発願心とした・・・

===「かくのごときの悪人」の註釈

・・生死輪廻する者を指している。
善導はこれを凡夫人、法然は罪人、源信は極重悪人と表現し
直した。 親鸞は源信の用法にのっとりながら、範囲を
広げて、定散二善のすべてを極重悪人ないし極悪深重の
衆生と呼んだ。 要するに親鸞の悪人正機の「悪人」とは、
輪廻の衆生一般
を指していたことがわかる。

・・・・・・・・・・・・・・・

はい、これで 「観無量寿経」 を一応読み終わったことに
なります。

さて、ここで私の読書感想文なんですが、なかなか難しい
ですね。

まず、復習をしてみると、全体としては下の三つが書いてあった
わけです:
1.「王舎城の悲劇」の親殺し事件
2.「13の観法」の解説 
   観法というのは、瞑想のことみたいで、極楽浄土や仏様を
   どのように観るかという方法論 - これが中心ですね。
3.往生するものの分類

私はどうしても、法然さんと親鸞さんに興味がいくんですが、
1.については、親殺しがこの経では明確に書かれているわけ
じゃなくて、他の経だったんですね。
だから、親殺しに関しては涅槃経らしい。
なので、親鸞さんの悪人正機説がらみで言うと直接的という
わけではなさそう。

2.はどのような修行をするかという内容だと思うんです。
なので、法然さんが無量寿経よりもこちらを重視するという
のは分かるような気がするんです。

3.はどのような人が極楽往生できるのかという区分
書いてあるんですけど、結局誰でも阿弥陀さんが救って
くれますよというのは分かりました。
ただその場合に、何を条件とするかってことが若干違う
わけですね。

で、最後のところに「廻向発願心」があって、
その意味の捉え方に親鸞さんの特殊な理解があるみたいです。

以前からいろいろ本を読んできて、だいたいのイメージは
あったんですが、やはりここでも、
法然さんまでは戒律や行が大切で、親鸞さんになると
あくまでも阿弥陀様に絶対的にお任せして信仰するという
ことのようです。

で、私としては、どっちが好きか、あるいは向いているか
って言うと、これがまた、ちょっと捻じれてしまうんですねえ。

これは、フィリピンで感じた カトリックとプロテスタント
から受けるフィーリングに似ている
んですが、

カトリックはなんとなく法然さんの浄土宗、
プロテスタントは親鸞さんの浄土真宗のイメージなんです。

カトリックはいろいろイベントも多いし、形が大事みたいな
雰囲気があって、教会や神父さんの衣装も豪華で、戒律的な
ものも感じるんです。

それに対して、プロテスタントは、かなり地味で、形と
いうよりも熱心な信者が多いイメージですね。
反面やや信仰的窮屈さを感じることもあります。

怠け者の私としては
修行や戒律というような面倒なものは嫌だなという感じも
あるし、かと言って、信仰に入り込むというような
真面目さもないし・・といういい加減な態度なんですねえ。

ブッダの原始仏教の雰囲気を残しているのは多分
法然さんの方だから文化的な興味から言えば法然さん。

でも、一方で、独特な理解で悪人正機説を展開した
阿弥陀様の一神教的な親鸞さんは凄いなと思ったり。

消化不良なままで終わりますが、
まあ、いずれ、こっちがいいなと思う時が来るのでしょう。

お付き合い、有難うございました。

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2017年5月 8日 (月)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その4- 阿弥陀さん、観音さん、勢至さん大集合

さて、観想のマニュアルの説明が終わって、
その後のお話です。
・・・と思ったら、まだまだ続いていました・・・

p21
師はアーナンダとヴァイデーヒーに告げられたーー

「・・・これから言うことをよく思念しなさい。
仏は今、あなたたちのために、苦悩をとり除く法を
考え、それを解説する。・・・・」

こう言われたときに、無量寿(アミターユス・かぎりない命)
仏は空中に立たれた。 アヴァローキテーシヴァラ(観世音
とマハースターマブラーブタ(大勢至)という二人のすぐれた
人はその左右に侍して立った。

Photo

(この写真はバギオの寺院での写真です。釈迦三尊像なのか阿弥陀三尊像なのか、どっちだろう・・・)

p22
「かの仏を観たいと思ったならば、観想の念をおこさなければ
ならない。七種の宝石でできた大地の上に蓮花を観想するのだ。
・・・」

p23
・・・あるものはダイアモンドの台となり、あるものは真珠の
網となり、あるものはさまざまな花の雲となり、十方の方面に
おいて、観る者の思うままに変現して、仏の所作を現している。
これが<花の座の観想>であり、<第七の冥想>と名づけるのだ。

「このような美しい花は、もと修行僧ダルマーカラ(法蔵比丘)
の誓願力によってできたものである。・・・」

=== 蓮の花の上の阿弥陀三尊像を観るってことのようですね。

「このことを観終わったならば、次には仏を観想するのだ。
それは何故かというと、諸々の仏・如来たちは、存在するもの
すべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの
心想の中に入って来る
からである。それ故に、あなたたちが
心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相
あり、八十の小相なのだ。 この心が仏を作り、この心がそのまま
仏なのだ。・・・」

「・・・冥想中に聞いたことを記憶していて忘れず、経典の
記すところと照合してみるがよい。・・・これが<像の観想>
であり、<第八の冥想>
と名づけるのだ。・・・・
<仏を念ずることによる心の安らぎ>を得ることであろう。・・」

=== ここで註釈を読んでみますと・・・

p100
第八「像想観」。 この第八観以後は正報観であるが、
とくに第八観は第九観の真身観に入るための準備的観法である。
画像・木像を通じ、あるいは心中に三十二組の仏身が放つ
光明を観想して仏を思い、二菩薩を思い、そして浄土の
荘厳を観ずる。

・・・・・と書いてあるんですが、前半の言葉が分かりません。
・・・・・で、註釈のp96に戻ってみたらこんなことが
・・・・・書いてありました。

p96
禅定に入って観想する定善十三観を明かす。
善導によれば、十三を分けて依報(衆生のよりどころとなる
山河大地など)と正報(衆生の身体や精神)に関するものとする。
さらに各々に、浄土教家は仮観(かりにこの世のものについて
観ずる)と真観(真実の浄土について観ずる)の二つを分ける。

=== 要するに全部で 十三の観想があるって話です。
    今まで読んできたのは、その内の8までってこと。

p25
「この観想ができたならば、次にはさらに無量寿仏の身相と
光明とを観想するのだ。・・・
この観想を行なうのを<すべての仏たちの体の観想>と名づける。
仏の体を観ることは、また、仏の心を観ることになる。
仏の心とは大慈悲心である。無条件の慈しみを以てもろもろの
生ける者たちをおさめ取られるのだ。
この観想を行なう者は、死後に仏たちの前に生まれて、
<諸々の事物には自我というものがなく、生ずることもない、
と認容し得るような精神状態>に達するのだ。・・・・」

「・・・無量寿仏を観る者は、すなわち、十方の無量の仏たち
を観ることになる。・・・これが<あまねく一切の体や形を
観る観想>であり、<第九の冥想>
と名づけるのだ。

