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2016年12月13日 (火)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その12

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。

今日は「第16回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34834

「4年生の春、僕は深刻な悩みに直面していた。
 大学を卒業した後の進路、つまり就職先がまったく決まって
いなかったのだ。」

「「人間関係の構築が大の苦手」「場の空気が読めない」
「人の気持ちを忖度(そんたく)して発言することができない」
「その結果、人を不快にさせたり、怒らせたりしがちで、コミュニティ
や組織の中で嫌われ者になりやすい
」といった特性を持っていること
ははっきり自覚していた。」

==== さて、いよいよ「社会人になる」ところに入って
     来ました。 この方の場合は、まで「自覚していた」
     だけでも、そうでない人に比べればまだチャンスが
     あったのでしょうが・・・・

     アスペじゃない人にとっては、そこまで自分自身に
     「自覚」があるかどうか疑問です。
     私なぞは、まったくそんな自覚はありませんでした。

「「俺たちみたいな人間は組織の中でうまくやっていけないのかも
しれない」と一瞬でも思ったが最後、それはすぐに「俺のような人間は
社会で働いて食っていけないのかもしれない」「俺にはこの社会に
"居場所"がないのかもしれない」という予感を呼び起こすからである。
それは本当に、身も震えるほど恐ろしいことだった。」

「「研究者になろう」と決めていた最大の理由は、Numbers研究会の
先輩たちや顧問教授の話を聞いて、大学の研究室には僕と同じような
タイプの人間が多くいることを知ったからだった。他人の気持ちや
場の空気などを気にせず、偏愛する物事の研究に、深く専門的に
没入する人たちが集まる場所---。」

「好きなのは、あくまでも数字だけである。そういう人間は、
とても理科系とは呼べないだろう。
 実は、Numbers研究会の先輩たちにも同じタイプが多かった。
物理や化学を専攻する人はなぜかごく少数で、数学、経済学、哲学、
心理学、文化人類学などを学ぶ人が多数派だったし、僕とも気が合った。」

「次第に「大学の研究室こそが、俺のような人間にとっては理想的な
職場ではないか」と思えてきた。」

=== ここまで読めば、確かにそうだよなと私も思ったん
    ですが、学問の世界はそんなもんじゃないようです。

「僕は自分の途方もない甘さを、ある授業によってきっちり
思い知らされることになった。」

「おい奥村、後期にめっちゃおもろい数学の授業があるんや。
たぶんうちの大学の数学の教員で、あれ以上の授業をやれる
もんはおらんぞ。俺はちょうど1年前に取ったんやけど、
お前も取った方がいいと思う。まあ、お前が授業についていけるか
どうかは、俺にはわからんけどな」

「A助教授は大学院生のとき、斬新な発想で数学の未解決問題を解き
世界に名を轟かせたという。ほとんどの受講者は、第一にその
実績のすごさに惹かれて授業を取ったそうだが、僕にとっては
それと同じくらい「鉄道旅行好き」「遅刻嫌い」が重要だった。」

「このときも僕は、授業の冒頭のA助教授の奇妙なしぐさから、
強烈な「同種の人間だけが発する雰囲気」を受け止めていたのである。」

「そう言われて改めて見ると、確かにA助教授は落ち着かない様子で、
しきりとシャツの肘の部分で顔の汗を拭き、下を向いたまま何やら
独り言を言いつつ、持ってきた教材をいじっている。どうやら、
教材を机の縁と平行に並べることができず、イライラしているようだった。」

「僕は「結構難しそうだな」と思いつつ、今まで記憶にプリントして
きたさまざまな解法を引っ張り出し、それらを組み合わせて、正解
を考えていった。僕は数学の問題を解くとき、いつもその方法を
駆使していた。A教授が出した5問についても、しばらく集中して
考えていると、脳内のメモリーから呼び起こしたいくつかの解法の
コンビネーションで、どれも解ける見込みが立った。」

「A助教授は思わぬ行動に出た。出題した5問それぞれの下に、再び猛
スピードで解答を書き始めたのだ。どれも、教科書が教える解法を
組み合わせた模範解答であり、しかも、僕がつい今しがた考えついた
ものとほぼ同じだった。」

「「すべての問題を、今、私が書いたものとは別の解法で解いてください
ここに書いたのは、教科書に載っているやり方を組み合わせただけの、
バカでも思いつく解法です。私が君たちに求めるのは、これとは別の
解法を考えることです。
 いいですか。他の人と同じ解法で問題を解いても、数学の研究には
何の意味もありません

「黒板に書いたもの以外の方法で3問以上正解したら、今日の授業に
出席したと認めます。2問以下だったら、欠席にします!」

=== こりゃあ、もう、まさに天才の世界ですね。
    その場で、新しい数学の解き方を自分で作れってんですから。
    高校3年の数学で落ちこぼれた私には想像もできません。

「僕は一礼して再び助教授の顔を見ると、その視線は明らかに
こう語りかけていた。
「君がそういうことをしたいのなら、勝手にすればいいさ。でも、
君には才能がないし、そんな卑怯な手段を使ったところで、
才能が芽生えるわけでもないんだよ」」

「こんな話を聞くたびに、僕は震え上がった。数学の才能がない
(正確に言うと、「数学ではバカ」な)だけでなく、一般社会
より閉鎖的で面倒くさそうな人間関係
の中を渡っていかねばならない。
これは、二重の意味で、「お前に研究者は無理だ」と宣告されて
いるのと同じことではないか。」

=== ここで思い出したのが「国語学者 大野晋の生涯」です。
    大野氏は大学内どころか、国語学会や、果てはマスコミ
    までを敵に回して闘っていたんですねえ。
    学問の世界は恐ろしい。

    本来なら、学問は真実を求めて研究することなんだから
    どんな説を誰が提唱しようが自由な筈だと思うんですが
    例の小保方事件のような死者まででた件もありますしねえ。
    (私は小保方頑張れ派ですけど・・・)
    「それでも地球は廻っている」・・・

 

 

・・・ ここから「第17回」に突入です。

「お父さん、これ、英語で何ていうの? 英語の先生から
『お父さんかお母さんか、家族の誰かに聞いてきなさい』って
言われたんだ」

「さっそく「糊は英語で『ペイスト(paste)』というんだよ」と
教えてあげた。」

「僕が質問しているのは、糊のことじゃないよ。糊が入っている
『箱』
のことだよ!」

「息子は、糊が入ったプラスチックの箱の部分を指でコツコツと
苛立たしげに何度も叩くと、詰問口調でこう問い糾してきた。」

おそらく先生は、糊が入ったプラスチックの箱を児童たちに見せて、
「これを英語で何と言うのか、家で聞いてきなさい」と指示したに
違いない。当然ながら、これは、「糊を英語で何というのか、
家で聞いてきなさい」の意味である。」

「「もし糊のことを言いたいんだったら、先生は蓋を開けて中の
糊を指さしたり、糊をすくい上げたりして説明したはずだよ。
そうしないで箱を見せたんだから、やっぱり箱のことだよ。
ねえ、この箱、英語で何ていうの!?」
 という具合に、妙な論理(?)を並べ立てて譲らないのだ。」

