カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2019年2月24日 (日)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その39 高山右近がもし大坂城に入っていたら・・・ 千々石ミゲルは本当に棄教したのか・・

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

005

p391

 

このとき京都には神父が8人、 イルマンが7人、同宿が20人

ほどいた。

教会は神父3人、修道士3人、同宿6人の報告しかしなかった。

・・・潜伏させておかなければならない・・・

 

フェレイラは・・穴吊りの拷問に耐え切れずに転び、キリシタン

目明しとして、キリシタンの摘発に力をつくした。

彼は日本人の妻をめとり、沢野忠庵と名乗って「転び伴天連」の

代表になった。

 

=== このフェレイラは映画の中にも出てきましたね。

 

映画「沈黙 - サイレンス -」

https://eiga-watch.com/silence/

 

=== ちなみに、私なんぞは、根性なしなので

    すぐに「転ぶ」タイプです。悪しからず。

 

 

 

p393

 

豊臣秀頼の使者が、右近を大阪城に迎えようとして・・・・

右近はすでに出帆していた。

・・・もし右近が大坂に入城していたらおそらく大坂城は

陥落しなかっただろうと人びとが噂しあったと書いている・・・

 

家康はあるとき、「右近の手兵千人はほかの武将の一万人より

恐ろしい」と言ったという。

 

=== 家康は右近を長崎で殺そうと考えていたらしいですよ。

 

 

 

p394

 

マニラで右近は国賓のように歓迎され、その死後、彼の孫は

総督の養子となった。

 

右近の乗ったマニラ行きの船の出帆は11月9日だった。

そしてその前の日の8日に、原マルティーノが乗ったマカオ行き

の船が出ていった。

 

 

=== マニラでの高山右近のその後は、こちらでどうぞ:

 

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 82  

高山右近の日本人町 サン・ミゲール

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/82-d814.html

「二つ目の日本人町は、サン・ミゲールと呼ばれ、

Juan de Silva知事によって1615年に創られた。

ここでは、300人以上のクリスチャンの日本人国外追放者

たちが住み、有名な高山右近とその家族、そして、

日本の貴族の人びとも含まれていた。

この町は、当初は、ディラオに隣接した、パシグ川の

南側の川岸に造られていた。」

 

 

 

p395

 

日本の信者のなかにはいずれ日本人管区長が生まれるであろうが、

それはマルティーノであろうと思う者が多かった。

 

 

p397

 

1999年ポルトガルから中国に返還される前年、私はマカオに

行ったが、そこではマルティーノがなにを感じていたかがわかった。

マカオは西洋と東洋の出会う場所であった。

 

・・・彼は1629年・・・日本に帰ることなくマカオで死んだ。

・・・マカオの大聖堂の地下墓室に・・・そこで今も師

ヴァリニャーノとともに眠っている。

 

=== そのマカオの大聖堂はこちらでどうぞ:

 

聖ポール天主堂跡

https://ja.wikipedia.org/wiki/聖ポール天主堂跡

 

「日本人キリスト教徒の殉教者や、イエズス会の神学校コレジオの

マカオでの設立者アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父を含む修道僧

の遺骨とともに、数多くの宗教遺物も一緒に発見された。」

 

 

 

p398

 

ミゲルがどこでどうして死んだかだれも知らない。

1593年にはコレジオにいたことが記録されている。

1603年にはもう記録がないのでこのあいだにイエズス会を

離れていったものとみられる。

 

 

「伴天連記」は・・・

「シカル処ニ、大村ノウチニ千々石清左衛門トイフ侍アリ・・・・

伴天連ヲスコシウラムル仔細アリテ寺ヲ出ル。大村公ニ奉公ス

 

p399

 

このわずかな情報で判断すれば、ミゲルは病身で学業が身につかず、

そのため留学の選にもれたので恨んで脱会したことになる。

 

しかし、この留学生選抜では、学業優秀な原マルティーノも、

準教師格であった才人ファビアンも選にもれている。

 

p400

 

こうした西洋人神父と日本人修道士の摩擦または不和というものが、

日本のキリスト教会にとって致命的な結果を生むことになった。

強力な背教者ファビアンを出してしまったのだ。

 

 

p402

 

1587年7月の秀吉の伴天連追放令の結果、大坂のセミナリオは

肥前、生月島、 同年11月は長崎、11月始めには有馬、

1589年には 八良尾、加津佐に移動したが、ファビアンも

ともに移動して、1592年には天草に移った。

彼は日本の学問に精通していたので、天草のコレジオでは

二十七歳にして日本人イルマンのための日本語教師となった・・

 

 

=== キリシタンの学校が、どんどん西へ追いやられて

    頻繁に移動しているのがよく分かりますね。

 

 

 

p409

 

彼は長崎奉行にしたがって長崎に行き、キリシタン弾圧のブレーン

となった。 彼の奪国論の恐ろしさ(あるいは効果)は、外国が

軍事力をもって日本を奪うとはしていないことである。

そうではなくて、思想、洗脳によって「千年かけてでも」

この国を奪おうとしているのだとした・・・

 

 

 

p411

 

「・・このようなスコラ的思弁の世界に置くかぎり異文明の人間は

その下に置かれてしまう。 彼らのなかで、深遠な問題を

言語で理解できたのはおそらく原だけであり、ミゲルには

無理だった」として、ファビアンとミゲルの棄教の原因を

西洋哲学の理解困難にあったとみている。

 

このことは西洋文化を学ぶ者には常につきまとう問題である。

 

p413

 

ミゲルはファビアンと同様に、まずはマカオ留学に落ちたことを

契機としてイエズス会内部での自分の将来に見切りをつけて

会を去ったことは疑いがない。

 

p414

 

記録によれば、彼は従兄である大村喜前に仕えたとある。

・・・大村喜前が1606年に宣教師を領内から追放し、

法華宗になったとき、ミゲルもまたキリシタンを棄てたと

述べている。

 

ルセナは・・・背教後長時間彼と話、彼は心から信仰を棄て、

とくにキリストの神性を否定していることがわかったと書いて

いるからである。 しかし、・・無神論になったにもかかわらず、

仏教の信奉者にもならなかったと言っている・・・

 

=== このミゲルが その後キリスト教を棄てたのか

    どうかについては、いろいろと議論が書いてあるんです

    けれど、 最近の長崎での研究では、ミゲルの妻の墓

    からキリシタンであることを示すものが発見されたので、

    その隣にあるミゲルと思われる墓にも 信仰を棄てたの

    ではない証拠が見つかるのではないかと期待されています。

 

「天正少年使節の千々石ミゲルの墓続報 出土の歯は

25~45歳女性 、ミゲルの妻のものか」

https://www.christiantoday.co.jp/articles/24787/20171127/chijiwa-migeru-wife.htm

 

「これまで、その晩年は謎に包まれていた。そのミゲルの生涯に

新たな光を当てたのが、ミゲルの石碑を発見し、調査を続けてきた

大石一久さん(大浦天主堂キリシタン博物館副館長)だ。ミゲルは

棄教していなかったと考えた大石さんは、ミゲルの行動を詳細に

追った。そして2015年、その研究成果を著書『天正遣欧使節 

千々石ミゲル―鬼の子と呼ばれた男』(長崎文献社)としてまとめ、

「ミゲルは修道会からは脱会したが、信仰そのものを捨てたわけでは

なかった」という説を打ち出した。」

 

=== 2019年の末までには 発掘されるそうですので、

   楽しみです。



 

 

 

< その40に続く >
















 

=================================

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月19日 (火)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その31 秀吉の豹変、ポルトガルの大型ナウ船を博多港に回航させよ

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

002

 

p195

 

運命の歯車は、ぎりぎりとすこしずつ無分別な人間たちによって

回されていった。

博多に現れたコエリョのフスタ船が、やがて無数の人間、

女や子供を含む無辜の人間たちの破滅につながる最初の引き金

になるとは、そのときはだれにもわからなかった。

 

p196

 

長崎のフスタ船とは・・・・・

この船は、一本か二本のマストをもち、ラテン型の三角帆をつけた、

二百から三百トンの船で、ポルトガル人が主としてアジアで使用

していた船の名だった。 この船の特徴は、小型で底が浅く、

遠浅の港にも出入りができたことと、数門の大砲を具備していた

ことである。

 

・・・秀吉もその船を見に行き、実際にその船に乗って、博多湾を

周航した。 

 

 

p198

 

・・・関白がフスタ船に乗ったのは六月十四日であった。

・・・六月十五日に・・・イエズス会の幹部を引見し、

・・・コエリョに向かって、こう言った。

「長崎は遠いことだから、もう帰るがよかろう」

 

・・ところが、その四日後、秀吉はあの「伴天連追放令」を

出したのである。

 

清水紘一氏は、「長崎に帰るがよかろう」ということばは、

もはや宣教師と話すことはないということ、つまり、コエリョ

が望んでいた長崎の港を教会に与えるという保証をもらうという

ことが失敗したことだったと書いている。

 