=== ここにとても大事そうな言葉がありますね。
    「無条件の慈しみ・・・」
    もしかして、ここが例の「除外規定」と矛盾する
    ところでしょうか??

p28
これが<アヴァローヒーデーシヴァラ(観世音)ぼさつの真実の
体の形を観る観想>であり、<第十の冥想>
と名づけるのだ。

p30
<マハースターマブラーブタ(大勢至)の形や体を観る観想>
であり、<第十一の冥想>
と名づけるのだ。

p30
この観想をするようになったら、自分自身の心に目覚めなければ
ならない。 西方の<幸あるところ>という世界に生まれて、
蓮花の中に両足を組んで座り、蓮花が閉じる観想を行ない、
蓮花が開く観想を行なうのだ。・・・

・・・仏たちの音声がみなすぐれた教法を説いており、
それがみな十二部経に説く所に一致していることを、冥想から
さめても忘れないようにするのだ。
このことを観想するのを<無量寿仏の幸ある世界の観想>と
名づける。 これが<完全な観想>であり、<第十二の冥想>

と名づけるのだ。

=== ここに来て、やっと、自分自身が極楽浄土の
    蓮の花の上に座っている場面を観るようです。

p31
「もし心から西方に生まれたいと願うなら、まず一丈六尺
の像が一つ、池の水の上にあると観想するのだ。
先に説いたように無量寿仏は身の大きさが無限であるから、
これは普通の人間の理解を超えている。・・・・」

「・・・・この二ぼさつはアミタ仏を助けてあまねく
一切の者たちを教化するのである。 これが<雑多の観想>
であり、<第十三の冥想>
と名づけるのだ。」

=== 十三番が出てきたんですけど、ここは読んだ感じは
    大したことを書いてないように思うんですけど、
    最後だから大事なはずですよね??
    名前も<雑多の・・・>ってどういうこと??

・・・随分長かったなあ・・・・・
・・・この後は、「上品上生の者・・・・・」という話が
・・・出てきますので、またまた長くなりそうです。

=== では、その5 でお付き合いください ===

=====================

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2017年5月 6日 (土)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その1- 極楽浄土や仏様をどのように観るか

前回までに「仏説無量寿経」を読みました。

「浄土三部経ー無量寿経」を読む
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2017/04/post-89d0.html

6年前の2011年には、こんな本を読みまして。

「あなただけの阿弥陀経」を読む - その3
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/11/post-0c25.html

浄土三部経は 3冊の本ってことですから、私が読んだ順番で言えば:
1冊目は 「仏説阿弥陀経」
2冊目は 「仏説無量寿経」
3冊目は 「仏説観無量寿経」

・・・・で、昨晩 この3冊目の「仏説観無量寿経」の
漢文書き下し文の章を ぱらぱらと読んでしまいました。

Img_2608

ところで、この「観無量寿経」は、サンスクリット原文は
発見されていない
そうでして、漢文からの現代語訳への和訳だ
そうです。

手抜きで悪いんですけど、
概略の内容は、こちらでご覧ください:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C#.E4.BB.8F.E8.AA.AC.E8.A6.B3.E7.84.A1.E9.87.8F.E5.AF.BF.E7.B5.8C

「阿闍世という名の太子が、悪友の提婆達多にそそのかされて、
父の頻婆娑羅王を幽閉し餓死させようとした「王舎城の悲劇
を導入部として、王の后である韋提希夫人の願いにより釈迦が、
極楽世界や阿弥陀仏、観音・勢至の二菩薩を観想する13の観法を説く。
そして、極楽世界に往生する者を「上品上生」から「下品下生」
まで九品に分類し、最後に釈迦が阿難に向って「無量寿仏の名号を、
常に心にとどめ続けよ」と説く。」

つまり、
1.「王舎城の悲劇」の親殺し事件
2.「13の観法」の解説 
   観法というのは、瞑想のことみたいで、極楽浄土や仏様を
   どのように観るかという方法論 - これが中心ですね。
3.往生するものの分類

・・・・で、私が気になった部分を以下に書いてみます。

まず、上記1なんですけど、
親鸞さんは、これをかなり重視しているみたいで、
その著書「教行信証」の中でいろいろと書いているんです。

2011年にこの本を読んだ時に下のように感想を書きました。

「『教行信証』を読む」を読む - その5」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/10/post-6046.html

(師である法然さんが「これしかない」といったお経は「大無量寿経」で、
親鸞さんも「そうだ」とは言ってみたものの、そこには、その第十八願
には「除外規定」がある、浄土教の伝統のなかでは、「五逆と誹謗正法」
を除外するってことになっていたわけですよね。 五逆と言うのは、
母殺し、父殺し、聖者(阿羅漢)殺し、仏の身体を損傷する、教団を
破壊する、の五つの罪悪でした。 ・・・で、親鸞さんは上記の
アジャセの話を「大般涅槃経」の中に見つけたわけです。 
そこに突破口がありそうだってね。)

(この話のようなわけで、「父殺し」であっても、「懺悔」をすれば
助けてもらえそうだってことが見えてきたんですね。 ・・・で、
どうやって見つけたかというと・・・)

(どうも善導さんが既に、親鸞さんと同じようなことを考えていたんですね。
「観無量寿経」っていうお経には、上記のアジャセの父殺しの物語があって、
これを憂いた王妃の願いに応じた釈尊が、どのようにしたら往生できるか
を教えたということが書いてある
そうなんです。 その方法として
「観想」という修業や、それも出来ない悪人のための念仏などを教えた
らしいんです。 そして、その「観無量寿経」を研究した善導さんが 
その研究論文を残してくれていたってことですね。 そこに懺悔という
のが含まれていた。 「観想」って言葉は「一心に思いを凝らす」と
いう意味のようですが、仏教では、浄土や仏様の姿を精神統一をして
心の中に観る
というようなことのようです。 )

p viii

親鸞が最終的にたどりついた結論が、条件づきの悪人救済の道だった。 
善き師につくこと、そして深く懺悔すること、の二条件がそれである。

( と言うわけで、唯円さんの「歎異抄」にも辿り着いたし、「懺悔」
することが条件なのかということも分かったし、これでいいのかな? 
とも思うんですけど、さらにここから、この「懺悔」って何? って
ことと、悪人が善人と同じような浄土にすんなりと行けるんかって
ところが気になってくるわけです・・・ね? )

=====

しかし、この「観無量寿経」だけを読む限りで言うならば、
どっちかっていうと、やはり上記2の「13の観法」の解説が
重点だろうと思うんです。

で、この「浄土三部経(下)観無量寿経・阿弥陀経」の表紙の
裏側にこんなことが書かれているんです。

「日本では浄土宗は「観無量寿経」、浄土真宗は「無量寿経」、
時宗は「阿弥陀経」に重点を置く・・・」

Img_2610

・・・・

これを読んで思ったんですが、
私のフィーリングで言えば、
   
ー 法然さんは中国から来た浄土教やその経典に書かれている
  ことを忠実に、そして戒律を重んじて修行をする立場
  この観法を中心に書かれた「観無量寿経」に重点を置いた
  のではないか。
  (修行をする時、座禅なんかをする時に、瞑想をする。
   その瞑想をする時に必要なのがこの観法なのかな?)