「妻が、ポツリと言った。
「小学生の今なら、あんなことを言っても可愛いけれど、
大人になっても同じことを言っていたら、本当に大変よね」」

=== なるほど・・・「妙な論理」ですね。
    しかし、厳密に考えると それなりに納得して
    しまいそうな・・・・
    日本語を入門者に教える時に、「こ・そ・あ・ど
    は、丁寧に教えなくちゃいけないんですが、
    「これ、それ、あれ」の範囲がどこまでなのかは
    本人の位置と指し示されるものとの関係で動きます
    から、確かに曖昧なところはありますもんね。

「医師によれば、僕が仕事中に声をかけられるのを嫌がる理由は、
他にもあるらしい。ASDを持つ人間は、予定を変更されると感情が
激しく波立つだけでなく、「同時に2つのことを行うのが苦手」と
いう特徴もある。その点も大きく影響しているのではないか、
と医師は説明してくれた。」

「仕事をしているときに声をかけられたり、まったくの別件で
電話がかかってきたりすると、しばらくは何もできなくなってしまう。」

=== 「仕事中に声を掛けられる」「予定を変更される」
    「同時にふたつのことをする」
    これは 私も基本的に嫌いでした。
    (現役時代の話ですけど・・・)

    ちなみに、私の現役時代は、告白しますと、
    会社の携帯電話を持たされるのが大嫌いでして、
    だいたいいつも電源を切っていました。
    (どうもスビバセンね・・・笑)

「教官が黒板に10個の英文を書き、「では、ここに書いた英文
訳してください」と言った。」

「先生は『ここに書いた英文を訳してください』とおっしゃったとき、
上から4番目の文章を指さしていたんです。だから僕は、4番目の
英文を訳しました。先生は、それ以外の文章を訳せとはおっしゃら
なかったじゃないですか」

「絶句した教官は、そのまま何も言わずに教壇に戻った。おそらく、
腹を立てるのを通り越して、「こんなにエキセントリックで、
まともなコミュニケーション力もない学生とは話しても意味がない」
と考えたのだろう。」

「教師が黒板を指さして「ここに注意しなさい」と言うたびに、
高校時代の僕は「先生の指先に注意を集中させなければならない」
と思い込むのだった。その結果、チョークを持ったり、ペンを
持ったり、首筋を掻いたりする先生の指先をじろじろと視線で
追ってしまうのが常だった。」

「教官の言葉の受け取り方に関して、Yと僕に違いはなかった。
大きな差は、僕が「自分は嫌われやすい人間である」と知って
いた点だ。だから、常に周囲と同じように話し、同じように振る
舞わなければならないと、自分を省みて細心のチェックを怠ら
なかった。Yには、その自覚と注意がまるで欠けていた。」

=== 上記の「これ、それ、あれ」もそうですが、
    ここの「ここ、そこ、あそこ」の事例も
    内容的には アスペな人たちの「これ」や「ここ」の
    範囲が狭いという特徴があるようですね。

    それと、「思い込み」。
    私自身もかなり思い込みが強い方かもしれません。
    最近は歳のせいか、かなり学習したように思います。

         もっと歳をとったら、思い込みがまた強くなるのかなあ・・・
    
    もしかしたら、世の中のいわゆる「クレーマー」と
    呼ばれる人たちの中には、自分の思い込みから
    抜け出せない人というのが多いのかもしれないですね。

    インターネットやSNSなんかで、
    特に政治的な話になったときに、非常に強い主義
    主張を持っている人が書いたものを見ることが
    ありますが、私は常々「良くまあ、ブレずに
    自信を持って主張ができるものだ」と感心します。
    私なんかは、ふにゃふにゃですからねえ。
    政治的な話ってのは、その事柄について、余程の
    根拠になる事実を直接知らなかったら自信を持って
    言うことなんて出来ないよ・・・ってのが私の
    気持ちなんで。
    正に「空気を読む」ことぐらいしか現実には出来ない
    ですもんねえ・・・ああ、ヤダヤダ。

・・・・・

では、次回は その13 になります。

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2016年11月30日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 100 反動総統の自爆?と神父たちの殉教

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

今日は記念すべき「第100号」なんですが、

先が長いなあ・・・・・

 

Img_3979_16



 

「第十六章  フィリピンのナショナリズム」

 

 

p218

「反動体制への逆戻り」

 

1868年のスペイン革命で作られた一時的なスペイン共和国は、

1870年の終焉を迎えた。 そして、専制政治に逆戻りした。

その新しい王は、サボイのアマデオ王(1871-73年)で、

イタリア王の次男だった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%AA1%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)

 

スペインの政権の変化によって、フィリピンの政治的雰囲気も

同じように変化した。 デ ラ トレ総統の民主的体制は

その短い時代を終え、反動的体制へ逆戻りしてしまった。

 

 

Izquierdo、独裁的総督 (1871-73年)」

 

・・・Izquierdo総督の最初の公的な行為は、マニラのフィリピン人

によって組織された芸術・商業学校の非承認であった。

彼の反対は学校が政治的なクラブとして使われるかもしれないという

薄っぺらな疑惑に基づくものであった。

修道士と君主制主義のスペイン人の支援を得て、総督は物事の

古い命令を復活させた。 彼は、新聞の検閲を復活させ、

政治的権利と教区のフィリピン人化のすべての議論を禁止し、

デ・ラ・トレ体制を支えた全てのフィリピン人に疑いをもって見た。

 

=== スペイン本国の大混乱で フィリピンの体制も

    右往左往の状態になったんですね。

    しかし、デ・ラ・トレ総督の民主的な時代に

    フィリピン人の権利意識が既に芽生えてしまっていた。

 

 

「1872年の カビテの反乱」

 

1872年1月20日の夜、カビテ兵器工場のおよそ200人の

フィリピン人兵士と労働者が反乱を起こした。

・・・反乱した者たちは、マニラのフィリピン人兵士たちが

彼らに呼応して決起するものと信じさせられていた。

その夜に、市の城壁からロケットを打ち上げて合図としていた。

ところが、不運なことに、その城壁の郊外にあるマニラの

サンパロックでは、丁度その日にお祭りが開催されていて、

派手な花火大会が行なわれたのだった。

 

=== ってことで、間抜けなことに、この計画は1月22日に

    鎮圧されてしまうわけです。

 

p219

その反乱の直後に、多くのフィリピン人聖職者や愛国者たちが

逮捕され、牢獄に放り込まれた。・・・・・

・・1872年1月27日に、総督は反乱者41名の死刑を

承認した。

 

 

「殉教者の処刑」

 

1872年2月17日、Burgos神父とZamora神父が

厳重な警備の中で、ルネタへ連行された。

フィリピン人や外国人を含めて、膨大な数の人々が

その処刑を目撃した。

 

p220

 

GomBurZa の殉教の重要性」

 

Gomez神父、Burgos神父、そしてZamora神父Gom-BurZa

の処刑は、フィリピンのスペイン人官吏にとって大きな失策であった。

幸運にも、教会は、国によって実施された不正に関与していなかった。

 

処刑に先立ち、大司教の Gregorio Meliton Martinezは、

総督からその3名の聖職者から聖職者の地位を取り除き

降格するよう要請されたが、それを拒否したのだ。

 

処刑の当日、市の教会の鐘は、葬送歌を打ちならし、

去ってゆく殉教者の魂に全キリスト教徒の別れを告げる敬意を

表したのである。

 