 

 

p199

 

もともと戦国の戦乱が激しかったときには、弱小のキリシタン

諸国はどうしても宣教師とその背後のポルトガル船に頼って

軍事防衛にあたらなければならないことが多かった。

 

1565年に平戸の船五十隻が、二隻のポルトガル船と

大村領の福田港で戦い、結果はポルトガル船が勝った。

 

 

p200

 

1578年には、竜造寺と深堀が長崎を襲撃しているが、

このとき、「唐物長崎記」によれば、キリスト教徒は「ふすたと

申す軍艦をこしらえ、大筒(大砲)にて打ち散らす」ので

敵もどうしようもなかったと書いている。

これは長崎がポルトガル船の応援を得て敵を撃退したということ

である。

 

 

有馬の場合も同じで、 1579年に竜造寺の包囲を受けて

滅亡に瀕したときに、・・口之津に上陸したヴァリニャーノを

乗せてきたポルトガル船とイエズス会から食糧、武器の補給を受け、

有馬氏は壊滅を免れた

 

 

p200

 

日本や中国についても、武力によってそこを征服して手っ取り早く

カトリック信仰を宣布すべきだという主張が宣教師の一部のあいだ

に根強くあったと述べている・・・

 

=== 秀吉が「フスタ」という軍艦を見てしまった。

    そして、実際にポルトガルに支援された九州のキリシタン

    たちが、仏教派である竜造寺などの侵攻を食い止めた。

    そういう話が秀吉の耳に入っていたとなれば、

    当然のように これは危ないと思うでしょうね。

 

 

p205

 

疑心暗鬼が秀吉を襲った。 神父らが有力なキリシタン大名

をほんとうに自分の思うがままに動かし、金力や武力を背景と

して、いつか自分に背くだろうという疑いである。

・・・九州征伐が終わった段階で、秀吉の心中にはあらためて、

その疑惑が浮上した。

 

 

p206

 

関白殿はみずからそのフスタ船訪れ・・・・

コエリョに向かって・・・これは軍艦であると言った。

・・・右近と小西は関白の心中や気性をよく知っていたので、

大きな災難が及ぶことを恐れると警告し、この船は彼(関白)

のために造らせたのだと告げて、関白に、このフスタを献上

してしまうように忠告した。

そこにいた何人かのパードレもそう勧めた。

 

・・・しかしコエリョは自分の言ったことをまったく気にして

おらず・・・なにか大きな報酬を受けるだろうと思い込んでいた。

 

 

p209

 

秀吉はそのとき、コエリョに向かって、自分はまだポルトガルの

定期船(ナウ船)をみたことがないので、そのとき平戸に入港

している船を見たい、それを博多に回航させよ、・・命じた・・

 

p212

 

・・・フスタよりも大きく堅固なポルトガル船はもっと大きい

大砲を備えているかもしれない・・・

 

日本の一艦隊に匹敵するポルトガル船は秀吉に危惧と嫉妬

の心を抱かせた。 そこで実際に大型の定期連絡船を見たく

なったのである」

 

船長は・・・浅瀬で渡航困難として拒否した・・・

この船長の引見の日が六月十八日・・・

 

だがしかし、そのまさに同じ夜に秀吉はキリシタン迫害者に

変身したのである。

 

 

=== 秀吉はフスタ船よりももっと大きいポルトガルの

    定期船を見せろといったけれども、船長は

    それを拒否した。

    コエリョは、周りの忠告を無視してしまった。

 

 

 

p215

 

その夜、秀吉は突如として宣教師の日本追放と高山右近の

改易と追放を命じた。

 

 

ペドロ・モレホンの1615年の年報によると、秀吉の態度

急変の直接の原因は、・・・施薬院全宗の訪問だった

かれはかねてから高山右近の領地で仏寺が破壊されることを

恨んでいて、・・・

 

秀吉に頼まれたある美女を獲得しそこなった・・・

この美女は有馬のキリシタンの女性で・・・関白の寵を受ける

ことを拒んだ・・・・

 

p216

 

秀吉にとっては全国の軍事的征服と女の征服は、心理的に

同じ価値があった。

 

p217

 

「英雄色を好む」などといった俗っぽいことばで、秀吉の

行為を見逃すことは自分自身が男根中心主義である男性の

歴史家のやることである。

 

 

p219

 

このとき、二度目の使者に立ったのは、右近の茶の師匠で

ある千利休であった・・・・

利休は秀吉の意を体して右近に改宗を勧めたが、右近は

従わず、・・・

 

===  おまけに、女狂いの秀吉に従わない

     キリシタンの女の話が、仏教の僧侶から

     伝えられ、いろんなことを言い含められて

     酒に酔ったいきおい? で、切れてしまったらしい。

     さて、キリシタンの運命はどうなるのか・・・

 

<その32に続きます>

 

 

 

 

 

 

 

 

=============

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月18日 (月)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その28 本能寺の変、朝廷・天皇黒幕説の筋書き

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

2017_01_odanobunaga_a

 

p132

 

「殺されるまでの伏線」

 

立花氏は、三職推任は朝廷の意思ではなく信長の働きかけ

であったとみるし、朝廷はその官位のどれにも信長を

つける状態にはなかった・・・・

 

いやがる「馬揃え」に天皇や公家を招いて威嚇し、

・・・支配を強めていた。 ・・・朝廷は信長を嫌い、

明智の謀反も知っており、いちはやく明智に使者を送ったという

説を立てた。

 

 

p133

 

・・・岩沢氏と立花氏は、結論はちがうが、どちらも

同時代の日記史料をていねいに読んで、いろいろなことを

私たちに教えてくれる。

 

しかし・・・抜けているものがある。

それはキリシタンの問題である。

村井早苗氏は、日本で最初にキリシタン禁令を発令したのは

天皇で、終始、天皇の最大の敵はキリシタンだったということを

明らかにする本「天皇とキリシタン禁制」を書いた。

 

・・考えられるのは、馬揃えで信長が最高の賓客としたのが

朝廷ではなくて宣教師ヴァリニャーノだったということからも

わかるような、信長のキリスト教保護策であり、決定的だったのが、

総見寺参拝事件である。

 

・・・どちらも、伝統的な宗教の構造と、その上にのっている

朝廷の考える神聖な国家のかたちを破壊するものであった。

 

p134

 

・・・秀吉とはすぐに話がついたが、それは秀吉が既存の

宗教勢力を維持する政策を出したからであるし・・・・・

・・キリシタン追放をやってくれたからである。

 

=== 秀吉は朝廷の言う事を聞いたけど、

    信長はいろいろと朝廷を無視するようなことを

    やっていたってことですね。

 

 

p134

 

村井早苗氏の論証に即して、天皇によるキリシタン禁制の

経過をたどってみよう。

 

天皇の綸旨による第一回の禁教令は、永禄八年(1565年)

7月5日に早くも出されている。・・・正親町天皇は詔勅によって

京都の町から宣教師を追放した。

 

綸旨が出たしだいは、公家の竹内三位が熱心な法華宗信徒で、

これが本山の僧と合議して天皇に働きかけ・・・

・・この竹内李治は・・信長によって処刑された。

 

p135

 

なかでも万里小路惟房、輔房父子は、フロイスによれば、

「最悪の敵」で、しかも、惟房の叔母は天皇の生母で妹房子は

後宮、つまり彼らは天皇の外戚だった。

 

 

p136

 

これで、将軍義昭が不快を理由に宣教師に会わなかったほんとうの

理由がわかった。 彼は朝廷から会うなと言われていたから・・

その後、信長が会えと言ったときには会った

・・・朝廷は不愉快だったにちがいない。

 

p137

 

フロイスとロレンソが心配し岐阜に駆けつけると、信長は

彼らを歓待して、「内裏も公方も気にするには及ばぬ。すべて

は予の権力の下にあり、予が述べることのみを行い、

汝は欲するところにいるがよい」と答えた。

 

=== この時には、すでに信長は傍若無人に振る舞って

    キリシタンを保護していた。

    天皇の周辺には仏教派の親戚がいて、

    反キリシタンであった。

 

 

p137

 

「川角太閤記」などでは、明智が襲撃の前夜に五人の武将に

謀反を打ち明けるときに、裏切りの理由を説明している。

それは岐阜で大名高家の前で面目を失ったことと、信濃の

諏訪で折檻されたこと、家康が安土にきたときの御馳走法を

非難され西国へ出陣させられたことの三つである。

 

p138

 

信長は殺された上に、悪人になってゆくのである。

これは日本人の心性にはよく合うものだ。

日本人はいじめに耐えて恨みを堪え、ついに復讐する

話が好きである。

きっとみんなそういう思いをして生きているのだろう。

 

 

=== ここでは、明智光秀側の理由が諸説を含めて

    述べられています。

    「いじめを耐えて」というのは ちょっと「おしん」

    を思いださせますねえ。

    本当にああゆうお話が好きなんですねえ。

    もっとも、世界でも広くヒットしたそうですが。

 

p140

 