ー 親鸞さんは、かなり独自の解釈で、「絶対他力」やら
  「悪人正機説」を唱え、戒律よりも信心に重きを
  置いたので、その論拠として「無量寿経」が中心になった
  のではないか。
ー 時宗については、まだ読んでいないので、分かりません。

・・・親鸞さんについては、「教行信証」の中で、こんな
ことを言ったらしいんです:
(2010・2011年に読んだ本の感想文から)

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/11/post-4ee2.html
「「無量寿経」は親鸞さんが「教行信証」に、「それ真実の教を
あかさば、すなわち大無量寿経これなり」と述べた
経典であり、
釈尊がこの世に現れた目的は阿弥陀如来の本願を説きたいがためで
あった・・・と書いてあるんです。」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/06/post-ce90.html
「「われは、念仏を選ぶ」といった師の法然にたいして、それでも
なおその師に抗して「われは、大無量寿経を選ぶ」と言わざるを
えなかったのはなぜか。 

(それで、その法然さんが信奉している浄土三部経のひとつ
「大無量寿経」は絶対なわけ。親鸞さんも「これだよ!」って宣言した。 
ところがどっこい、よくよく読んでみると、「みんな助ける」けど
「こんな悪いやつは例外だからね」ってことが書いてあったわけですよ。 
親鸞さんは困った。 「ぼくは例外なく助けたほうがいいんじゃない
かなと思う。」って多分思っていたんでしょうね。 ・・・で、
まずいな、先生と考え方がちがっちゃう、どうしよう。) 」

=== それでは、「観無量寿経」の その2 に続きます ===

 

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2017年5月 2日 (火)

「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その6- 「智慧の完成」と「五つの悪」と「自己責任」??

今回も、内容的にはメイン以外の その他の拾いものの続きです。

実は、この無量寿経・・・一回目を読んだ時は
私にとっては かなり辛抱が必要な本だなと思ったんです。

Img_2502

何故かって言うと、カタカナの名前が多いことや、繰り返しの
フレーズが延々と続く
こと、大仰な大言壮語がこれでもか
と出てくる表現・・・いくら偉い仏様を称賛する話だと
言ったって 言い過ぎだろう・・・謙虚さはないのか・・
みたいな、日本人感覚から遠い記述が多いわけですよ。

・・でもね。 よくよく考えてみるに、
お釈迦さんが実際に生きていた時代や、その後仏教が盛んに
なったインドでは、印刷物やラジオやテレビやインターネットは
なかったわけで、多くの人々が集まって尊いお坊さんの話を
聞いていたってことですもんね。

おそらく、まるで歌うような、韻をふんだ、浪曲とか謡曲の
ような節廻しなんかもあって、お客さんたちに受けるような
大げさな話も必要だったんでしょう。
「おお、凄いなあ・・・極楽浄土って素晴らしいところだなあ」
なんてことを感じてもらうためのパフォーマンスでもあった
んじゃないかな・・って思ったんです。

そういうことを考えながら、辛抱しながら、ささっと、
面白そうなところだけを飛ばし読みしていたら、結構このお経
いけるんじゃないかって感じだしたんです。

誰か、この本を漫画かアニメにしてくれないかなって・・・・
真面目な映画なんかにしちゃったら、宗教臭くて面白く
なくなると思うんだけど、アニメだったら、この何でもアリの
極楽浄土を描いてあるようにそのまま描いて、昔の絵巻物
以上の迫力が出せるんじゃないかと思うわけですよ。

と思っていたら・・・youtubeで 中国製の「仏説無量寿経」のアニメ
を発見しました:
https://www.youtube.com/watch?v=v-k2ACJdF6E

なんと、3時間以上の超大作。

もうひとつ、こっちの方が短くて、アニメとしてもいい感じだな。
https://www.youtube.com/watch?v=DPTEFcjP6nM

日本だったら もっと個性的で、もっと面白いのが出来そうだけどなあ・・・
とりあえず 日本語版が見たいなあ・・・

 

・・・・・

じゃあ、次に行ってみましょう・・・・

p93

アーナンダよ、かの<幸あるところ>という世界に生まれた
求道者たちには、その人々のうちのいずれか一人という想い
がなく、<自分に属するもの>という想いもない
<わたしのもの>という想いがない。 争いもなく、論争も
なく、紛争もない。 平等の心の無い者は存在しない。
かれらには平等な心あり、人のためをはかる心あり、
友情ある心あり、柔軟な心あり、やさしい心あり、軽快な心
あり、浄く澄んだ心あり、堅固な心あり、なにものにも妨げ
られない心あり、不動の心あり、乱されない心あり、濁らない
心あり、智慧の完成のための行ないを実行する心があり、
心の連続に覚知作用が入り、智慧は海にひとしく、覚りは
スメール山にひとしく、多くの徳を積み集め、覚りを完成
するのになくてはならぬもの(七覚支)を唱えることを
楽しみ戯れ、仏の(名を)唱えることに努めているのだ。

・・・・ふう~~~。 これひとつの文章ですよ。
こんな感じなんで、嫌になりませんか、・・・読んだら。
これが歌みたいに、誰かが歌ってくれるんなら結構すっと
入ってくるのかも。

=== 上の文章の中に、「智慧の完成」って言葉が出て
いるんですけど、この言葉は「般若心経」にも出ている
言葉なんです。

こちらのページにそのことがちょっと書かれています:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-d94f.html
「空性を核とした般若波羅蜜多という智慧の完成を説く「般若心経」」

こちらのサイトに詳しく書いてあります:
http://readiary0134.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-2258.html
「「般若」と音写された「プラジュニャー」の意味は「智慧」です。
・・「波羅蜜多」と音写された「パーラミター」の意味は「完成」です。
・・以上の二語を合わせた「ブラジュニャー・パーラミター」は、
とりあえず「智慧の完成」と訳すことができるでしょう。
「智慧の彼岸に到ること」と訳すことも可能です。・・
「般若波羅蜜多心」とは、「智慧の完成の心(または精髄)」という
意味である、と結論付けることに何の問題もないように思われる
かもしれません。・・ところが、そうではないのです。最大の問題は、
そのように語義解釈をしてしまうと、「般若心経」本文が伝える内容と
かみ合わなくなってしまうのです。」

=== さらに、上記の中の「覚りを完成する」の部分について
    以下の注釈がありました:

p274
覚りを完成するのになくてはならぬものーー普通は七覚支を立てる
(1)情念。 思い続けること。 (2)教えに対する弁別判断。
(3)精進。 (4)正しい教えを実行する喜び。
(5)身心の軽快。 (6)精神統一。 (7)心の平静。