フィリピンの民衆は3名の神父たちの処刑に心から憤慨した。

3名の神父たちは無罪であることを知っていたし、フィリピン人の

権利を代表した為に殺されたということを知っていたからである。

従って、フィリピン人たちは、殉教した神父たちは彼らの

祖国の真の殉教者だと見なしたのだ。

その怒りの中にあって、民衆は部族の違いや地域の障壁を忘れ、

ひとつの主張のために闘うべく結集することになった。

GomBurZaの処刑は、フィリピン・ナショナリズムの拡大

早めることになった。 そして、そのことが、結局 スペインの

没落をもたらすことになった。

 

=== 反動総督が、自らスペイン没落の引き金を引いてしまった

    ということですね。

 

    細かい表現のところで、ちょっと日本人的表現とは

    違うかなと感じた点をひとつ・・

    「神父たちの処刑に心から憤慨した」という文が

    あるんですけど、この「憤慨した(resented)」と

    いうのは、日本人的には「悲しんだ」ぐらいじゃ

    ないかなと思ったんです。

    フィリピン人の方が、こういう場合は日本人よりも

    怒る方に傾きやすいかなと思ったんです。

 

=== たまたまですけどね。 こんな記事があったんです。

    「「日本には抵抗の文化がない 

福島訪問したノーベル賞作家が指摘」

 http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/29/svetlana-alexievich-_n_13295940.html?utm_hp_ref=japan

 

     これを読んで、日本人は深く悲しむんだけど、

     一応民主主義国でありながら、権利意識が低い

     民族なのかなと思ったわけです。

     地震や津波や台風やら、自然災害が多く、

     八百万の神々を大切に思う日本人には、人災に対する

     正当な権利意識が 戦後70年くらいの民主主義教育

     では育ってこなかったのかな・・って話です。

 

 

・・・・・

 

では、その101号に続きます。

フィリピンの革命は どのように進んでいくのでしょうか。

 

 

 

 

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2016年11月29日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 99  相当な自由主義者のスペイン人総統!

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3963

 

「第十六章  フィリピンのナショナリズム」

 

 

p215

「スエズ運河とフィリピン人」

 

 

・・・・海上旅行と通信が整えられたことによって、

さらに多くのスペイン人(役人、冒険家、そして求職者)が

フィリピンにやってきて、スペイン人の人口が膨れ上がった。

1810年には、フィリピンにはほんの4,000人しか

スペイン人居住者はいなかったが、これが1870年には

15,000人へと増加した。

スペイン人ばかりではなく、ヨーロッパ人旅行者や自由主義思想

がスエズ運河経由でフィリピンに到来した。

 

 

=== なんで、スエズ運河が フィリピンのナショナリズムと

    関係あるの?  って思ったんですけど。

    こういうことでした。

 

 

De la Torre、 自由主義のスペイン人総督(1869-71年)」

 

・・・・総督 de la Torreは、期待通りで、素晴らしい最高責任者

であった。 彼は民主主義の哲学を 私的にも公務においても

示した。 彼は質素に暮らし、前任者のようなきらびやかな華美さ

や浪費は排除した。彼は、1591年以来色鮮やかな制服と

古風な武器を持ち、総督を取り囲んできた宮殿の儀仗兵を解職した。

総督は、市街地に出て、一般市民の格好で、警備員にも守られては

いなかった。 彼は、自由に褐色の肌のフィリピン人の中に入り

青白い顔色のスペイン人やスペイン系メスティーソ(混血)も

公平に扱った。

 

 

「1869年の自由主義の夜の調べ」

 

1869年7月12日の夕べ・・・・フィリピン人は、総督の公邸で、

総督の自由主義政策への高い評価と感謝を明らかに示すために、

歌って演奏した。 夜会は有名なマニラの住民によって催された・・・

 

・・・その夜会は、マニラの専制主義者のスペイン人たちに衝

を与えた。それは、フィリピン人は一切自由主義や民主主義に

ついて自由に話すことを許されていなかったし、スペイン人の

最高責任者がフィリピン人を宮殿での食事会に招待するなどと

いうことはなかったからであった。

総督は多くのスペイン人の敵を作ることになった。

しかしその反面、彼は数え切れないほどのフィリピン人の友人

獲得したのだった。

p216

 

「自由のパレードと赤いリボンの宴会」

 

1869年9月21日、新しいスペインの憲法がマニラで

公布された。  ・・・・・

 

総督は再び、自由のパレードを準備したフィリピン人のリーダー

たちを、宮殿に招き歓待した。

総督の夫人は病弱だったので、活発なサンチェス夫人が宮殿の

ホステス役を務めた。

彼女は赤いドレスで、髪には赤いリボンをつけていた・・・

・・・彼女は 親フィリピン人の気持ちがあったので、

フィリピン人の母」と呼ばれた。

 

 

「自由主義とフィリピンの愛国者」

 

・・・・フィリピン人愛国者たちは、「改革委員会」という組織

を作り、三つの部門を設けた ―― 聖職者、一般人、学生

部門である。・・・・

 

・・・Buencaminoは、いつくかの学生組織を率いて、サント・トーマス

大学のドミニコ会当局に対峙し、授業の改善、学業の自由、そして

フィリピン人学生の公平な扱いを求めてデモを行なった。

彼は、これらのデモを率いたことで、1869年10月18日に逮捕され

投獄された。 しかし、彼は、Burgos神父の要請で、総督によって

短い投獄から解放された。

 

 

p217

 

「デ ラ トレ総統の業績」

 

二年間の任期の間に、総統 De la Torreは 多くの実りある

業績を残した。 彼は、新聞の厳しい検閲を廃止し、

政治的問題の自由な議論を育てた。 彼は、言論と新聞の

自由を認識し、それをスペインの憲法によって保障した。

総統の寛容な政策によって、Burgos神父及び彼の同胞は、

教区のフィリピン人化という世論を喚起した。

 

・・・・デ ラ トレ の最大の功績は、カビテにおける

農地紛争の平和的な収拾であった。 この州は、18世紀

の中ごろからずっと農地暴動の温床になっていた。

それは、土地を失ったフィリピン人小作農の抑圧が原因

であった。 ・・・・・

 

 

 

==== いきなりの自由主義の到来で、一番面喰った

     のは既得権益を持っていたスペイン人だったのでしょうね。

     さて、今からが革命の本番に入っていくみたいです。

     その前に、ひと波乱ありそうですけど・・・

 

 

・・・・・

 

それでは、次回 100号をお楽しみに。

 

 

 

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2016年11月28日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 97 政教一致による失政/ホセ・リサール登場

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第十五章  スペインによる統治の黄昏」

 

 

p209

「修道士による統治」(The Frailocrasy)

 

政教一致はスペインのフィリピンに、悪名高い目に見えない政府を

生みだした。この政府は 「frailocracy(frailocracia)と呼ばれ、

その意味は「修道士による統治」であった。 

19世紀の最後の数十年間、スペイン人修道士たちは、非常に

影響力があり権力があった。 そして、実質的にフィリピンを

統治した。 スペイン人の文官、総督や王立大審問院のメンバーを

含めて、彼らを恐れた。 

The friars could not make and unmake them.

(修道士たちは、彼らを地位につけることはできないが、

 奪うことはできた。 ???)