光秀はなんらかの談合をこのころ、仏教勢力や朝廷と

かわしていたのではないかと思われる。

よほどの目算がなければ天下を取る計画はたてられないだろう。

・・・信長に危機感を抱き、旧い秩序の回復のために

旧勢力とひそかに結んだのだと私は考える。

 

=== 「いじめ」が原因のひとつだったとしても、

    光秀は頭が良かったそうなので、私恨だけでは

    天下をひっくり返すようなことはやらなかった

    と考えるのが妥当のように思えます。

 

 

p143

 

ローマ教会の教皇グレゴリオ十三世が、おおぜいの反対を

押し切って千五百年以上世界を支配していたユリウス暦

から、今世界で通用しているグレゴリオ暦に変えたのである。

信長が尾張で通用している暦を朝廷に採用せよと言ったことは

当寺の常識からいえばたいへんな越権行為で、

朝廷の神聖な権威を侵すものだった・・・・

・・彼は朝廷が独占しているきたさまざまな神聖なまつりごとを

奪おうとしていたのである。

 

=== カレンダーがそんなに神聖なものだというのは

    庶民には分かりませんなあ・・・・

    歴史の教科書にそういうことが書かれていても、

    「そうなのか~~」で通り過ぎますね。

 

p145

 

信長の小姓らは光秀の謀反とは思いもよらず、

家臣同士の喧嘩だと思った。

 

本能寺から百メートルの距離にあった南蛮寺にいた宣教師の

報告は、非常に臨場感があって実況的である。

 

 

p147

 

「安土の市はこのとき、最後の審判の日のようであった。

ある者は一方向に避難し、ほかの者は別のところに逃げ、

・・・民衆の混乱と狂気の沙汰は慨嘆すべきものがあった。

・・・」

 

p150

 

光秀が信長親子を討って京都から出てゆくときに、公家吉田

兼見は粟田口で光秀と対面していることが「兼記 別本」に

出ている。 偶然起こった謀反への対応にしては、これは

早すぎる。

 

さらに変から五日後の七日、安土に入った明智に対して

勅使が派遣された。 

 

この「京都之儀」とは、一般に親王から光秀軍の乱暴停止

命令だったとされているが、それならなぜ進物をやったのか、

また乱暴禁止にしてはもう彼が京都を出てしまっているのに

おそいではないかという考えもある。

 

朝廷は確固とした意志をもって信長殺害者光秀を朝廷守護の

武将として認知したという解釈がなりたつと推論した。

 

九日に光秀は上洛したが、このとき、なんと、五摂家公家衆と

上下京衆は残らず光秀を出迎えた・・・・

・・・朝廷からの朝敵征伐者としての位置づけを表明した

ことで・・・

 

 

p152

 

しかし、明智がこれほど早く十三日にはもう敗北してしまう

という事態では、応援したほうの人間たちはさぞ狼狽し、

必死に事態をとりつくろう必要があっただろう。

だから後代に書かれた記録はたいてい嘘ばかりである。

・・・勝者の立場からしか書かれないし、その時の支配者に

不利なことは消されてしまうからである。

 

=== 確かに、これが実際の状況だったとしたら、

    そりゃあもう狼狽しまくりだったでしょうね。

    でも、やってきたのが朝廷の言う事をきく

    秀吉でよかった・・・ってことでしょうか。

 

 

p154

 

もし織田家が後継者ということになると信長打倒計画の

首謀者がだれかについての追求がきびしくなるからである。

・・・信長打倒を承認したという事実を抹消し、信長打倒を

・・・光秀の個人的謀反に帰し、信孝、秀吉(とくに秀吉)

への認定を急いだのだ。

 

 

=== 朝廷側はよりマシな秀吉にことがバレないように、

    証拠隠しをやったんでしょうかねえ。

    もっとも、その後の経緯を見ると、ある程度

    秀吉も朝廷・天皇黒幕説を知っていたかもしれない

    ですけど。

 

 

<その29に続きます>

 

 

 

=============

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月13日 (水)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」を読む - その22 ペンタゴンの中の日本、 涙の中浦ジュリアン

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

004


p37

 

だがもっとも重要なものはこの館の大広間である

「世界地図の間」であろう。

ここの部屋のすべての壁には世界の地図が描かれており、

中央には会議用大テーブルがあって、さながらペンタゴンの

指令室にいるかのようである。

 

ここは十六世紀後半における教皇庁の世界征服(布教)会議

の場であった。

 

p38

 

そして天井は星図である。 その星図の海には巨大な船が、

蛇か龍をのせて波濤を越えていく。 そしてアジアの地図には、

ベーリング海峡の入口にぶらさがるようにして小さい小さい島

「日本」が描かれている。

 

 

この「地図の間」を見てグレゴリオ教皇は自分でも

ヴァティカン宮殿に1580年から83年に「地図の廊下」

を描かせたのだった。

そしてそこに信長の屏風が設置された・・・・・

 

 

「ここに来るまでに二年二カ月も必要だった」と繰り返される

旅程の長さ。その賛辞のなかに、かくも遠い土地を支配した

(精神的に)という勝利の想いがこめられたのだ。

 

=== う~~ん。 これには四人の少年たちも

    度肝を抜かれたでしょうね。

    地図の端っこにちょこんとぶらさがる日本。

    今でいうならば、世界を支配するグローバル企業の本社の

    戦略企画室で世界戦略を聞かされるような・・・・・

 

    こちらの「MAGI」のサイトの動画の中に

    信長が送った屏風を推定したものが出てきます。

    「貴重な金屏風とともに撮影された織田信長のワンシーンの

ビジュアルにも注目のドラマ『MAGI-天正遣欧少年使節-』」

    https://www.rbbtoday.com/article/2019/01/15/166736.html

 

p41

 

ジュリアンの身になってみよう。 彼は海浜で育った

海の子で、旅行中みなが病気をしたのに、彼だけはまったく

健康だった。 それがよりによってまさにそのために来た

ローマ教皇の晴れの謁見式の日に、急に寝台から起きては

ならないということになったのだ。

いったいなんのために・・・・

 

・・・本当に死ぬほどの病気だったのか。 でも気力は

十分だったようだ。 

 

・・・いや、これはちがう。 なぜなら彼は、

馬車でひと足早く教皇の部屋に行って会っているのだ、

・・・教皇に説得されて帰ったとフロイスは書いているのだ。

 

p42

 

もし私の推測が正しいとしたら、それは東方から来た

公子が四人では困るからだ。 東方から来た公子は

三人でじゅうぶんだ、いや三人でなければならない!

 

=== さて、ここでは、使節は4人なのに、なぜ

    ジュリアンは正式の謁見式から外されたのか

    って話です。

    カトリックのCMの都合上、物語のとおりに

    三人じゃないと「やらせ」が完成しないって

    ことですねえ。 可愛そうなジュリアン。

 

こちらのサイトに謁見式の絵がありました。

でも、まあ、雑然とした謁見式なんですねえ・・・    

 

Boys who journeyed to Rome

https://christian-nagasaki.jp/en/stories/3.html

 

たしかに、サムライらしき人は3人ですね。

 

伊東マンショのパレード姿はこちらにあります:

http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/unit/hito_24/page1.html

 

こちらにパレードの絵がありますが、

どこに3人がいるのか・・・分かりません

https://cardiac.exblog.jp/26126281/

 

こちらのサイトには、パレード全体の絵があるのですが、

下のようなコメント付きでした・・・・・

https://fumiemve.exblog.jp/6972793/

「肝心の祝祭行列のフレスコ画は、1番奥にあるから、やはり許可を

もらって近づいてみないと、絵の細かいところなどは残念ながら見えない。

あのヴァチカン宮殿の中にしてはむしろ小さめなくらいのルネッタ

(半月壁)のなかに、延々と続く行列が数段に渡って描かれ、ものすごい

たくさんの参列者が細かくびっしりと描きこまれている。・・・

この中から、いったいどうやって「日本人」を探せばいいのか・・・???」

 

 

p42

 

すべてのキリスト教徒はすぐに気づくだろう、アジアから

馬に乗ってイエスを礼拝しにきた三人の王がここに再現

されたことを。 ・・・だから三人の少年は、この日、

馬に乗って行ったのである。 そして馬に乗った王は

三人でなければならない。

 


5_495

                             

=== 上の写真は 天草コレジヨ館で撮影したものです。

印刷機がメインで映っていますが、実はその背後の

絵画が 四少年がパレードに参加したときの様子を

描いたものなんです。

もっときちんと見ておけばよかった・・・

(絵の撮影は許可されていません。)

 

 

p44

 

ヴァリニャーノにとっては、「東方三人の王」とは

宗麟、純忠、晴信だったが、その使節もまた三人で視覚化

されないとまずい・・・・

だから、ジュリアンは盛大な行列がまさに教皇宮殿に向かおう

とするその道を避けるように、ひとりで馬車に乗って宿舎に

帰っていった。

 