・・・(2)は論理的思考を感じさせるものですが、
それ以外はすべて心の持ち方のようですね。

=== さて、私が上記の文章の中で、ちょっと気になった
    部分は、「その人々のうちのいずれか一人という想い
    がなく、<自分に属するもの>という想いもない。
    <わたしのもの>という想いがない。」です。

    なんでかって言うと、自他というか、自分の身体の
    境界面が宇宙に溶け込むというか、一体化すると
    いうような意味じゃないかと思ったからです。

    それで、思い出したのがNHKのTEDSで観た
    この番組の内容でした:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-29b6.html
「「腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっている
ことに気付きました 腕の原子分子が壁の原子分子と混じり合って 
一緒になっているのです 唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした」
・・ってことになるわけですね・・・
これって 釈迦が言っている「色即是空」ってこっちゃないですか?」

=== もしかしたら、空海さんの真言密教なんかは
    こんな感じの宇宙と自分の一体化を覚りだとしているんじゃ
    ないかと思ったりするわけです。
    もっとも、空海さんは密教と顕教と分けて密教が優れている
    と考えたらしいので、最澄さんの小乗と大乗とまず区別して
    大乗の中に密教があるという考えかたからしたら、
    無量寿経の中で今ここで考えているということ自体を
    空海さんは良しとしないでしょうけど・・・

p97

師は求道者マイトレーヤ(弥勒菩薩)や神々や人間たちに
言われた -- 「無量寿如来の仏国土の法を聞く修行者や
求道者の功徳や智慧は言葉で説明することができない

=== 「言葉で説明することができない」んですねえ。
    これは 空海さんが最澄さんを邪険に扱った
    ひとつの理由かもしれません。
    詳しくは、こちらのサイトでどうぞ:
    http://shina.hatenablog.com/entry/2015/08/21/%EF%BC%97%E5%A4%A7%E5%AE%97%E7%A5%96%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%BF%83%E5%8E%9A%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%EF%BC%9A%281%29%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%81%8C%E6%9C%80%E6%BE%84

p98

世の人は浅はかで心卑しく、急ぐ必要のないことを
争い求める。・・・・・
持てる者も持たざる者もその憂き思いにかわりはない
うろうろと愁え苦しみ、心配ばかり積み重なり、心は
追い回されて安らぐ時がない。
田があれば他を憂え、家があれば家を憂え・・・・・
横あいから思いがけず、水火や、盗賊や、怨みを抱く者や、
債権者に(それらの財物は)、焼かれ、流され、奪われて、
消え失せ、散り失せ、こすれ砕け滅びるのだ。

=== 二千年ぐらい前のインドで、既に「心は追い
    回されて安らぐ時がない」状態
だったのか。
    今現代の忙しさは殺人的と言っていいん
    でしょうねえ・・・・

    いずれにせよ、何かを所有するってことは
    憂いの始まりだってことですかね??

  
p100

人はこの愛欲の世間に ひとりで生まれ、ひとりで死に
ひとりで去り、ひとりで来るのだ。
行なうところに随って苦しみの人生を得たり、幸福な
人生を得たりする。 行なう者自身がその報いを受ける
のであり、代わりに受けてくれる者はだれもいないのだ

=== そうか、「自己責任」ってやつか。
    でも、「ひとりで去り」って書いてあるけど、
    阿弥陀様にお願いすれば「阿弥陀仏来迎図」
    みたいに、お迎えが来てくれるんだよね??

=== この後 「五つの悪とは何か」の説法が続きます:

p107

第一の悪とは、神々たちや人間たちから地に這う虫に至る
まで皆、さまざまな悪事をなそうとしている。・・・・
・・命を終わって後に行く世界においては、さらに深く、
さらに烈しいのだ。かれらは暗黒の中に陥り、転々として
世を受け、肉身を受ける。・・・・
・・そこから逃れ出る時がなく、解脱を得がたい。・・・
天地の間に自然にこの(ような世界が)ある。

p109

第二の悪とは、世間の人々、父子や兄弟や家族や夫婦が
すべて義理を知らず、法律に従わず、贅沢であり・・・
・・・言葉に誠実さがなく、・・・臣下はその君主を
欺き、子は父を欺き、・・・互いに欺き合う。
・・・富裕でありながら物惜しみして与えようとせず
・・・終わりが来ても、頼りになるものは何ひとつ
してない。・・・命が終わると同時に、魂は(肉体を)
離れ、悪しき所に堕ちる。

p111

第三の悪とは・・・互いに相依り相助けてこの天地の間に
共に生を営んでいるけれども・・・常に邪悪な心を懐いて
いる。・・・ひとのものは欲しがり、自分のものは惜しんで、
・・武器を執り、互いに戦う。・・・他人のすることには
常に悪意を向けるけれども、自分からは、なにも仕事をしない。
・・・思いのままに振舞って自ら楽しみ・・・

p112

第四の悪とは・・・世間の人々は、善をなそうとは思わず
互いにそそのかし合って、共にさまざまな悪をなす。
かれらは二枚舌をつかい、悪口を言い、心とはうらはらな
ことを言い、お世辞を言う。 人を中傷し、・・・・
友人に対する信義がなく、・・・自ら思いあがって・・・
他人から尊敬されたがる・・・進んで善をなそうとはせず、
常にそれでよいと思いこんでいる。

p114

第五の悪とは・・・人々はうろつきなまけて、積極的に
善をなしたり、身を修めたり、仕事をしたりするということを
せず・・・恩にそむき、義理に違い、報いようという心がない。
・・・酒を飲み、美食を摂り、飲食に節度がない。・・・
人間らしい心情を知らず・・義理もなければ礼儀もなく・・
古の聖人たちや<目ざめた人>たちの説いた道理を信ぜず、
・・・しかも、人間の生がどこから来て、どこに去るかという
ことさえも知らないのだ。
・・・死は待ってはくれないのだ。・・・

=== 私の場合、第一の悪は、いま一つはっきりとは
    分かりませんが、二から五まではしっかり該当者に
    なりますね。
    もう、これは、阿弥陀様に助けてもらうしかないね。
    お迎えを予約しなくちゃね。

  
・・・では、 その7 に続きます ・・・・

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2017年4月30日 (日)

「浄土三部経 -上ー 無量寿経 中村元ほか訳」を読む - その1

Img_2502

今、「無量寿経」を読んでいるんですけど、
その中に こんな文章がありました。

「かれは、求道者の行ないを実行しながら、自分や他人や自他両方を
傷つけるような言葉を口に出すのをやめて、自分や他人や自他両方に
利益と幸福とをもたらすような言葉を口にすること、そのことだけに
いそしんでいた。」

・・・これを、つい先日 復興大臣を辞めた議員、その他の政治家、
果ては海の向こうの大国の大統領などに、僭越ながら捧げたい気持ちです。

それはともあれ、
過去にこんな本を読みまして・・・・。

そもそもは、2010年頃に こんなことを書きました
「そろそろ棺おけが見える歳になると こんな本を読みたくなるらしい。」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/10/post-ed72.html