修道士たちは、政府を支配した上に、植民地の教育制度を管理し、

フィリピンの優良な荘園を所有した。

 

フィリピンのキリスト教徒の町ならどこでも、教区司祭

実際上の支配者であり、選ばれた首長ではなかった。

教区司祭は、地方選挙の管理者であり、学校の検査官であり、

道徳の権威者であり、そしてまた、書籍や舞台上演の検閲官でもあった。

・・・

 

修道士たちは、あえて抵抗するものや彼らの手へのキスを拒否する

愛国的フィリピン人を逮捕する命令を出すことも出来たし、

遠隔地へ追放することも出来た。 彼らは、反修道士の

フィリピン人を filibusteros(売国奴)と呼んだ。

 

それは、フィリピンを啓発されないままに維持し、またフィリピンの

スペインによる統治を守るための、多くの修道士の執念となった。

 

 

p210

 

「スペイン統治に対するフィリピン人の不満の種」

 

・・・・スペイン統治に対するフィリピン人の不満の種は

次のようなものであった;

(1)政府へのフィリピン人の参加がほとんどなかった。

(2)人権が認められなかった。

(3)フィリピンでのスペイン人役人社会の汚職

(4)修道士たちの虐待と不道徳

(5)フィリピン人に対する人種差別

(6)スペインの司法における失政

(7)フィリピン人愛国者にたいする迫害

 

==== この後に上記1~7のひとつひとつについて

     説明が続きますが、一部だけ翻訳:

 

 

「フィリピンにおけるスペイン人役人社会の汚職」

 

多くのスペイン人植民地官吏たちが汚職にまみれ、無能で、

悪いことには虐待的であった。彼らは大抵は困窮した求職者で

あり、渡り政治家であり、フィリピンにやってきた放浪者で

あった。 彼らは、教育や良い道徳心もなく、市長職や

政軍知事や陸軍将校などの良い仕事を見つけた。

 

=== つまりは、スペイン人なら誰でもよかったわけですね。

    本国のスペインが混乱状態になって、失職し、

    植民地であるフィリピンに流れてきた貧乏人だった

    というわけですね。

    これと似たような話が、戦前の日本でもありました。

    食いっぱぐれた日本人たちが、満州へ満州へと

    国策で渡り、酷い目にあって敗戦後の日本に戻った。

    私は、そういう引き揚げ者の息子ですけど・・・

 

 

「悪徳修道士による虐待と不道徳」

 

・・・・悪いスペイン人修道士が、ホセ・リサール博士の小説

(「ノリ・メ・タンヘレ」と「エル・フィリブステリスモ」)の

中・・・・・で描写されている。

これらの悪い修道士たちは、傲慢であり、虐待的であり、

不道徳であった。 彼らの多くが、地元の女たちと不正な関係を

持ち、子供を産ませた。 ・・・・

 

 

「人種差別」

 

スペイン当局は、褐色のフィリピン人を劣等民族とみなし、

嘲るように彼らを「インディオス」と呼んだ。

このフィリピン人に対する人種的偏見は、政府機関、陸軍、

大学、裁判所そして上流社会にもあった。

 

・・・ホセ・リサールは、文学のコンテストにおいてスペイン人

著述家を凌ぎ、内科医、文筆家、学者、そして科学者としての

名声を獲得し、褐色の男が 偉大で、あるいは白人にも勝る

ことが出来ると証明した。

 

 

=== やっと、ホセ・リサールの登場です。

    随分前に東京の国会図書館で読んだ ふたつの小説

    については、こちらでどうぞ: 

ノリ・メ・タンヘレ  Noli Me Tangere を読む

「われに触れるな」

エル・フィリブステリスモ 
El Filibusterismo

岩崎玄 訳 「反逆・暴力・革命」 から

 

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/09/post_a44c.html

 

=== 私はこれを読んで以来、現代のフィリピンにも

    ホセ・リサールが必要だなあ・・・と思ったものです。

      ちなみに、この2冊の本は、フィリピンの学校では

      国民の英雄の書籍として 必ず授業で教えるそうです。

 

 

 

・・・・ その98 に続きます ・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月25日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 93 何故 反乱は失敗したのか 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

p199

 

Hermano Pule の宗教的反乱」

 

フィリピンで最初の大きな反乱、実際に宗教の自由

求めた闘いは、1840-1841年にTayabas(現在の

ケソン州)で起った Apolinario de la Cruzに率いられた

反乱であった。Hermano Puleとして良く知られている、

この宗教的指導者は、TayabasLukbanPandak村で

815年7月22日に生まれた。

彼の両親は、・・・・小作農の家系の信心深いカトリック

教徒であった。

 

少年時代の早い内から、Apolinarioは聖職者になりたいと

思っていた。 1839年、24歳の時、彼は修道会に

入るためにマニラに出た。

どこの修道会も彼を受け入れてはくれなかった。 それは、

彼がインディオ(現地人)だという理由からだった。

その当時、すべての修道会がインディオには閉ざされていて、

それは偏見をもったスペイン人が現地人を劣った人間だと

見なしていたからであった。

冒険に挫折し、Apolinarioは召使としてSan Juan de Dios

の病院で働いた。 暇な時間に、彼は聖書やその他の宗教

関係の本を勉強し、著名な説教者の教会での説教を熱心に

聞いた。 このようにして、彼はカトリック神学について

多くの事を学ぶようになった。

 

1840年6月、彼はLukbanに戻って、Cofradia de

San Jose聖ヨセフの結社)を創設した。

それは、聖ヨセフを崇拝する為の友愛団体であり、

3月19日は聖ヨセフのお祭りの日だった。

それは、ある意味民族自決主義者の団体で、生来の

フィリピン人だけの団体だった。

白人のスペイン人やメスティーソ(混血)は会員には

なれなかった。 この宗教的友愛団体は、キリスト教徒の

善行の実施を育てた。それは、宗教的集まりや祈祷会への

参加を含んでいた。 そして、一番大切なのは、守護聖人

の祭の日、3月19日の荘厳ミサであった。

 

p200

スペイン当局は・・・これを異端とみなしたスペイン

修道士の勧めによって、これを禁止した。

Hermanoは、宗教的偏見や当局の狭量に臆することなく、

彼の宗教的運動を展開した。

 

=== 宗教が民族主義者を産んだというのが皮肉ですね。

    一神教は、絶対的な神の前には人間は平等だと

    いう考え方があるんだと思うんですが、

    「シビライズ(文明化)してやる」という偏見が

    こういう結果を産んだのでしょうか。

  

    一方、自然崇拝のような多神教、あるいは仏教の

    ような場合は、輪廻転生のようなあの世での差別

    みたいなものがあるようですけど、草木にも神が

    宿るみたいな話もあって、一神教なんかより

    民族主義的考え方が生まれ易いような気もするん

    ですけど、まあ、複雑ですね。

 

    ・・・で、結局このフィリピン人聖職者の反乱

    どうなったかって言うと・・・

 

p200

Hermano Puleは流血の大虐殺から逃れ、Ibanga村へ

逃げた。 そこで、彼は次の日の夕方に捉えられた。

1841年11月4日に、Tayabasの町で、銃殺刑執行隊

によって処刑された

 

 

p201

「何故 反乱は失敗したのか」

 

初期の反乱や暴動は悲惨な結果に終わった。

これは主に、フィリピン人の間に民族主義がなかった.