いまここで、この四人のなかで、穴吊りの処刑によって殉教し、

もっとも壮絶にその信仰を貫いたのがこのジュリアンで

あったことを思ってみることが我々には必要だろう。

 

ミゲルはかなり早く棄教してしまった。・・・・

 

=== はい、そうなんですねえ。

    4人の中で殉教したのは中浦ジュリアンだけなんです。

    ミゲルは棄教したことになっているんですが、

    最近の研究で もしかしたら信仰は捨てていなかった

    という話になるかもしれないそうです。

    2019年中に考古学的な発見があるかもしれません。

    そして、あとの二人は病気で亡くなっています。

 

    私が興味をもっている人物は、ミゲルが一番、

    ジュリアンが二番です。

 

    というのも、ある研究者から聞いた話によれば、

    大村藩に仕官したミゲルが、その後他の侍とともに

    藩の命令でフィリピンに渡ったとの記録がある

    のだとか・・・・

 

    もしかしたら、スペインの侵略の意図などを

    探りにいった密偵だったのかもしれません。

    (これは単に私の妄想です・・・)

 

 

<その23に続きます>

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月12日 (火)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その20 フロイスを信用するな

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

002

 

いよいよ<下巻>に突入です・・・・・

 

 

p14

 

この女性の肖像は多くの画家が描いているが、フロイスの「使節記」

によれば、使節のなかのひとりがやはり彼女の肖像を所望したところ・・・

・・・ウッフィーツィ美術館に行かれたら、そこのトリブーナと

いう真っ赤な部屋に入ってトスカーナ公の家族の肖像を鑑賞して

いただきたい。 もしかしたら使節はそういうものをもって日本に

帰ったかもしれない・・・・

・・とにかく生身の日本人が、これほど現場のルネサンスに近づいた

ことはないので、私は美術史家として興奮を抑えきれない。

 

=== さすがに美術史の専門家ですねえ。

    私は一時期 マニラの聖アグスティン教会にあるとされた

    天草、島原、あるいは長崎のキリシタン関連の

    謎の壁画を博物館や書籍の著者を通じて探そうとしたことが

あって、結局見つからずじまいですが、この著者の興奮が

    少しは分かる気がします。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2018/09/post-9760.html

 

_1_2_san_augustin_church_50pct

                             

 

 

p14

 

フロイスはしきりに「あの有名な大公夫人」「あの有名な」

繰り返しているが・・・・彼女はカトリック的には認めがたい

夫人だった。 モンテーニュも大公を訪問したときに、

「夫人はイタリア人から見れば美人だった」と書いている。

彼は彼女の胸がたいへん大きいことに感動しているが、

フランス人から見ると彼女は太り過ぎだったらしい。

 

=== この絵に関する評では、結局「胸が大きい」ことが

    ポイントのようですが、進んでいるイタリア人と

    その逆のフランス人では見方が違うようで面白い。

    ちなみに、私がアフリカで日本語を教えていた時に

    日本語学校のオーナーであったゾマホン氏から

    「アフリカでは太って、お尻が大きい女性が美人だ」

    と聞いたことがあります。

 

p15

 

でもメディチ家の先祖はもともとは貴族でもなんでもなく

ただ農夫あがりの薬屋だった。 だからこそ共和国フィレンツェで

人気があったのだ。

・・・ フェィレンツェは、フランチェスコ一世の時代までは

その輝かしいルネサンス的光輝を維持していた。

・・・・フィレンツェの栄光はその「人文主義(異教的、古代的、

科学的、人間的)文化」にあるからだ。

このあとメディチ家がやったことといえば、地球が球体で

太陽を中心にして回っていると言ったために、それが聖書の

記述に反するとして教会に処罰されたガリレオを、かくまい

保護したことくらいである。

 

=== この時代に 日本から4人の少年たちが使節として

    イタリアなどを見て廻ったということは

    その後日本に戻ってからその知識を活かせなかった

    ことは残念でしたが、一気に科学的知識を得る

    最大のチャンスだったのでしょうね。

    そして、ヴァリニャーノがイタリア人だったことが

    この人間的文化を通じて、日本を好意的に見てくれた

    理由だったのかもしれません。

 

 

p16

 

二十世紀のなかばごろになって、フランチェスコがたいへん

英明な君主だったということがわかってきた。

・・・ヴァリニャーノは「見聞録」のなかで少年たちに

この君主が案内した動物園や、ブラトリーノ庭園や、水力学による

奇想人を驚かす噴水やからくりを絶賛させ、多くのページを

割いている。

 

ただヴァリニャーノに最初からトスカーナ大公に謁見させる

計画があったとは思えない。

・・・この町の雰囲気はこの当時、カトリック的な荘厳さを

もっているというよりは、むしろエロティックで異教的だったから、

教育のために見せるというわけにはいかなかったし、

ボッティチェッリは女の裸を描き、・・・ミケランジェロと

きたら、そのダビデにしても全部素っ裸で広場に立っていたから、

神父たちは、おお、マンマ・ミーア(なんてこった)と思って

少年の目を覆ったにちがいない・・・・・

 

=== おお、凄いですねえ。

    その当時の町に漂う雰囲気が臨場感をもって迫って

    くるような解説ですね。

    考えてみると、九州の大名に近い武士の少年たちが

    こんなものを見たら腰を抜かすでしょうねえ。

    この時代の先端のリベラリズムが もしその後

    日本に入って来ていたとしたら、どんなことに

    なっていたんでしょうか。

 

 

p17

 

予定外のトスカーナ大公訪問はどうして起こったか

この思いがけぬトスカーナ滞在がその後さまざまな番狂わせ

を起こす原因になった。 というのは、このあと、イタリアの

すべての、われこそはと思う都市国家がいっせいに使節の

ご当地誘致運動をはじめたからである。

・・・その触れ込みが全部「東洋の王子」になってしまったので

ある。 これがあとで大いに非難されることになった・・・・

 

・・・ことの起こりは、なによりもまず、フランチェスコが

フェリペと張り合いたかったことにあったと私は信じる。

・・・イタリアは政治的には完全にスペインの支配下にあった。

・・・五百年間ヨーロッパをひっぱってきたフィレンツェを

見ずにヨーロッパを見たと言えるか。

スペインのような「田舎」を見てどうする

 

 

=== まあ、今でいうならば、客寄せパンダか

    熊本のくまモン扱いされたってことでしょうか?

    支配下にあったとは言え、イタリアには

    「八百年もイスラムに占領されていた」スペインなど

    ヨーロッパじゃないという差別意識があったそうで。

 

p18

 

フェリペ王がローマのスペイン大使オリヴァレスに送った・・

書簡では、一行は、「マンショ 日向の王の孫(または子孫)、

ミゲル 有馬の王の甥(フロイスが「使節記」に書いた

ポルトガル語では、マンショを日向の王の従弟と書いてあった

ために、日本の歴史家に避難された。・・・フロイスの書き間違い

であることがわかる。 ・・・)・・・したがって、

一行がスペインにいるあいだは彼らの素性は歪曲されていない

 

とくにフェリペの的確なことは非常に顕著だ。

 

日本をインドと混同したり、・・・スペイン宮廷で厚遇された

公子だと早合点したりするようなまちがいは、羊毛と塩と

使節の到着を同じ報告書に書くような男がやったことである

 

p20

 

さらに1584年のシェナ年代記は、「彼らはザビエルによって

帰依したインドの王のため教皇に服従をあらわさんとて来れり」

と記し、ドン・マンショは「ブンゴ」の使節ではなく、「コンゴ」の

王の大使(!)となっている

もうなんでもあり(シェナ古文書館)。

 

=== ここではフロイスの間違いを元に、日本の歴史家が

    いろいろと非難していることを著者は皮肉っているようです。

    その他の史料にも とんでもない間違いがある。

    この当時のポルトガル、スペインそしてイタリアでの

    権力争いも巻き込んだ騒動によって、日本の歴史家は

    目つぶしを喰らったといいたいのでしょうかねえ。

    何が信頼できる史料であるかを しっかりみんかい!

    ってことでしょうか?