それと、フィリピンのバギオ市に住んでいると、
たま~~に、70年以上前の日本とアメリカ・フィリピンの戦争で
激戦地となった当地での亡霊、日本兵の戦没者の幽霊が出るから
慰霊をして欲しいなどという依頼が舞い込むことがあるので、
お経のひとつも読めないとまずいかなという出発点でした。

「「ブッダのことば」 中村元 訳 (1) お釈迦様の生の声 ?」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-b443.html

「その8 中村元著「龍樹」ー大乗仏教の思想- インドの浄土教ってどんなん?」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-5c59.html

「「あなただけの阿弥陀経」 を読む - その1」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/11/post-cafd.html

それで、原始仏教にも立ち返って、既に7年ということになります。

ここで、阿弥陀仏=無量寿仏=アミターバ=法蔵菩薩と、同じ仏に
いろんな名前がありまして、混乱するんですが、
浄土三部経の中の大経である 「大無量寿経」に辿りついたわけです。

それで、その概略を復習してみると、こちらに書いていました:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/11/post-b2c1.html

「無量寿経には、法蔵菩薩の48の願いが書かれていて、
特にそのなかの第18願が大切なんですって。

その第18願と言うのは、
「すべての人々が、心の底から私を信じ喜び、浄土に往生したいと願い、
私の名を称えて、もし浄土に生まれることができなかったら、
私は決して仏にはならない」
と言ったとか、言わなかったとか。」

そこで、この第18願と、第35願にフォーカスして、他の所は
パラパラと読んでいくことにします。

第18願は 「念仏往生の願」
第35願は 「女人成仏の願」

などと呼ばれているそうです。

・・・・・・・・・・・・

p17
オーム。十万の、果てもなく、限りもない世界に安住される、
過去・未来・現在の、一切の覚った人たち、求道者たち、教えを聞く
修行者たち、独り修行をする修行者たちに礼したてまつる。
無量の光あるものに礼したてまつる。 無量の命あるものに礼し
たてまつる。 ・・・・」

=== いきなり 「オーム」で始まるんですねえ。
私の世代だと、オーム真理教のテロ事件を思い出すんで、あまり
良い印象はないんですが、本当は次のような意味なんだそうです。

p245(注釈)
「オーム・・・a・u・mの三字から成る言葉と解釈されて、
古来インドでは聖なる意味と神秘的な力を持つものとして尊ばれて
いる。 三字はそれぞれ、発生・維持・終滅をあらわし
この一語で全世界が成立しまた滅びる過程を象徴するのである。」

=== これはヒンデゥー教で同じような考え方があるそうです。

=== で、いきなりいろんな仏さん達の名前がたくさん出てきて
うんざりする文章が続くんですが、その中に 「アーナンダ」さんと
言うちょっと馴染みの名前もありました。

それで、この本の場面設定としては、このアーナンダさんが
師であるブッダ(お釈迦様)にいろいろと質問をして、
それにお釈迦様が答えるという書き方になっています。
「仏説無量寿経」ですから、お釈迦様が説くお話ってことですね。

p21
「アーナンダよ、如来は、もしもそうしようと思えば、
一食分の施された食物で、一劫の間この世にとどまることが
できるであろう。 あるいは百劫も、あるいは千劫も、百千劫も、
あるいは百千億の百万倍の劫に至るまでも、あるいはそれを
過ぎてもなおこの世にとどまることができるであろう。」

=== まあ、こういう表現が何回も出てくるとウンザリして、
    中国の白髪三千丈なんてのも目じゃないなと思うんですが、
    インドはこういう発想なのか、あるいは、宇宙そのもの
    がそういうものだと言うことが当時から分かっていたのか。
    小国じゃあ無理・・・笑

    ちなみに、「劫」というのは、
    「想像を絶するほどに永い時間」のことだそうですよ。

    ところで、ここに出てくる「如来」ってのが
    阿弥陀如来のことのようです。つまり無量寿仏ってことですね。

p22
「アーナンダよ、(他人の)福利を願い、利益を尋ね、なさけの
心あり、大悲を実行する如来
たちの出現は得がたいことだ。」

=== そして、またまた、この後、3ページ半に渡って、
様々な仏さまたちの名前が延々と書いてあるんです・・・
そして、その後にやっと、以下の文章が出て来ます・・・

p26
「アーナンダよ。 シンハ・マティよりもさらに前に、ローケーシヴァラ
ラージャ(世間において自在である王、世自在王)という名の如来・
敬わるべき人が世に出られた。かれは、正しく目さめた人・知も行も
共に具わっている人・・・・・・・・世尊であった。
アーナンダよ。 そのとき、また、・・・ローケーシヴァラ・ラージャ
如来が教えを説かれたときに、きわめて記憶力のある、理解力のある、
叡智のある、きわめて努力精進する、高大な理解力のある、
ダルマーカラ(法蔵)という名の修行者がいたのだ。」

=== はい、これは何かといいますと、話の中の話で
    誰が誰に教えたのかってことです。
    ローケーシヴァラ・ラージャ(世自在王)というのが
    阿弥陀仏(無量寿仏)の先生だったんですねえ。
    その世自在王に教えられた人が阿弥陀仏さんで、
    別名を法蔵菩薩とかダルマーカラとか無量寿仏とか
    呼んでいたらしい。

    つまり、お釈迦さんがアーナンダさんに説法する中の
    話で、世自在王さんが、法蔵菩薩さんに説法していた
    内容がここに書かれるわけです。

    要するに、法蔵菩薩さんが聞いた話を、アーナンダさんが
    お釈迦様から聞いているってわけ。

p26
「アーナンダよ。 そのとき、かの修行僧ダルマーカラは
座から起き上がり、一方の肩に上衣をつけ、・・・この世尊
ローケーシヴァラ・ラージャ如来に向かって合掌し、・・・
このような詩句によって讃えて言った - 」

=== はい、法蔵菩薩(阿弥陀)さんが、世自在王さんを
    大いに讃える詩句がここで続きます。
    例えばこんな感じ:

p27
「智力かぎりなく、たとえるものなき、無量の光明ある仏よ。
 ・・太陽、宝石の光りや、月の光は
 それらの光りで、一切世間に輝くことはないであろう。」

「得られた法は深遠にして、広大で、細やかな理法が体得された。
・・・心の荒みと憎悪とを捨てて、彼岸に渡られた。」

=== これがまた、3ページほど続きまして。

    いよいよ、無量寿仏(阿弥陀)さんの請願の部分
    突入していくわけです。

p31
「さて、アーナンダよ。 かの修行僧ダルマーカラは、
・・・・世尊ローケーシヴァラ・ラージャ如来の両足を頭に
頂いて敬礼し、・・・・もとから退いた。 それからさらに
五劫の間、・・・仏国土のみごとな特徴や装飾や配置の完成
おさめとった。 そうして、さらに広大な請願を起こした
のであった。」

=== ここで「仏国土の見事な特徴や・・・」と言うのは、
この後に書かれている 「極楽浄土」の素晴らしさのことの
ようです。 「天国良いと一度はおいで・・・」の部分ですね。