ことと、国民的指導者の不在が原因であった。

民族自決主義はフィリピン人の中にまだ発達しておらず、

1872年のGomez神父、Burgos神父そしてZamora神父の

殉教と1896年のリサールの処刑まで待つことになる。

 

 

p202

一方で、そこには、フィリピン人同士の多くの民族間の対立

階層間の嫉妬、そして一門相互の敵対心などがあった。

そして、これらは、スペインが divide et impera

分け隔てて統治する)という方針によって促進してきた

ことであった。

 

・・・・・フィリピン人が必要としたのは、全ての

フィリピン人が その指揮の下に武器をとって、ひとつの

国民として結集する指導者であった。

 

そのような指導者は、リサール、 M.H. del Pilar

Lopez Jaena、 ボニファシオ、Jacinto、マビニ、

アギナルド、 そして、Antonio Lunaで、

これらの人たちは19世紀が終わるころに現れることと

なる。

 

=== 日本人的に言えば、私のような戦後生まれは、

    このような民族主義礼賛のようなことが

    教科書に書かれているというのは、おやっと

    思うことではあるんですが、

    植民地とされた国の人々にとっては、やはり

    このような、国民を鼓舞するようなものが

    必要だと言うことなんでしょうね。

 

    戦後、アメリカに占領された時代があったとは

    いえ、民主主義という体制の中で、曲りなりにでも

    「歴史にイデオロギーを持ち込まず、事実に基づいて

     学問的に正しいとされていることを教科書で

     教えなくてはいけない」とでもいうような

    考え方を、私のような極普通の日本人が常識として

    持っているということが、幸せなことなんだなと

    思えるフィリピンの教科書です。

 

・・・・

 

では、次回 94号では、

「第15章 スペイン統治の黄昏」に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月24日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 92  憲法を守る、差別との戦い 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

 

p195

「憲法擁護の反乱(1815)」

 

フィリピンの歴史の中でもユニークな反乱は、1815年

3月3日に勃発し、流血の暴動となった。

それは、1812年のスペイン憲法を擁護するものだった。

 

この憲法は、思い出してもらわなくてはいけないのだが、スペイン

議会によって発布されたもので、184名のスペインの代表団

と海外の植民地(フィリピンを含む)によって

1812年3月19日に承認され署名されたものであった。

 

このスペインの憲法はフランス革命の政治的遺産を色濃く

反映したものであった。 ―― 自由、平等、そして友愛

それは、スペインのスペイン人とスペインの海外植民地の

住民双方に人権を認めるものであった。

明らかに、それはフィリピンに初めて適用された成文憲法であった。

フィリピンの人々は、何年もの長きに渡って、スペイン人

植民地官吏や悪い聖職者の両方から抑圧されていたが、

それが彼らの人権を守るものであったので、好意をもったのは

自然なことであった。

 

 

不幸なことに、その自由主義的スペイン憲法は、長くは続かなかった。

国王フェルディナンド七世は、専制的な権力を取り戻すと、

1814年5月4日に国王令を発行して、その憲法を廃止した。

この非劇的なニュースがフィリピンの届くと、フィリピンの人々、

特にイロカノ人は、それを悲嘆とともに受け取った。

そのようなニュースは、腐敗したスペイン人官吏が、彼らの

人権を奪うための悪意のある策略だと信じ、Sarrat(北イロコス)

1,500人以上のイロカノ人たちがSimon Tomasの指揮の

下で、1815年3月3日に武装蜂起した。

反乱は他の町にも及んだ・・・・・

 

・・・スペイン政府は、歩兵部隊と騎兵隊を反乱に加わった

町々に急行させた。 反乱軍は激しい闘志で闘ったが、

スペイン軍の優秀な武器の前に倒れた。

 

 

p197

Novalesの反乱(1823年)」

 

メキシコがスペインから独立したことは、フィリピンへ

影響を与えた。 従来のフィリピンとメキシコの繋がりは

断たれた。 1821年の当初、スペインの君主が、マドリッド

から直接にフィリピンを統治した。

新しいスペインの総督および総司令官は、従って、1816年

以来総督を代行していた 総督Folguerasを引き継ぐよう

指名された。

 

新しい総督、Juan Antonio Martinezは、スペイン陸軍の

元帥であったが、マドリッドからマニラに到着し、

地方長官の地位に就いた。

彼は多くの(イベリア)半島の軍人と一緒にやってきて、植民地軍を

再組織する国王からの任務を帯びていた。

彼は、多くのメキシコ人及び混血の将校を軍の職位から解任し、

その地位を新しく到着したイベリア半島組に与えた。

軍に留まった混血の者たちとメキシコ人将校は、半島組の将校

の指揮下に置かれるか、あるいは、地方の遠隔地にある基地に

配属となった。

 

自分たちの利益を守るため、メキシコ人や混血の陸軍将

たちは、哀れな状況を話し合うために、秘密会合を持った。

マニラの多くの混血の在留者たちは、傑出した事業家であり

法律家であったが、彼らの主張に同情していた。

かれらの極秘会合のニュースは総督Martinezの耳に入った。

彼は、政府のスパイから情報を得た後、不満を持つ将校

たちの首謀者は メキシコ人か混血のAndres Novales司令官

であることを探しだした。

 

時間を置かず、スペイン総督は Novales司令官をミンダナオ島

Misamisに転属させ、モロ族との戦闘に当たらせた。

1823年6月1日、Novalesは、彼の上官からの命令を

受けると、ミンダナオへ向かう船に乗船した。

丁度その時、マニラ湾を嵐が襲い、その船は航行を続けることが

出来なくなってしまった。

 

p198

その日の深夜前に、Novalesは秘密裏にマニラに戻り、

同志との緊急会合を開いた。 その数 800名の将校と

系列の第一連隊の兵士たち、そしてその他の軍の部隊が

いた。 ・・・・・・

 

Novales自身は、軍主体を引き連れてサンチャゴ要塞

向かった。 彼が非常に狼狽したのは、彼の実の弟

Mariano Novales大尉が、サンチャゴ要塞を渡すことを

拒否し、スペインへの忠誠を宣言したことであった。

Novalesは、彼の軍を撤退させ、Cabildo(市役所)、

総督の館、そしてマニラ大聖堂を接収した。

彼はすべての場所を攻略し、スペイン防衛軍を

打ち砕いた。

 

=== 初戦はなかなか良かった反乱軍でしたが、

    残念ながらこの後反撃を受けてしまいます。

 

    まあ、歴史上の反乱ですから、

    もちろん失敗に終わるわけなんですけどね・・・

 

    しかし、マニラのサンチャゴ要塞は歴史上

    様々な出来事の舞台になってきたんですね。

    マニラ観光では絶対に外せない場所ですので、

    こちらでご覧ください:

 http://nandemoph.web.fc2.com/t-9.html

 

 

・・・・・・

 

それでは、次回 93号に続きます。

 

 

 

 

 

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2016年11月22日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 87  フィリピン人の反乱

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンに長年住んでいる外国人としては、少しぐらい勉強

しないといけないなと思い、フィリピンの大学などで教科書として

使われているフィリピンの歴史の本を読んでいます。

要点のみを引用して翻訳しています。

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今日からは 「第十四章」に入ります。

 

p179

「第十四章 フィリピン人の反乱」 

フィリピン人はスペインに従属し、キリスト教徒になった。

しかし、彼らは自由への愛と闘争心が失われたわけでは

なかった。 それは、勇壮なマレー人の末裔として先祖から

引き継がれた、消すことのできないものであった。

歴史は、3世紀に渡るスペインへの植民地としての屈従

を通じて、100回以上にわたって失われた自由を取り戻す

ため、あるいは、神に与えられた人権を守るために、

フィリピン人が反乱を起こしていたことを物語っている。

 