 

p22

 

ピサについてはもう言うまでもないことで、この都市の大学こそは

中世哲学、科学のメッカであった。 ガリレオがピサの斜塔で

実験をやったことは有名で、・・・・

 

・・・使節らはここで狩りに招待されたり、大舞踏会で「有名な」

大公夫人とマンショが踊ったりして、王侯らしい数日を過ごさなければ

ならなかった。 なにしろ胸の大きい夫人のことであるから、

ダンスも骨が折れたであろう。

 

=== ここは、その時の様子を描いた絵の一枚も

    是非みたいもんですねえ。

    この舞踏会の様子は その21で・・・・・

 

 

<その21に続きます>

 









==============

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月 5日 (火)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その15 ヴァリニャーノ vs ラモン : 伊東マンショは何者か

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

 

p481

 

フロイスは「・・王フランシスコはその甥にして日向王の

妹の子」ドン・マンショの派遣を決めたと書いている。

長崎発コエリョの総会長あての手紙は、

豊後の王の甥にして日向の王の子」とある。

実際にはフロイスが正しくてコエリョがまちがっている。

 

 

p482

 

・・・つまり、伊東マンショは国主伊東義祐の孫ということに

なる。 宗麟にとっては、姪の夫の妹の子である。

 

 

多くの歴史かは、外国の文献で「日向の王の甥」となって

いたり、「王の孫」となっていたりするので、マンショの

出自がうたがわしいと考えてきた。

しかし、これは「王」をどっちにするかであって・・・

 

=== 長崎文献社の「旅する長崎学・キリシタン文化II」には

    このようなまとめがあります。

 

Scan_img_20190204_00010

                                      

 

もうひとつ問題がある。 ラテン語、ポルトガル語、イタリア語

のいずれにおいても、「甥」と「孫」または「子孫」は同じ

ネポーテまたは二ポーテまたはネポスである。

 

・・・こういう混乱は二重だから始末がわるい。

 

 

=== こういう親戚関係ってのは、昔はけっこう頻繁に

    養子縁組とか政略結婚とかあったようなので

    複雑怪奇ですね。小説なんかでこういうのを読んでも

    私は頭が混乱するばかり・・・・

 

    その上、この場合は、主たる史料がカトリック関係の

    海外に保存されているから、言語の問題も重なって・・

    その解釈の違いで 歴史家の見解も違ったり・・・

 

 

p483

 

また教皇庁ではネポーテという言葉には特別の意味、

教皇の隠し子という意味があった。

これは教皇庁の人事が教皇の血縁で占められることを

いうことばで、いわゆるコネ人事という意味である。

 

p484

 

つまりいずれの場合にも、ヴァリニャーノは「日向の候の甥」

と断っているのである。 混乱の多くは、不正確な翻訳に

あるのだ。

 

これはヴァリニャーノの発想の順序をさしている。

まず宗麟の息子(跡継ぎだからだめ)―― 妹の子の

義賢(これも長男だからだめ)―― その弟ジェロニモ

がいい、かわいいし、信長にもほめられた、これなら

宗麟の甥だし(でも遠くにいるからだめ)、では

祐勝の従弟でキリシタンの同じ年代の子がいたはずだ・・

・・・それにしよう。

 

=== ここで「信長にほめられた」というのが

    安土のセミナリオで楽器を弾いていた少年ですね。

    「遠くにいるからだめ」というのは、安土にいるので

    長崎から出発する時期に間に合わないという話。

 

    p435でこういう一行がありました:

    「信長がとくにほめた少年はクラヴォを弾いた

日向の領主の甥、伊東義勝だった。・・・・

日向は豊後の領主大友宗麟の親族である。

 

 

p486

 

伊東氏は名門であり、・・・秀吉は彼が帰国して挨拶に行った

ときに、自分の軍門伊東家の人間だということで大いに歓迎し、

自分に仕官しないかとまで言った。

 

なんというめんどうな系図説明を学者はやってきたことか!

しかし、このどうでもいいようなことが、この時代には

西洋でも日本でもたいへん重要なことだったのである。

 

=== この辺りにも、著者のいわゆる歴史学者に対する

    チクリ・・が出ているように見えます。

 

 

p487

 

だいたいそのころ西洋に行くなどということは、半ば

死にに行くのと同じことだった。

だから大家の長男は、ここにはいないのである。

 

親に敵対している大名や武将の城に生命を脅かされながら

明日をも知らぬ命を生きるよりは、荒れ狂う世界の海に、

希望を胸に出てゆくほうがはるかにいい

死ぬ覚悟を教えられて育った武士の子供たちの平静さに

宣教師たちは感嘆した。

 

=== これを読んでくださっている皆さんだったら

    どちらを選びますか?

    明日死ぬかもしれないという戦国の世の中で

    生活していくか、それともどこで命を落とすか

分からない大海原に乗り出すか。

 

 

p488

 

内部告発者

それにしても、いったいどうしてこれほどしつこく

少年たちの素性が議論されなければならなかったのか?

・・・・スキャンダラスな内部告発のためである。

 

使節派遣を疑わしいとみる見かたは今でも、日本では、

あとを断たない議論である。

 

この内部告発文書は・・・・昭和24年にローマの

イエズス会古文書館で見いだしたものである。

 

内部告発者は、スペイン人のペドロ・ラモンであった。

 

p489

 

ラモンとヴァリニャーノのあいだの最大の対立は、

布教の方針についてであって、スペイン人であるラモン

は常にカブラル側に立っていた。

 

「遣欧使節となった少年たちは、日本ではただの非常に

貧しく哀れな者たちにすぎません。それなのに、

ローマでは彼らを日本の王侯などと称して待遇された

そうで、それを聞いてわたしは恥ずかしくて顔を覆いたく

なるほどです。」

 

=== 詳しいことは知りませんが、

    カトリック教会内部と、ポルトガル・スペインの

    王国の中での いろんな勢力争いがあったんでしょうね。

    おまけに、ポルトガル人かスペイン人かイタリア人か

    などという出身国も絡んでいるようです・・・・

 

p492

 

しかし、ラモンの文章にはいろいろ矛盾があり、まちがい

があり、曖昧なところが多い。

 

 

p493

 

しかし、日本の歴史家も、マンショの少年時代に関する

記録はラモンのものしかないので、ラモンを信用する人が

多い。

 

 

しかし、高崎隆男氏はマンショの少年時代に関する記録を

発見された。

・・・「錦袋録」のなかに・・・・

このことを信ずるならば、マンショは侍臣をともなって

大友家に身を寄せていたことになり・・・・

 

=== 歴史家も大変ですねえ。

    新史料が発見されたり、発掘されたら、

    今まで自分が言って来たことが根底から覆る

    ことだってあるわけで・・・・

    確たる史料があったとしても、それが必ずしも

    本当のことを書いてあるとは限らないし。

    歴史学の場合は 実証するのはなかなか難しい。

    解釈の余地がたくさんあるのが楽しくもあり・・・

 

 

p495

 

これらの少年は王侯としてではなく、セミナリオの初穂と

して、日本人の知性と教養を見せるために派遣されたので

あり、・・・・これを王侯のように遇したのは、まったく

ローマ側のやったことなのだ。

 

 

p499

 

この歴史についての権威松田毅一氏はフロイスにある

「巡察師はにわかに決意した・・・・・・」

・・と断言しておられるが・・・・

 

・・こういうことを考慮すれば、会議のあとにのみ

計画が生まれたのだと断言することはできないのである。

 

 

=== 元々 ヴァリニャーノが意図していたのは

    日本でのキリスト教の発展のために、セミナリオに

    いた少年たちにローマを見せ、生き証人になって

    もらい、将来の日本での布教の発展に力を発揮して

    もらいたいという計画だから、それが、いつの間にか

    変な方向に行っちゃったってことのようですね。

 

    まあ、海を渡っていくだけでも2~3か月はかかる

    わけだから、ヴァリニャーノ本人が最後まで引率

    しなくちゃ本意は伝わらないでしょうね。

    SNSが日常になっている今ですら、発言者の

    真意は伝わりにくい世の中なんだから・・・

 

 

p501

 

人間を理解するにはその歴史を見なければならない。

・・・絶対に知らなかった、と言い切るには、ただひとり

の証言ではじゅうぶんではない。

 

p502

 

・・ヴァリニャーノに悪意をもっているような場合、

承認としてはそのまま信用しないのは裁判の常識である。

 

ラモンがこの告発を書いたときは派遣から五年後の

1587年で、しかお当の宗麟は死んでいた。

ということは死人に口なしということである。

 

 

p503

 

だからいつも連続した時間でその人間の本質を判断

しなければならない。 紙よりも人間理解のほうがだいじだ。

 

p504

 

だが、このことの最大の被害は、それが理由で

その後の日本の歴史家が、この外交使節問題を犯罪視する

ようになったということである。 もともと耶蘇嫌いの

日本人に対して、この「醜聞」は格好の攻撃の種

提供したし、いまも提供しつづけている。

 

=== さあ、ここで著者の主張が 歴史家批判とともに

    爆発してきます。

    私はど素人ですから、どっちが正しいと言える

    立場じゃないんですが、史料というものが

    必ずしも真実を書き記したものではないという

    ことから言えば、「人間を観る」というのは

    視点としては正しいような気がします。

    ただ、史料だけが実証的なものだという視点からは

    許せない態度かもしれませんが・・・・

 

 

=== ちなみに、こちらの日本二十六聖人記念館が発行

    した本では、イエズス会の記念館館長が

    下記のようなことを伊東マンショについて

    書いています。

 

 

Scan_img_20190205_0001

・・・

 

 

Scan_img_20190205_0003a

 

 

p510

 