それでは、請願の部分は その2 で書きたいと思います。

お付き合い有難うございます。

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2016年12月13日 (火)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その12

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。

今日は「第16回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34834

「4年生の春、僕は深刻な悩みに直面していた。
 大学を卒業した後の進路、つまり就職先がまったく決まって
いなかったのだ。」

「「人間関係の構築が大の苦手」「場の空気が読めない」
「人の気持ちを忖度(そんたく)して発言することができない」
「その結果、人を不快にさせたり、怒らせたりしがちで、コミュニティ
や組織の中で嫌われ者になりやすい
」といった特性を持っていること
ははっきり自覚していた。」

==== さて、いよいよ「社会人になる」ところに入って
     来ました。 この方の場合は、まで「自覚していた」
     だけでも、そうでない人に比べればまだチャンスが
     あったのでしょうが・・・・

     アスペじゃない人にとっては、そこまで自分自身に
     「自覚」があるかどうか疑問です。
     私なぞは、まったくそんな自覚はありませんでした。

「「俺たちみたいな人間は組織の中でうまくやっていけないのかも
しれない」と一瞬でも思ったが最後、それはすぐに「俺のような人間は
社会で働いて食っていけないのかもしれない」「俺にはこの社会に
"居場所"がないのかもしれない」という予感を呼び起こすからである。
それは本当に、身も震えるほど恐ろしいことだった。」

「「研究者になろう」と決めていた最大の理由は、Numbers研究会の
先輩たちや顧問教授の話を聞いて、大学の研究室には僕と同じような
タイプの人間が多くいることを知ったからだった。他人の気持ちや
場の空気などを気にせず、偏愛する物事の研究に、深く専門的に
没入する人たちが集まる場所---。」

「好きなのは、あくまでも数字だけである。そういう人間は、
とても理科系とは呼べないだろう。
 実は、Numbers研究会の先輩たちにも同じタイプが多かった。
物理や化学を専攻する人はなぜかごく少数で、数学、経済学、哲学、
心理学、文化人類学などを学ぶ人が多数派だったし、僕とも気が合った。」

「次第に「大学の研究室こそが、俺のような人間にとっては理想的な
職場ではないか」と思えてきた。」

=== ここまで読めば、確かにそうだよなと私も思ったん
    ですが、学問の世界はそんなもんじゃないようです。

「僕は自分の途方もない甘さを、ある授業によってきっちり
思い知らされることになった。」

「おい奥村、後期にめっちゃおもろい数学の授業があるんや。
たぶんうちの大学の数学の教員で、あれ以上の授業をやれる
もんはおらんぞ。俺はちょうど1年前に取ったんやけど、
お前も取った方がいいと思う。まあ、お前が授業についていけるか
どうかは、俺にはわからんけどな」

「A助教授は大学院生のとき、斬新な発想で数学の未解決問題を解き
世界に名を轟かせたという。ほとんどの受講者は、第一にその
実績のすごさに惹かれて授業を取ったそうだが、僕にとっては
それと同じくらい「鉄道旅行好き」「遅刻嫌い」が重要だった。」

「このときも僕は、授業の冒頭のA助教授の奇妙なしぐさから、
強烈な「同種の人間だけが発する雰囲気」を受け止めていたのである。」

「そう言われて改めて見ると、確かにA助教授は落ち着かない様子で、
しきりとシャツの肘の部分で顔の汗を拭き、下を向いたまま何やら
独り言を言いつつ、持ってきた教材をいじっている。どうやら、
教材を机の縁と平行に並べることができず、イライラしているようだった。」

「僕は「結構難しそうだな」と思いつつ、今まで記憶にプリントして
きたさまざまな解法を引っ張り出し、それらを組み合わせて、正解
を考えていった。僕は数学の問題を解くとき、いつもその方法を
駆使していた。A教授が出した5問についても、しばらく集中して
考えていると、脳内のメモリーから呼び起こしたいくつかの解法の
コンビネーションで、どれも解ける見込みが立った。」

「A助教授は思わぬ行動に出た。出題した5問それぞれの下に、再び猛
スピードで解答を書き始めたのだ。どれも、教科書が教える解法を
組み合わせた模範解答であり、しかも、僕がつい今しがた考えついた
ものとほぼ同じだった。」

「「すべての問題を、今、私が書いたものとは別の解法で解いてください
ここに書いたのは、教科書に載っているやり方を組み合わせただけの、
バカでも思いつく解法です。私が君たちに求めるのは、これとは別の
解法を考えることです。
 いいですか。他の人と同じ解法で問題を解いても、数学の研究には
何の意味もありません

「黒板に書いたもの以外の方法で3問以上正解したら、今日の授業に
出席したと認めます。2問以下だったら、欠席にします!」

=== こりゃあ、もう、まさに天才の世界ですね。
    その場で、新しい数学の解き方を自分で作れってんですから。
    高校3年の数学で落ちこぼれた私には想像もできません。

「僕は一礼して再び助教授の顔を見ると、その視線は明らかに
こう語りかけていた。
「君がそういうことをしたいのなら、勝手にすればいいさ。でも、
君には才能がないし、そんな卑怯な手段を使ったところで、
才能が芽生えるわけでもないんだよ」」

「こんな話を聞くたびに、僕は震え上がった。数学の才能がない
(正確に言うと、「数学ではバカ」な)だけでなく、一般社会
より閉鎖的で面倒くさそうな人間関係
の中を渡っていかねばならない。
これは、二重の意味で、「お前に研究者は無理だ」と宣告されて
いるのと同じことではないか。」

=== ここで思い出したのが「国語学者 大野晋の生涯」です。
    大野氏は大学内どころか、国語学会や、果てはマスコミ
    までを敵に回して闘っていたんですねえ。
    学問の世界は恐ろしい。

    本来なら、学問は真実を求めて研究することなんだから
    どんな説を誰が提唱しようが自由な筈だと思うんですが
    例の小保方事件のような死者まででた件もありますしねえ。
    (私は小保方頑張れ派ですけど・・・)
    「それでも地球は廻っている」・・・

 

 

・・・ ここから「第17回」に突入です。

「お父さん、これ、英語で何ていうの? 英語の先生から
『お父さんかお母さんか、家族の誰かに聞いてきなさい』って
言われたんだ」

「さっそく「糊は英語で『ペイスト(paste)』というんだよ」と
教えてあげた。」

「僕が質問しているのは、糊のことじゃないよ。糊が入っている
『箱』
のことだよ!」

「息子は、糊が入ったプラスチックの箱の部分を指でコツコツと
苛立たしげに何度も叩くと、詰問口調でこう問い糾してきた。」

おそらく先生は、糊が入ったプラスチックの箱を児童たちに見せて、
「これを英語で何と言うのか、家で聞いてきなさい」と指示したに
違いない。当然ながら、これは、「糊を英語で何というのか、
家で聞いてきなさい」の意味である。」

「「もし糊のことを言いたいんだったら、先生は蓋を開けて中の
糊を指さしたり、糊をすくい上げたりして説明したはずだよ。
そうしないで箱を見せたんだから、やっぱり箱のことだよ。
ねえ、この箱、英語で何ていうの!?」
 という具合に、妙な論理(?)を並べ立てて譲らないのだ。」