「スペインに対する反乱の原因」

スペイン統治に対する初期の多くの反乱は、主に失われた自由と 

幸せを取り戻したいという人々の願望によるものであった。

(その例として、ここに1574年から1764年までの

 6つの反乱が挙げられています。) 

その他の反乱は、スペイン人による抑圧、憎まれていた年貢、 

強制労働、そして宗教的迫害が原因であった。

このような理由で引き起こされた反乱には、第一次パンパンガの乱

(1585年)、Magalatの乱(1596年)、Irrayasの乱(1621年)、

1639年のカガヤンの乱、Sumoroy暴動(1649-1650)、

そしてManiagoの乱(1660年)がある。 

いくつかの反乱は経済的な性質のもので、土地の人からその土地を

奪った修道士との土地論争によって引き起こされた。

修道士の農園の土地の権利を争ったフィリピン人たちが、先祖の

土地の為に武器を取って立ち上がった。

これらの土地の反乱は、バタンガス、ブラカン、カビテ、そして

ラグナの各州で1745年から1746年に起った。 

最後に、いくつかのフィリピン人の反乱は宗教的な性質のもので

あった。 それらは、スペイン人の宗教的偏見、あるいは、

フィリピンのある地域の人々は先祖の神々の崇拝に戻りたかった

ことが原因で、めらめらと燃え上がった。 

これらの宗教的な反乱には、イゴロットの宗教的反乱(1601年)、

Tamblotの宗教的反乱(1621-1622)、Bankawの宗教的

反乱(1621)、Taparの反乱(1663)、そして有名な

Apolinario de la Cruzの反乱(1840-1841)などがある。 

=== 上記の中で、「イゴロット」の宗教的反乱というのが

    ありますが、Igorotというのはルソン島北部山岳地帯

    に住む複数の先住民族の総称で、従来から差別用語

    という形で使われていたようです。

    しかし、今現在では、「イゴロットであることを誇りに

    思う」という若い人たちが、自分の自動車にステッカーを

    貼ったりして、その意味合いがやや変化しているように

    思います。

    ただし、夜の飲み屋などで、外国人が「イゴロット」と

    いう言葉を使っていたりすると、その場で飲んでいる

    イゴロットの人たちに誤解される恐れもあるとの

    話もあるので、注意が必要です。 

    ところで、イゴロットの人たちの元来の宗教は、日本と

    同じで自然崇拝、先祖崇拝のようです。

    しかし、今現在では、山奥にまでキリスト教の布教が

    なされていて、伝統的な宗教行事を次の世代に伝えて

    行くことは困難になっているとの話を聞きます。

    それに、キリスト教徒である人たちに自然崇拝などの

    話をすると、時に「私たちは既にシビライズドだから」

    つまり「文明化されたから」というような返事が返って

    くることもあります。

    逆に言えば、神道のような自然崇拝をしている日本人は

    いまだに文明化されていないということになりますね。 

    しかし、ものの本によれば、カトリックの国フィリピンの

    キリスト教は、フォーク・カトリシズムと呼ばれることが

    あるようで、同じカトリックであっても、土着の宗教

    との習合が認められると言うことのようです。

    長崎などの隠れキリシタンなどにも、そのような傾向は

    おそらくあるのでしょう。 

・・・・・・

 

では、次回 88号 に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月21日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 85 英国による侵略

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

2016年の1月に シリーズ84を書いて以来、

仕事やらボランティアやら一時帰国を理由にさぼっていましたが、

やっと暇になってきたので、暇潰しを再開できそうです。

まだまだ先が長いので、いつ教科書一冊を終われるか・・・

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フィリピンの歴史と言えば、ほとんどがスペインの植民地、

その後にアメリカの植民地、そして日本による占領という

のがすぐ思い浮かぶんですが、英国による侵略もあったんですね。

 

「第十三章 英国による侵略」の続き 

p172

「英国がマニラ湾に侵攻」

国王ジョージ三世の命令により、インドのマドラスにある東インド会社

よって、英国遠征軍が準備を整えた。

それは十三隻で構成され・・・・

軍隊は、1,500人のヨーロッパ人兵士(250人のフランスの

商人を含む)、3,000人のヨーロッパ人船員と海兵隊員、

砲兵二個中隊、600人のインド人傭兵、そして 1,400人の

インド人労働者などで、総数6,830人となった。

1762年9月22日の夕刻、英国艦隊はマニラ湾に入った。

スペイン当局と町の住民は・・・中国商人のジャンク船だろうと

思っていた。

嘆かわしいことには、スペインと英国の間に戦争が勃発していた

ことなど知らなかったのである。

それは、当時の海外での通信が困難で、マドリードから何も

戦争のニュースが入っていなかったためだった。 

「敵の侵略者が上陸」

翌朝(9月23日)、二人の英国将校が、白旗つまり最後通牒の

停戦協定をもって上陸し、スペイン当局にマニラの投降を要求した。 

メキシコ人大司教・・・は、フィリピンの総督代行であったが、

・・・戦争委員会の助言に基づき・・・最後通牒の受け入れを

拒否した・・・・ 

p173

日暮れまでに、・・・英国軍は上陸し、市の城外にある

火薬工場と、マラテ、エルミタ、そして Bagumbayan

石造りの教会を占拠した。 市の防衛隊はなんの抵抗も

しなかった。 

「マニラ包囲攻撃」

翌朝、9月24日にマニラへの包囲攻撃が開始された。

 

9月25日、・・・大司教は再度降伏を拒否。

市の城壁の中で、フィリピン人とスペイン人は防衛の工事を

急いだ。

不十分な軍備にもかかわらず、侵略者への反抗を決意していた。

 

「英国の侵略者、フィリピン人によって追い詰められる」 

スペインの悲鳴に応じて、数千人のフィリピン人兵士

パンパンガ、ブラカンそしてラグナから駆け付け、市の陣地の

補強に当たった。 

・・・10月3日、彼らは大胆にも Bagumbayanとマラテの

英国軍駐屯地を急襲した。

・・・しかし、英軍の応援部隊が派遣され・・・市への

撤退を余儀なくされた。

 

p174

「英国によるマニラ占領」 

マニラ市防衛軍と住民の恐ろしい殺戮に終止符を打つため、

大司教は サンチャゴ要塞に降伏のしるしとして白旗を掲げた。

こうして、マニラは1762年10月5日に英軍の手に落ちた 

「降伏の条件」

合意書によれば、スペイン当局は、マニラ、カビテ、及びその他の

 

要塞化された地域を明け渡すこと、そして、賠償金4百万ペソ

支払いに合意した。

その引き換えに、英国は次のことを容認した:

(1)生命および財産の保全

(2)カトリックの宗教行事の遂行

(3)商工業の自由

(4)王立の大審問院の維持

(5)全てのスペイン人官吏の執行猶予、及び携帯武器所持の特権付与

 

=== さて、英国軍による侵略を許してしまったフィリピン。

    この後どうなったのでしょうか・・・

 

次回 シリーズ86 は、

p175 「英国によるマニラでの略奪」からです。

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月16日 (水)