断るまでもなく私はキリスト教徒でもないし、個人的に

この宗旨の味方をしているのでもない。 しかし、弁護士

であるとするならば、私はよろこんでヴァリニャーノ個人

の弁護に立つ。 私は彼の差別観のない布教方針を評価し、

彼が日本文化を尊敬し、日本の少年を尊敬したことを評価

している。 彼の人間性を信じているのだ。

 

私は一枚の史料よりも、その人間の行為や言動の総合によって

判断する。 早い話がラモンのひとことよりも、ヴァリニャーノ

が三十三年間アジアと日本でやったことを信じるのだ。

 

証拠? 人間よりも一枚の紙や一個の印鑑を信じるのが歴史家

ならば、私は自分が歴史家ではないことに確信をもっている。

史料ではなく、人間を読む歴史家だと言いかえてもいい。

 

 

=== さて、ここで架空の法廷が開かれるわけです。

    そして、著者は上に書いてあるように

    ヴァリニャーノの弁護人であると宣言しています。

    いわば、歴史学者に対する叛旗を上げたとも

    みえる大胆な行為ですねえ~~。

    わくわくしますねえ~~。

    ちなみにこの本の著者はこういう方です:

 

 

 

001

 

 

 

 

 

<その16に続きます>

 

 

==============

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その14 系図から抹消されたキリシタン

 

  

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

5_250

 

 

p460

 

1564年・・の書簡で、フロイスは、ファン・フェルナンデスが

作成した日本文典と葡日・日葡辞典について言及している。

 

 

ヴァリニャーノは・・・彼がもってきた日本最初の活版印刷機で、

まず1595年に羅日辞典が天草で印刷され、日葡大辞書は長崎で

1603年から4年に出版された。 

 

1577年日本にやってきたジョアン・ロドリゲス・・・が作った

日本語文法「日本大文典」は1604年から8年に長崎で印刷

された。 

 

p461

 

これらの辞書はヨーロッパの体裁で編纂されていて、

ローマ字と表音的仮名づかいと意味説明がついているので、

当時の発音やことばの使われ方がわかるから、日本語研究

の上では非常に貴重な資料になっている。

 

=== 日本語のその当時の発音が外国の辞書で分かる

    ってのが不思議な感じ。

 

=== この天草にあったという活版印刷機なんですけどね。

    熊本県天草市のコレジヨ館ってところに複製品が

    展示されているんです。

 

天草コレジヨ館

http://hp.amakusa-web.jp/a1050/MyHp/Pub/Free.aspx?CNo=25

5_010c

5_495

                             

グーテンベルク印刷機の複製品

天草市 コレジヨ館

=== ちなみに、上の印刷機の右側に見えている絵画は

    少年使節がローマでパレードをしている絵だそうです。

 

ジュタイシェン師は、純忠を「本能の人」と呼び、

元来日本人は宗教的であるというよりは迷信的である」と

批判している。

 

=== 宗教的というのと、迷信的というのと、

    どれほどの違いがあるかってのが問題ですかねえ・・・

    おそらくこのコメントはカトリック以外は迷信だ

    という意味じゃないかと思うんです。

    あるいは、神道のことを言っているのか、仏教の

    ことを言っているのか・・・

    黒人は動物であって人間じゃないという人たちの

    定義づけですし・・・

 

 

p463

 

一般に、日本の布教をめぐって、イエズス会とフランシスコ会は

犬猿の仲だったのだが、ルセナはイエズス会であるにもかかわらず、

フランシスコ会士を住院に迎えて殿に会わせ、殿が感嘆したこと

をもって、「これがこの殿の抱えていた信仰から出た深い

りっぱな考えである」と賞賛した。

 

 

=== いろんなこの時代の本を読んでいると、

    大雑把にいって ポルトガルからのイエズス会が

    マカオ経由で日本に入ってきて、既得権を守ろうと

    していたんだけど、スペインからのフランシスコ会、

    イエズス会、アウグスティノ会の3つの修道会が

    マニラ経由で遅れて入ってきて、イエズス会から

    言わせれば 日本を掻き廻したという雰囲気みたい

    ですね。 布教の仕方も相当違っていたようで。

 

 

p466

 

「唐物長崎記」によれば、このとき長崎勢は「ふすたと申す

軍船をこしらえ、・・・・・」

この記録では、長崎は1579年にはこの一種の軍艦を装備して

防御にあたっていたことがわかる。 このような軍船は日本には

なかったので、これは純忠を救うためにポルトガル人が彼に

もたらしたものであることは明らかである。

 

=== 「ふすた」fustaはポルトガル語だそうです。

     辞典によれば、

    「16世紀から17世紀にかけて貿易活動に従事したポルトガルの

小型帆船。南蛮船として日本にも来航。フスタ船 (ぶね) 。」

 

 

p476

 

ヴァリニャーノも・・・書いている。

「実際日本でのキリスト教会は本質的に不安定で、つねに

危険をはらんでいます。 たえまない戦乱がつづいている上に

日本人は敵になったもののすべてを破壊する習慣があるから

です。 こういうわけで・・・・長崎の港を確保する必要が

あるのです。」

 

 

p470

 

純忠とヴァリニャーノの話合いの結果、

1580年6月9日の公文書によって、長崎の町と港の

支配権はイエズス会に委託されたのである。

 

 

p471

 

晴信は、いっぽうでは龍造寺の重圧下に、他方では家臣の

反逆下にあったが、天正七年、口之津に到着したヴァリニャーノ

の援助によって「多量の食糧」「船と塩硝」などをポルトガル船

から調達し、この援助で窮地を脱した。

 

・・・その年、有馬にセミナリオが建てられた。

その後、彼の領内にはキリシタンが増え、その数は約六万

と言われた。島原半島にいかに深くキリスト教が根付いた

かは、やがて起こる島原の乱が証明する。

 

 

=== 長崎がどんどんキリシタンの拠点になるに従って、

    あるいは、キリシタン大名が劣勢になるに

    したがって、外国の力も借りないと守れない

    という意識は働いたでしょうね。

    しかし、ふすた船みたいな外国の軍艦みたいなのが

    実際に出てくると、日本も警戒しだすということ

    でしょうか。

 

 

p475

 

この四人の少年のなかで、副使となったふたりの少年

マルティーノとジュリアンは大村領の出で、大名の子または

近い親族ではない。 ・・・彼らは1580年に

ヴァリニャーノによって有馬に創建されたセミナリオの

一期生である。

 

 

・・・しかしこの二人は大身ではないので、日本側の史料

は少ない。 

 

== この「大身」という言葉、知りませんでした。

   国語辞典によりますと:

   おおみ【大身】

刃わたりの長いこと。 「 -の槍」

たいしん【大身】

身分の高い人。高位・高禄の人。小身 「 -の旗本」

   ・・・読みによって意味が違うとは・・・・

 

 

p476

 

 

原マルティーノは彼がローマの市民権を得たときの市民会議

の議決書に「肥前国ハサミの首長たる顕栄なるドン・ファラ・

ナカズカラ」の子であると記されているいることから、

波佐見生まれであることが推定される。

 

・・・問題は中務純一の男子は家政しか系図にのっていない

ことである。 松田氏によればキリシタンになったものは

迫害以後系図から抹消されることが大村家の場合にもあった

そうだ。

 

=== 系図から抹消ですか。

    なかなかシビアですねえ。

    その親戚筋はどんな扱いを受けたんでしょう。

    しかし、考えてみると、

    大村藩の民衆は強制的にキリシタンに改宗させられた

    わけだから、全員抹消ってことになっちゃうん

    じゃないの??

 

 

p478

 

兄弟(と思われる)家政は、のちに龍造寺のあと肥前の領主と

なり、島原の乱を鎮圧し、長崎の警護役となった鍋島家の

家臣となったので、有名なキリシタンだった原マルティーノ

の記録は、彼には好もしくないので家系図から消された

みてよい。

 

=== なるほど、鎮圧側になってしまったとなれば、

    それは都合が悪いですねえ・・・

 

 

p478

 

中浦ジュリアンについても、・・・・

「肥前中浦の領主中浦甚五郎の子」と読むべきである。

・・・中浦のどの領主かわかっていない・・・

 

松田氏によれば、中浦という西彼杵半島の海岸の集落の

中央に「タチ」という高台があり、そこには昔中浦の

支配者の屋敷があったということで、土地の人が今そこに

ジュリアンの史蹟をたてているということである。

 

=== その記念公園はこちらです:

中浦ジュリアン記念公園(資料館)

http://oratio.jp/p_resource/nakaura-jurian-park

https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20091128_JulienPark.php

 

 

 

p479

 

のちにマルティーノがラテン語と日本語のすぐれた才能

発揮するが・・・・

 

ジュリアンについてはなんら特別の才能も特筆されておらず・・

 

これらふたりの少年は副使つまりは随員だから、厳密には

三王の使節ではない。 正式の使節は大名と明らかに関係

のある身分の高い 千々石ミゲルと伊東マンショだった。

 

=== 有名になると、いろいろと個人の才能まで

    噂されて大変ですねえ。

    有名税ですかね。

 

p480

 