「妻が、ポツリと言った。
「小学生の今なら、あんなことを言っても可愛いけれど、
大人になっても同じことを言っていたら、本当に大変よね」」

=== なるほど・・・「妙な論理」ですね。
    しかし、厳密に考えると それなりに納得して
    しまいそうな・・・・
    日本語を入門者に教える時に、「こ・そ・あ・ど
    は、丁寧に教えなくちゃいけないんですが、
    「これ、それ、あれ」の範囲がどこまでなのかは
    本人の位置と指し示されるものとの関係で動きます
    から、確かに曖昧なところはありますもんね。

「医師によれば、僕が仕事中に声をかけられるのを嫌がる理由は、
他にもあるらしい。ASDを持つ人間は、予定を変更されると感情が
激しく波立つだけでなく、「同時に2つのことを行うのが苦手」と
いう特徴もある。その点も大きく影響しているのではないか、
と医師は説明してくれた。」

「仕事をしているときに声をかけられたり、まったくの別件で
電話がかかってきたりすると、しばらくは何もできなくなってしまう。」

=== 「仕事中に声を掛けられる」「予定を変更される」
    「同時にふたつのことをする」
    これは 私も基本的に嫌いでした。
    (現役時代の話ですけど・・・)

    ちなみに、私の現役時代は、告白しますと、
    会社の携帯電話を持たされるのが大嫌いでして、
    だいたいいつも電源を切っていました。
    (どうもスビバセンね・・・笑)

「教官が黒板に10個の英文を書き、「では、ここに書いた英文
訳してください」と言った。」

「先生は『ここに書いた英文を訳してください』とおっしゃったとき、
上から4番目の文章を指さしていたんです。だから僕は、4番目の
英文を訳しました。先生は、それ以外の文章を訳せとはおっしゃら
なかったじゃないですか」

「絶句した教官は、そのまま何も言わずに教壇に戻った。おそらく、
腹を立てるのを通り越して、「こんなにエキセントリックで、
まともなコミュニケーション力もない学生とは話しても意味がない」
と考えたのだろう。」

「教師が黒板を指さして「ここに注意しなさい」と言うたびに、
高校時代の僕は「先生の指先に注意を集中させなければならない」
と思い込むのだった。その結果、チョークを持ったり、ペンを
持ったり、首筋を掻いたりする先生の指先をじろじろと視線で
追ってしまうのが常だった。」

「教官の言葉の受け取り方に関して、Yと僕に違いはなかった。
大きな差は、僕が「自分は嫌われやすい人間である」と知って
いた点だ。だから、常に周囲と同じように話し、同じように振る
舞わなければならないと、自分を省みて細心のチェックを怠ら
なかった。Yには、その自覚と注意がまるで欠けていた。」

=== 上記の「これ、それ、あれ」もそうですが、
    ここの「ここ、そこ、あそこ」の事例も
    内容的には アスペな人たちの「これ」や「ここ」の
    範囲が狭いという特徴があるようですね。

    それと、「思い込み」。
    私自身もかなり思い込みが強い方かもしれません。
    最近は歳のせいか、かなり学習したように思います。

         もっと歳をとったら、思い込みがまた強くなるのかなあ・・・
    
    もしかしたら、世の中のいわゆる「クレーマー」と
    呼ばれる人たちの中には、自分の思い込みから
    抜け出せない人というのが多いのかもしれないですね。

    インターネットやSNSなんかで、
    特に政治的な話になったときに、非常に強い主義
    主張を持っている人が書いたものを見ることが
    ありますが、私は常々「良くまあ、ブレずに
    自信を持って主張ができるものだ」と感心します。
    私なんかは、ふにゃふにゃですからねえ。
    政治的な話ってのは、その事柄について、余程の
    根拠になる事実を直接知らなかったら自信を持って
    言うことなんて出来ないよ・・・ってのが私の
    気持ちなんで。
    正に「空気を読む」ことぐらいしか現実には出来ない
    ですもんねえ・・・ああ、ヤダヤダ。

・・・・・

では、次回は その13 になります。

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2016年11月30日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 100 反動総統の自爆?と神父たちの殉教

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

今日は記念すべき「第100号」なんですが、

先が長いなあ・・・・・

 

Img_3979_16

 

「第十六章  フィリピンのナショナリズム」

 

 

p218

「反動体制への逆戻り」

 

1868年のスペイン革命で作られた一時的なスペイン共和国は、

1870年の終焉を迎えた。 そして、専制政治に逆戻りした。

その新しい王は、サボイのアマデオ王(1871-73年)で、

イタリア王の次男だった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%AA1%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)

 

スペインの政権の変化によって、フィリピンの政治的雰囲気も

同じように変化した。 デ ラ トレ総統の民主的体制は

その短い時代を終え、反動的体制へ逆戻りしてしまった。

 

 

Izquierdo、独裁的総督 (1871-73年)」

 

・・・Izquierdo総督の最初の公的な行為は、マニラのフィリピン人

によって組織された芸術・商業学校の非承認であった。

彼の反対は学校が政治的なクラブとして使われるかもしれないという

薄っぺらな疑惑に基づくものであった。

修道士と君主制主義のスペイン人の支援を得て、総督は物事の

古い命令を復活させた。 彼は、新聞の検閲を復活させ、

政治的権利と教区のフィリピン人化のすべての議論を禁止し、

デ・ラ・トレ体制を支えた全てのフィリピン人に疑いをもって見た。

 

=== スペイン本国の大混乱で フィリピンの体制も

    右往左往の状態になったんですね。

    しかし、デ・ラ・トレ総督の民主的な時代に

    フィリピン人の権利意識が既に芽生えてしまっていた。

 

 

「1872年の カビテの反乱」

 

1872年1月20日の夜、カビテ兵器工場のおよそ200人の

フィリピン人兵士と労働者が反乱を起こした。

・・・反乱した者たちは、マニラのフィリピン人兵士たちが

彼らに呼応して決起するものと信じさせられていた。

その夜に、市の城壁からロケットを打ち上げて合図としていた。

ところが、不運なことに、その城壁の郊外にあるマニラの

サンパロックでは、丁度その日にお祭りが開催されていて、

派手な花火大会が行なわれたのだった。

 

=== ってことで、間抜けなことに、この計画は1月22日に

    鎮圧されてしまうわけです。

 

p219

その反乱の直後に、多くのフィリピン人聖職者や愛国者たちが

逮捕され、牢獄に放り込まれた。・・・・・

・・1872年1月27日に、総督は反乱者41名の死刑を

承認した。

 

 

「殉教者の処刑」

 

1872年2月17日、Burgos神父とZamora神父が

厳重な警備の中で、ルネタへ連行された。

フィリピン人や外国人を含めて、膨大な数の人々が

その処刑を目撃した。

 

p220

 

GomBurZa の殉教の重要性」

 