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その6

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その6

ふたつの書籍を読み比べながら、日本語と「空気」の
関係のヒントを得たいと思っています。

「空気」と関係づけるのは、ちょっと無理やり感があるん
ですが、その無理やりをやっちゃいましょう。

Img_3359



今日は 「エピローグ  遺言」の章をよみます。

p335

「日本語練習帳」の印税も使ってインドからタミル語の
専門家を学習院大学に招き、シンポジウムを開いた・・

来日したのはタミル大、マドラス大、ジャフナ大の教授
クラスの研究者など、十一人・・・

マドラス大のコタンダラマンは・・・学長になっていた。
長老格のアゲスティアリンガム・前タミル大学学長は、
古典タミル語の研究の第一人者・・・・

シンポジウムでは、「日本語の形成」のゲラを使い、
古典タミル語と日本の上代古語との間の音韻や文法、
詩の韻律などについて詳細な検討が加えられた。

p336

傍聴したハーヴァード大学の研究員は、シンポジウムの
印象を「まるで検事と弁護士が対決する法廷を見ている
ようだった」と、語っている。

討論を踏まえ、(「日本語の形成」の)ゲラにさらに
手を加えた。

これを読む方々は、結論の意外さに驚いて初めから
否定的な態度で臨むことなく
、中味に入り込んで
冷静に批判的に何処までが証明できているかと吟味を
加えて頂きたい。

p337

前タミル大学学長、アゲスティアリンガムが特に発言を
求め、
「正直にいおう。 私は大野先生の仮説について、東京に
くるまで半信半疑だった」といってから、次のように
語った。

「・・・討論を聞くうち、私の疑問は一日ごとに取り除かれ
ていった。 この仮説は理論的に、実際的に、科学的に見て、
受け入れられなければならないものであるという結論に
達した。日本語はタミル語からきたという、少なくとも
90パーセントの確信
を私は持った」

大野は、
「僕の仮説が学会の定説になるには百年かかるだろうと
思ってたけど、これで百年待たなくてもよくなったよ。
七十五年後には、定説になっていると思うな」

p338

根底にあったのは、考える力、判断する力の基本に
なるものが国語である
という信念である。

「ヨーロッパの言語を勉強した人の中に「日本語は曖昧だ
ヨーロッパの言語のような、明快な文法がない」なんて
言う人がいるけど、とんでもない間違いだ。
そういう人は、日本語の文法をきちんと勉強していないだけ
だよ。 そういう人が出ないように、これからは
助詞の「は」と「が」の違いなんかを、小学校のときから
おしえないといけないんだ。」

=== これは日本語を教えていても最大の問題で、
    どんな日本語のテキストにも、必ず
    一応のガイドラインみたいなものはあるんですが、
    実際には非常に複雑で、教えるのも大変なんです。
    この著者がかいた日本語文法を読まないといけません。

p339

本を嫌いにさせる一番簡単な方法は、読書感想文だよ。
大人だって、御馳走するけど食べた後で感想文を書いて
くれといわれたら、二の足を踏むんじゃない?

p341

発明・発見の土台になるのは国語なんだから、・・・
国語の勉強に力を入れなさいといい続けてきたんだ。
小学校では理科や社会はやめて、教科につながるような
きちんとした文章を読ませればいいんだよ。

=== 確かにこれはひとつの大切なポイントの
    ように思います。

    世の中には、脳の中で画像でものごとを
    考えるという人も稀にいるらしいのですが、
    一般的には 言語で考えるのだと思います。
    実際に、何か考えている時は、私の頭の中では
    日本語が処理されていますからね。

    おそらく、理科につながる文章、社会につながる
    しっかりした日本語の文章をたくさん読むこと
    によって、思考能力が高まるということなの
    でしょう。

p342

空気が読めないことを若者が「KY」という言い方をする
ようになったなんて、ニュースで取り上げることはないよ。
そんなものは一時のはやりで終わるってことは、まともな
言語感覚を持っていればわかるでしょう。
そもそもジャーナリズムの役目は、バカバカしいような
社会現象を追いかけるようなことじゃあないんだから。

=== おお、KY君が出て来ましたねえ。
    もっとその「空気」のことを語って欲しいところですが。

戦後、使う漢字を減らしたために、考える力や造語能力
がなくなった。 だからカタカナ語をそのまま受け入れる
ようになって、植民地のようになっちゃった。
戦争に負けるってことは、こういうことかもしれないな。

p345

会見で大野は、言葉が日本を救った例を語った。
ポツダム宣言の中の一節、
「天皇は is subject to 連合国最高司令官」の訳である。

普通は「従属する」と訳すところを外務省事務次官の
松本俊一は、「そんな訳にすれば、怒った軍部が焦土作戦に
出る」と考えて、「制限の下に置かれる」と訳し、
天皇のもとに届けた話である。

松本にこういう訳ができたのは、彼に日本語の教養があった
からである。 日本を救ったのは、言葉の力であると、
・・・・

p345

学問というのはね、深めれば深めるほど、自分にわかることが
いかに少ないかが、わかってくるものなんです。

==== 私自身もたまに翻訳の仕事をやっているんですが、
     一番難しいのは 翻訳を依頼して来た人が
     どんな人で、どんな仕事の内容で、どんな日本語が
     その依頼者にとって自然な感じの日本語で
     ありえるのだろうという点です。
     そういう時に、自分の日本語の能力の無さを
     つくづく思い知らされます。

     その日本語の翻訳文を読む日本人にとっては、
     その依頼人である外国人の人柄までを感じ取る
     ことになってしまいますからね。

     単なるビジネス文書なら、そこまで考えなくても
     いいのでしょうが、個人的な内容の文章となると
     内容自体は簡単でも、人間関係がからむから
     ニュアンスを適切にだすには、その人の人柄
     なども知っておく必要があるのかもしれません。

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さて、ここで全てを読み終わりました。

まだまだ、二冊の本を理解したとは言い難いレベルなんですが、
次回は 自分なりの 「まとめ」に挑戦してみます。

その7 を宜しくお願いします

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2016年11月15日 (火)

週刊文春「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その4

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その4

ふたつの書籍を読み比べながら、日本語と「空気」の
関係のヒントを得たいと思っています。

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今日は第六章 「タミル語」を読んでいます。

タミル語っていうより、学者の嫉妬・・の方がいいかも?

「空気」と関係づけるのは、ちょっと無理やり感があるん
ですが、その無理やりをやっちゃいましょう

p281

学者の間ではほとんど無視されている説を南インドに行って
検証することは、NHKのすることではないだろう。
しかし、自説を立証するために酷暑の南インドでフィールド
ワークをする六十歳の学者の情熱を描く番組なら、つくること
ができる。 そういう番組は、NHKにしかつくれないだろう。

p282

案の定、NHKの上層部はなかなかOKを出さなかった。
橋爪は各個撃破の正攻法で説得し、OKを取りつけた。

インド大使館も協力し、・・・タミル人の女性を探しだした。
・・・女性は非常に協力的で・・・・
大野は後に、不快な事実を知らされることになる。
それは・・・デリー大学にいた彼女のところに、日本人の
学者が訪ねてきた。
彼は「大野さんの仕事は、手伝わない方がいいよ」といった。
理由を聞くと、日本語とタミル語と深いつながりがあるいのでは
ないかという大野さんの説は、間違いだらけで信用できない
ものだからだ、という話をした。