ミゲルだが、彼についてはその史料も一致していて食い違い

がない。 ルセナやフロイスも

「有馬の殿の従弟で、ドン・バルトロメウの甥」とはっきり

書いている。

 

・・・また大村家歴代家伝史および「伴天連記」には

彼が清左衛門と呼ばれていることが記されている

こういう大名になると多くの史料や記録があり、彼に

ついてはなんら疑うところもない。

有馬と大村の双方の領主と近い親戚なので、ひとりで

両家を代表したことになる。

 

=== 千々石ミゲルは棄教して、どこで死んだかわからない

    ということになっているんですが、

    最近の研究によって、ミゲルの妻の墓の

    隣に埋葬されているのではないかと期待され、

    2019年中には発掘が予定されているそうです。

 

    天正遣欧少年使節・千々石ミゲルの墓と思われる石碑

    https://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post03/1441.html

    「清左衛門は喜前にキリスト教は邪教と進言し、それから

喜前はキリシタン禁制を出した。当時多数いたキリシタン側

からは強い非難の声があがり「大敵は喜前、その根源は

清左衛門である」とされ、裏切り者としての烙印を押された。

喜前はキリシタン禁制発布後の藩内の動揺を鎮めるため、

非難の矛先を清左衛門ただ1人に押し付け、見せしめ的に処罰した。

その後の清左衛門は藩政・キリシタンの両方の勢力から追われる

ように大村を逃げ出し、島原半島の有馬晴信のもとに身を寄せた。

だが、ここでも家臣に瀕死の重傷を負わされるなど厳しい

仕打ちをうけたため、長崎に移り住んでいた。」

 

 

p480

 

もっとも問題が多いのは、主たる正使であった伊東マンショ

である。 ・・・・豊後の領主大友宗麟の使者となるべき

少年でなければならなかった。

 

この家族はなかなか複雑であって・・・・

 

=== さて、ここで4人の少年のプロフィールが出て

    きたんですけど、東方の3賢王あるいは3博士

    と重複するイメージがどうしても必要だから

    いろいろとこだわりがあるわけですね。

    下のサイトに伊東マンショの肖像画などがありました

 のでご覧ください:

 

日曜美術館「少年たちはローマを目指した~絵でたどる天正遣欧使節~」

https://blog.kenfru.xyz/entry/2016/08/13/日曜美術館「少年たちはローマを目指した%EF%BD%9E絵でた

 

 

=== 下のリンクのサイトの 下の方に

    中浦ジュリアンの肖像画とされるものがあります。

    フィレンツェ・ローマ旅3(ローマ)

    Santa Maria dell' ortro サンタマリアデロルトロ教会

    https://4travel.jp/travelogue/11112694

 

 

 

<その15に続きます>

 

 

 

 

================================

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月 4日 (月)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その11 主賓じゃなかった天皇と本能寺の変

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

05_298a

                             

島原・口之津のヴァリニャーニ像。

 

 

p399

 

ヴァリニャーノの風貌を描いた一枚の版画が残っているが、

それによると、波うつ髪と印象的な大きな美しい目をもった

りっぱな男である。

すべての記録が彼の異常なまでの背の高さと堂々たる

体躯について書いている。

 

その背の高さだけでも話題になるにはじゅうぶんだったが、

彼はなにを思ったのか黒人の忠実な従者を連れていた。

日本人はまだ真っ黒な人間を見たことがなかったので、

堺ではこのコンビが大評判になって丁慶のところには

見物の群集が殺到した。

 

 

 

 

p400

 

安土神学校生徒が歌う天使の声のような聖歌の合唱、

オルガンの響きは日本の人びとには初めてのことだった。

 

 

p401

 

信長もその黒い男を見たいと言ったので、オルガンティーノは

まずこの黒人を連れて行った。信長はしげしげと黒人を眺め

たが、皮膚が最初からそれほど黒いということを信じることが

できなかったので、上半身裸になるように命じて家来に

目の前で徹底的に洗うように命令した。  ・・・・・

 

201924_220pxnamban10

・・・結局この黒人はこれをほしがった信長の長男信忠が

もらい受けた。

・・・この長男も二条城で討たれたが、そのとき、この黒人は

主人のために最後まで戦ったそうである。

しかし、敵方は彼を罰しなかった。 かれは「動物」である

から罰するに値しないという理由であった

最後にどのような終わり方をしたのか今のところわからない。

 

 

=== この時、その黒人 弥助はどんな気持ちだったん

    でしょうね。 人間じゃないから助けられた。

    弥助についてはこちらでどうぞ:

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/弥助

「本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を

示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて

正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会

日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)に

しようとしていたという。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者

である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される

写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ

時には道具持ちをしていたという記述がある。」

 

 

p404

 

ヴァリニャーノは・・・王家につながる貴族の出で、

大学で法学博士の学位をとり、神学校で教えていた最高の

知識人である。 しかもインド・東アジア一帯の

視察官であって、彼が日本で見聞きしたことはすべて

インド、リスボン、マドリード、そしてローマに報告される。

 

p405

 

信長は・・・京都で行われた「馬揃え」に、ヴァリニャーノ

を招待したのである。

・・「馬揃え」とは、戦国時代の武将が行った一種の

軍事パレードである。

・・・このとき信長が行った馬揃えは歴史上もっとも有名な

ものになった。

 

 

p408

 

信長のいでたちはたいへん変わっていて・・・・・

・・その華やかないでたちは、「左ながら住吉明神御影向も

かくや」と思われた。 つまり神のようだったというわけ

である。

 

 

p409

 

戦国の武家の文化の豪華さやその好みを知ることも

おもしろい。 少なくとも、それは江戸時代を通過した

いわゆる地味な日本の好みではない。 それは目もあやな

絢爛たる派手な趣味だった。

その点ではない派手ずきの西洋の十六世紀、十七世紀

バロックと似たようなもので、日本がなにも地味な幽玄

ばかりではなく、異常なまでの豪華趣味をもっている

という認識はほんとうだろう。われわれには豪華絢爛、

人目を驚かす珍奇な美の伝統がある

 

=== 日本にはこの頃から「ガラパゴス」な血が流れて

   いたんでしょうかねえ。

 

 

p411

 

だいたいキリシタン武将はその服装に西洋渡来のものを

身に着けてみずからをキリシタンとして誇示する習慣があって、

ロザリオ、大きな十字架、西洋風の合羽、十字架をつけた馬覆いや

ローマ字を染め抜いた金の房のついた真っ赤な旗などの意匠を

競っていた。 それが信長の戦陣に加わるといかにもモダンで

強そうだった。

 

==== 残念ながら この馬揃えの屏風画はなさそうですね。

     これが近いかんじかな?

201924_140261980775490320228_46raku

 

洛中洛外図

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/46rakuchu.html

 

 

=== こちらに馬揃えの詳しい説明のサイトがありました:

 

https://194116410.at.webry.info/201406/article_2.html

 

https://bushoojapan.com/tomorrow/2014/02/27/15245

京都馬揃えの陣容

一番部隊……丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島一宣

二番部隊……蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺大ガ塚・佐野衆

三番部隊……明智光秀・大和衆・上山城衆

四番部隊……村井貞成・根来衆・上山城衆

織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・

織田信包(のぶかね)・織田信孝・織田信澄・織田長益・織田長利・

織田勘七郎・織田信照・織田信氏・織田周防・織田孫十郎

公家衆……近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣・日野輝資

旧幕臣衆……細川昭元・細川藤賢(ふじかた)・伊勢貞景・

一色満信・小笠原長時

九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆

十番部隊……柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門尉・不破光治・

前田利家・金森長近・原政茂

十一番部隊……お弓衆百人(平井久右衛門と中野一安が先導)

 

 

 

p416

 

この一大デモンストレーションは、内裏、公家、諸侯、民衆

に向けて自分の偉大さを示すものであったと同時に、世界に

向けて、日本の国王が彼であることと、その偉容とを知らせ

ようとしたものである。 帽子と椅子は世界の王侯と相互交換

可能なシンボルである。

 

また宣教師らに特別の高台を作って観覧させたのは、当然

彼らが主賓であることを示している。 内裏や公家がどこに

いたかは語られていないが、特別の高台にいたのは

ヴァリニャーノであった

 

 

p417

 

予告もなしに天皇と親王はこの日、キリスト教神父と同席

をさせられたのであった。 しかも彼は明らかに彼らより

重要な客、主賓であった。 朝廷にとって、公家にとっては

なおさら、これ以上の侮辱はない。

朝廷はかねてからキリスト教の最大の敵であり、都における

キリスト教禁令の勅は、まだ有効性を保っていたのである。

 

=== 朝廷や公家にとっては、行ってみたら自分は

    主賓じゃなかった・・・こりゃあビックリでしょうね。

    それも、追放令を出した当の宣教師が主賓とは。

 

 

p420

 

乱世を終わらせて全国統一を行うには、天皇のもつ権限が

不可欠だったから、実際には自分が支配しているにもかかわらず、

天皇を利用したのは信長に限ったことではない。

秀吉も徳川も同じである。

 

 

p424

 

立花氏はこの三職推任問題と、一か月後の本能寺の変とは関係が

あるとして、信長を許すべきではないと思った宮中がなんらかの

働きかけを光秀にしたのではないかと示唆されている。

本能寺の変四日後の六月七日に、朝廷は、信長を討った明智光秀

に勅使を遣わし、九日に光秀が上洛し、五摂家全部が迎えている。

朝廷は信長の滅亡を大喜びしたのである。

 

=== 本能寺の変の本当の理由というか黒幕は

    だれだったんでしょうか?