Gomez神父、Burgos神父、そしてZamora神父Gom-BurZa

の処刑は、フィリピンのスペイン人官吏にとって大きな失策であった。

幸運にも、教会は、国によって実施された不正に関与していなかった。

 

処刑に先立ち、大司教の Gregorio Meliton Martinezは、

総督からその3名の聖職者から聖職者の地位を取り除き

降格するよう要請されたが、それを拒否したのだ。

 

処刑の当日、市の教会の鐘は、葬送歌を打ちならし、

去ってゆく殉教者の魂に全キリスト教徒の別れを告げる敬意を

表したのである。

 

フィリピンの民衆は3名の神父たちの処刑に心から憤慨した。

3名の神父たちは無罪であることを知っていたし、フィリピン人の

権利を代表した為に殺されたということを知っていたからである。

従って、フィリピン人たちは、殉教した神父たちは彼らの

祖国の真の殉教者だと見なしたのだ。

その怒りの中にあって、民衆は部族の違いや地域の障壁を忘れ、

ひとつの主張のために闘うべく結集することになった。

GomBurZaの処刑は、フィリピン・ナショナリズムの拡大

早めることになった。 そして、そのことが、結局 スペインの

没落をもたらすことになった。

 

=== 反動総督が、自らスペイン没落の引き金を引いてしまった

    ということですね。

 

    細かい表現のところで、ちょっと日本人的表現とは

    違うかなと感じた点をひとつ・・

    「神父たちの処刑に心から憤慨した」という文が

    あるんですけど、この「憤慨した(resented)」と

    いうのは、日本人的には「悲しんだ」ぐらいじゃ

    ないかなと思ったんです。

    フィリピン人の方が、こういう場合は日本人よりも

    怒る方に傾きやすいかなと思ったんです。

 

=== たまたまですけどね。 こんな記事があったんです。

    「「日本には抵抗の文化がない 

福島訪問したノーベル賞作家が指摘」

 http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/29/svetlana-alexievich-_n_13295940.html?utm_hp_ref=japan

 

     これを読んで、日本人は深く悲しむんだけど、

     一応民主主義国でありながら、権利意識が低い

     民族なのかなと思ったわけです。

     地震や津波や台風やら、自然災害が多く、

     八百万の神々を大切に思う日本人には、人災に対する

     正当な権利意識が 戦後70年くらいの民主主義教育

     では育ってこなかったのかな・・って話です。

 

 

・・・・・

 

では、その101号に続きます

フィリピンの革命は どのように進んでいくのでしょうか。

 

 

 

 

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2016年11月29日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 99  相当な自由主義者のスペイン人総統!

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3963

 

「第十六章  フィリピンのナショナリズム」

 

 

p215

「スエズ運河とフィリピン人」

 

 

・・・・海上旅行と通信が整えられたことによって、

さらに多くのスペイン人(役人、冒険家、そして求職者)が

フィリピンにやってきて、スペイン人の人口が膨れ上がった。

1810年には、フィリピンにはほんの4,000人しか

スペイン人居住者はいなかったが、これが1870年には

15,000人へと増加した。

スペイン人ばかりではなく、ヨーロッパ人旅行者や自由主義思想

がスエズ運河経由でフィリピンに到来した。

 

 

=== なんで、スエズ運河が フィリピンのナショナリズムと

    関係あるの?  って思ったんですけど。

    こういうことでした。

 

 

De la Torre、 自由主義のスペイン人総督(1869-71年)」

 

・・・・総督 de la Torreは、期待通りで、素晴らしい最高責任者

であった。 彼は民主主義の哲学を 私的にも公務においても

示した。 彼は質素に暮らし、前任者のようなきらびやかな華美さ

や浪費は排除した。彼は、1591年以来色鮮やかな制服と

古風な武器を持ち、総督を取り囲んできた宮殿の儀仗兵を解職した。

総督は、市街地に出て、一般市民の格好で、警備員にも守られては

いなかった。 彼は、自由に褐色の肌のフィリピン人の中に入り

青白い顔色のスペイン人やスペイン系メスティーソ(混血)も

公平に扱った。

 

 

「1869年の自由主義の夜の調べ」

 

1869年7月12日の夕べ・・・・フィリピン人は、総督の公邸で、

総督の自由主義政策への高い評価と感謝を明らかに示すために、

歌って演奏した。 夜会は有名なマニラの住民によって催された・・・

 

・・・その夜会は、マニラの専制主義者のスペイン人たちに衝

を与えた。それは、フィリピン人は一切自由主義や民主主義に

ついて自由に話すことを許されていなかったし、スペイン人の

最高責任者がフィリピン人を宮殿での食事会に招待するなどと

いうことはなかったからであった。

総督は多くのスペイン人の敵を作ることになった。

しかしその反面、彼は数え切れないほどのフィリピン人の友人

獲得したのだった。

p216

 

「自由のパレードと赤いリボンの宴会」

 

1869年9月21日、新しいスペインの憲法がマニラで

公布された。  ・・・・・

 

総督は再び、自由のパレードを準備したフィリピン人のリーダー

たちを、宮殿に招き歓待した。

総督の夫人は病弱だったので、活発なサンチェス夫人が宮殿の

ホステス役を務めた。

彼女は赤いドレスで、髪には赤いリボンをつけていた・・・

・・・彼女は 親フィリピン人の気持ちがあったので、

フィリピン人の母」と呼ばれた。

 

 

「自由主義とフィリピンの愛国者」

 

・・・・フィリピン人愛国者たちは、「改革委員会」という組織

を作り、三つの部門を設けた ―― 聖職者、一般人、学生

部門である。・・・・

 

・・・Buencaminoは、いつくかの学生組織を率いて、サント・トーマス

大学のドミニコ会当局に対峙し、授業の改善、学業の自由、そして

フィリピン人学生の公平な扱いを求めてデモを行なった。

彼は、これらのデモを率いたことで、1869年10月18日に逮捕され

投獄された。 しかし、彼は、Burgos神父の要請で、総督によって

短い投獄から解放された。

 

 

p217

 

「デ ラ トレ総統の業績」

 

二年間の任期の間に、総統 De la Torreは 多くの実りある

業績を残した。 彼は、新聞の厳しい検閲を廃止し、

政治的問題の自由な議論を育てた。 彼は、言論と新聞の

自由を認識し、それをスペインの憲法によって保障した。

総統の寛容な政策によって、Burgos神父及び彼の同胞は、

教区のフィリピン人化という世論を喚起した。

 

・・・・デ ラ トレ の最大の功績は、カビテにおける

農地紛争の平和的な収拾であった。 この州は、18世紀

の中ごろからずっと農地暴動の温床になっていた。

それは、土地を失ったフィリピン人小作農の抑圧が原因

であった。 ・・・・・

 

 

 

==== いきなりの自由主義の到来で、一番面喰った

     のは既得権益を持っていたスペイン人だったのでしょうね。

     さて、今からが革命の本番に入っていくみたいです。

     その前に、ひと波乱ありそうですけど・・・

 

 

・・・・・

 

それでは、次回 100号をお楽しみに。

 

 

 

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