=== いやいやいや・・・実に日本人の恥を海外に
    ばらまくような日本人の学者がいるんですねえ。
    他の学者の研究を邪魔してどうすんだよ。
    それとも、この学者さんは、学界のある「空気」を
    代表して、大御所の誰かに指図され、断り切れずに
    やむなくこういう卑怯な手段に手を染めたん
    でしょうかねえ。 ・・・まあ、日本人を信頼して、
    そういうことにしておきましょうか。

p286

アテネでは、パルテノンの丘に立った。
・・・大野は思わず子供たちに、
「見てごらん。 こんなにはっきりみえるところだから、
ギリシャで論理学という学問が発達したんだよ」といった。

日本がもし、ギリシャのように乾燥した気候風土の国で
あれば、じょのごとがくっきりと見え、日本語はそれこそ
「シク活用」の形容詞より、「ク活用」の形容詞を数多く
持つ言語になっていたかもしれない。

学習院の学生たちに・・・

「まず、ものごとを細かく観察すること。 観察したうえで
正確に言葉で表現すること。そういう習慣を君たち
一人ひとりが身につけないと、この国はどうなっちゃうか
わからないよ。」

=== さて、ここで無理やりに「空気」と結びつけますと、
    細かく観察し、正確に表現する、つまり事実を
    事実として伝えなくてはならない。
    それを怠り「空気」に支配されちゃったら、
    この国はどうなっちゃうか分からない・・ですね。
    そうでなくても、日本語ってやつは、情緒的で
    論理学が育たないような気候風土なんだからさ。

p292

大野に悪意がないのは、いうまでもない。
要するに、「学問は厳格にしないとダメだよ」といいたい
だけである。・・・
松原は教え子だからわかる。・・・・

・・・そのために大野は摩擦を起こし、敵をつくり、
恨まれることになる。 果ては、悪意に満ちた噂
まで流されることにもなる。

「先生、周りじゅう、敵だらけじゃないですか。
長生きしてくださいよ」といったこともある。
大野は「君もよくいうなあ」といっただけだった。

p294

日本とタミルのつながりを調べるうえで、言語学の
研究だけでは足りない、民俗学からの追究が不可欠で
ある、・・・
「松原君、僕はこの研究のためなら、死んでもいいと
思っているんだ」と何度もいった。

p295

村人の一人ができた料理を屋根の上に置くと、
村人たちが一斉に「カア、カア」とカラスの鳴き声を
真似た。 ・・・松原は思わず、「カラス勧請だ」と、
大声を出した。

・・・大野も食べ物をつくってカラスを呼ぶ儀式が
日本にあったことは、民俗学者の柳田国男の書いた
もので読んだことがある。

p296

松原は、・・・
神話には日本と共通するものが多い。 それですっかり
興奮していた。 ・・・「もしかすると、このフィールド
ワークで収穫が多いのは、大野さんより松原さんかも
しれない」・・・

「大洪水」の後に「兄妹」が動物を生んだというこの村に
伝わる神話は、「古事記」の記述と構造が似ていた。

p298

南インドのフィールドワークは四十五分間のNHK特集
「日本語はどこから来たか - 大野教授のタミル紀行」
として、昭和五十五年(1980)十一月十日夜、
総合チャンネルで放送され、視聴率は10パーセントを
超えた。 ・・・ただちに再放送が決まった。
橋爪は転勤した福岡で一人、祝盃をあげた。

p300
NHKが特集番組をつくり、朝日新聞の週刊誌が連載を
し、岩波書店が著書を刊行する。 しかも著書が確実に
売れる。 国語学の世界にこういう学者はいなかった。
はじめてのスターといってよかった。
学者からは嫉妬され、反論が出ることは、予想されていた。

p301

大野は再反論を書きたかった。
しかし時間がなかった。 「世界タミル学会」では
日本語とタミル語の関係について講演をすることに
なっている。 準備に追われていたからである。

p303

大野が求めていたのは、まさにこういう学者だった。・・・
日本の上代古語と古いタミル語の本格的かつ正確な
比較、研究がはじめて可能になった。

大野は大阪外国語大学講師に対する再反論を、
帰国してから書き・・・・大野の単語表について、
学会では異論が出なかったことを記し、
講師の文章を英訳したものを読んだインドのタミル語
学者の、「私が日本へ言ってタミル語を教えてもよい」
という談話を付けた。
そして、「私はこのみのりの少ない論議を、もはや
打ち切りにしたい。 ・・・・」
・・・議論はそれきり沙汰やみとなった・・・・

p304

日本語がタミル語と同系であることを証明するためには、
・・・・助詞や助動詞にも対応する例のあることを立証
する必要
がある。

ところが、日本語の助動詞は寿命が短い。
・・・古典ではおなじみの「つ、ぬ、たり、り、き、けり、
けむ」は、口語では消えている。
・・・助動詞の寿命はだいたい五百年で・・姿を消して
しまうか、元の形がわかりにくくなるほど変わって
しまうものである。
・・・大野にとっては半ば常識になっていることだが、
多くの国語学者には、そうではなかった。

p306

古典タミル語の知識が必要不可欠である。
・・・大野はマドラス大学に一年間留学し、・・・
教授は専門が古典タミル語だ。

・・・留学生になった。 還暦を過ぎても決断の
早さと行動力は少しも変わることがなかった。

p310

大野がマドラスにきて一カ月、・・・週刊誌
週刊文春」が・・・大野の仮説攻撃を始めた・・・

「もてもて国語学者に集中砲火 大野晋
「日本語・タミル語起源説」は”学問の公害”の
たれ流しか?」という大見出し・・・・

p311

「大野説は誇大広告で売る新薬か」
「大野晋教授に告ぐ なぜまともに議論しないのか」
などなど・・・・

== ここにいわゆる罵詈雑言の類の攻撃がされた
   ことが書いてあるんですが、実に「空気の醸成」
   ですね。
   議論の相手が留学中の留守をねらった
   コソ泥なみの攻撃・・・
   いやはや、学問の世界も怖いこわい・・・

   それこそ「世界タミル学会」で議論すれば
   済むことだろうに。

   週刊誌で 何も分からない一般人を巻き込んで
   相手を追い詰めようとするなんて、学者の
   面汚しみたいなもんでしょうに。
   国語学者が 侍の恥も知らんのか・・なんてね。

p311

週刊誌の中では比較的上品さを売り物にしている
「週刊文春」にしては、珍しいほど感情的、煽情的な
見出しである。

=== おお、今はどうなんです? 上品なの?

p312

しかし、見出しほどには中身がない・・・
他誌の間でも「文春はいったいどうなってんだ
個人的な恨みでもあるのか」と、話題になるほどだった。

井上ひさしの寄稿・・・
「大野晋日本語起源論争へ ぼくの好きな古語辞典」
・・・
(大野晋が作った)岩波古語辞典全体をナマクラ辞書と
呼ぶなら、どうか蹟学たちもちがった立場から一冊の
辞書をお編み下さい。 よいものだったら買います・・・

一読、胸のすくような名文だった。
(現在までのところ、井上が岩波古語辞典より優れている
 と折り紙を付ける古語辞典は観光されていない)

=== まあ、文春さんも評判を落としたもんですね。
    事実を精査しないで中身のない情況で
    空気を醸成しようとしても そりゃあ天に唾
    みたいなことになるでしょうね。

p314

学習院で帰国の報告会をした。
しかし、大野の顔を真っすぐ見ようとする者は少なかった
大野の身を案じてくれていることがうかがえた。

・・・・・・・・

なるほどねえ・・・事実に基づかない悪意のある空気に
よる支配・・・マスコミは重大な責任がありますねえ。

では、その5 に続きます。

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