    いろんな説があるんでしょうけど・・・・

    Wikipediaではこんなことが書かれていました。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変

「光秀が謀反を起こした理由については、史学的には重要な

研究テーマと見られておらず、定説が存在していない

一方で「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、

専門の中世史研究家ではない多くの人々が多種多様な説を発表

している。」

 

「本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、

時代の大きな転換点となったにもかかわらず、信長を討った

光秀がその動機を明らかにした史料はなく、また光秀の

重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機が

明らかにされることはなかった。更に光秀がおくった

手紙等も後難を恐れてほとんど隠蔽されてしまったため、

本能寺の変の動機を示す資料は極めて限定されている。

しかしこれは裏返せば、個人の推理や憶測といった想像を

働かせる余地が大きいということであり、中世史研究家

ではない「素人」でも参入しやすい。」

 

「平成頃になって史学会では朝廷黒幕説(朝廷関与説)が脚光

を浴びて、有力な説の1つのように見なされるようになった。」

 

=== あらまあ、難しすぎて史学的なテーマには

    できないってことなんでしょうか?

    あるいは、史料のないところに歴史は無い・・か。

「主流中の主流」の考えは、野望説と怨恨説であった

 ・・と書いてありますから、大河ドラマなんかも

 ほぼそんな流れですけどね。

 さすがに陰謀説はとりにくいかな、NHKなんで。

    この本の著者は黒幕説を臭わせていますね。

    まあ、それにしても、いろんな説があるもんだ。

 

 

p425

 

フロイスは、信長の最終目標は「アジア征服」にあったと

述べている。 信長は・・・「・・・日本の全六十六ヵ国の

絶対領主となったならば、中国にわたって武力でこれを

奪うため一大艦隊を準備させること・・・・意を決していた」

 

 

自分がキリスト教を保護する日本国の国王となり、かつ

東アジアの帝国の王となることは、スペイン・ポルトガル王

がやっていることとまったく同じである。

 

 

p430

 

南蛮画のなかでも非常に有名な「泰西王侯図」や「世界都市図」

などを信長マインドなジャンルだと思っている。

 

・・・これらの絵の発想は鎖国以前のものであり、特に

織田時代のものである。

 

・・・世界の王侯の華美、勇壮な騎馬姿を描くこれらの

屏風絵には、信長の「馬揃え」姿が重なっている。

 

 

=== 「泰西王侯騎馬図屏風」は、こちらのサイトに

    あります。

    信長もこの4人の絵の中に入りたかったのでしょうか。

 

https://cardiac.exblog.jp/17020961/

400年の時を越えて @NHK日曜美術館

「本図の成立にあたっては、日本布教を意図するイエズス会

が作ったセミナリオ(神学校)が関与したとされている。

セミナリオでは、ラテン語、音楽、画の模写などが教えられており、

画の教師はイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオであったこと

が分かっている。

遠近法や陰影法、さらには凹凸などを駆使したこの屏風の表現は

西洋風だが、金箔や顔料などは日本画の手法で、高い完成度と

品格をもつ和洋の折衷様式となっている。」

 

「屏風は右からタタール汗、モスクワ大公、トルコ王、

および神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とされ、キリスト教徒と

異教徒が王どうし闘う構図になっている。」

 

 

 

 

<その12に続きます>

 

====================

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」を読む - その9 もし信長が生きていたら

 

 

03_092

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

 

p330

 

天皇はそもそもどうしてその最高の権威をもっていたのかと

いえば、それはなんといってもこの国の呪術的な宗教

主宰者であったからである。 ・・・天皇の祖先神がこの国の

創造主であって・・・・ 人間を越えた存在、つまり広い意味で

宗教的な存在であった。

 

 

p331

 

キリスト教もほんとうに手強い相手を敵にしてしまったものだ。

 

権力と命令系統に従順な日本人の平の武士が、キリシタンに

なったとたん・・・・

 

日本をトップの点から冷静に見ている賢い公家

この危険しごくな臭いに気づかないはずがない。

 

=== このあたりを読み進めていると、秀吉や徳川の

    禁教令しか知らなかった私には

    結局これがキモだったんじゃないかと思えます。

    信長はどんどん受け入れていたものの

    それなりに天皇には気を使っていたようですし。

 

 

p331

 

仏教ばかりではなく、醍醐天皇が平安時代に編纂させた法律である

延喜式は、古代から伝わる各地の神々を、ひとつの国にひとつ

の神宮で治めることに決めて、宮司も朝廷が組織するように

なっていたので、神道も制度的に朝廷の支配下にあった。

 

p332

 

なによりも大きいことは、日本の国全体が、神仏などによって

護られているという「鎮護国家」の思想が、外敵、とくに蒙古

が襲来した十三世紀以来高まっていたことである。

 

したがって、外からやってくる怪しいものは、戦争であろうと、

宗教であろうと、究極的には、天皇の敵なのである。

そのことを頭に入れておかないと、あとで秀吉がやった

禁教令の文句がわからなくなってしまう。

 

 

p333

 

だから、野望を持った戦国大名は、まず将軍を奉じ、

ついで天皇を奉じることで天下を統一しようとした。

 

 

=== もしここで、キリシタン大名が日本を統一して

    いたら、どんな構造の日本になったんでしょう。

    フィリピンのような感じになったんでしょうかね?

    政治的なごたごたが収まらない時には司教団が

    姿勢を示すことで方向性を決めたりしていましたが。

    ただし、今の大統領には効き目がなさそうです。

    大胆なことをやっても、支持率が高いですから。

 

 

 

p334

 

 

フロイスは「日本史」のなかの・・・・「信長の素性」

として、つぎのようなことを書いている。

この人物の特徴は、「中背痩躯で、髭は少なく、声ははななだ

快調、きわめて戦争を好み、武芸に専心し、名誉心強く、

義にきびしい」 「他人から加えられた侮辱は必ず罰する」

つまり、かなり執念深いか、あるいは自尊心が強い

として描かれている。

 

・・・しかし彼は「貪欲ではない。 決断を秘してあらわさず、

戦略においてきわめて狡猾、気性激しく、癇癪もち」、

しかし「いつもそういうわけではない

 

「戦運が傾いても忍耐強く、度量が大きい」 「彼はすぐれた

理解力と明晰な判断力を備えた人であり、神仏の祭祀はどんな

ことでも軽んじ、占いや迷信を軽蔑する」

 

=== こんな信長が仮に本能寺で死ななかったら、

    キリスト教をどんな形で利用したんでしょうか?

    もしかして、自分自身が大司教になったりして・・・

 

 

 

p335

 

外人は、相手が日本の国でえらかろうがなんだろうが

あまり関係がないので、だれのこともふつうの人間のように

書く。 だから、同じ時代に生きていて、何度もあったことのある

外国人の、少なくとも、自分ではほんとうだと思っている

「うわさ話」から人間像を推測するほうが、親しみがあるのである。

 

それに、十六世紀のポルトガル語やイタリア語は、現代とまったく

同じなので、よけい直接的にありのままの感じが伝わる。

 

 

=== これは凄い話ですね。

    16世紀の言語が現代とまったく同じ・・とは。

    私なんかは、日本語を教えていて、言語は生もの

    だからどんどん変化するものだと思っていたんですけど。

    実際10年以上もフィリピンで日本語を教えていると

    だんだん今どきの日本語に自信がなくなってきますからね。

 

    それに、二十年ほど前に バギオにやって来たとき、

    戦前戦後をバギオで過ごしてきた日系二世の女性と

    話をしていて、まるで自分の母親の世代の日本語を

    保存してきたような話し方だなあ・・と感動したことを

    思い出します。

 

    変わりやすい言語と変わらない言語というのは

    何が違うんでしょう。

 


== ここでちょっと検索してみました:


https://ja.wikipedia.org/wiki/言語

言語にも同じような現象が起きており、その変化の速度は一定ではなく、侵略・交易・移動等他民族との接触が多ければ、その時言語も大きく変化する。代表例として英語フランス語ルーマニア語アルバニア語アルメニア語等がある。逆に接触が少ないとほとんど変化しなくなる。代表例としてドイツ語アイスランド語ギリシャ語スラヴ語派バルト語派(特にリトアニア語)、サンスクリット語等があり、特にアイスランド語は基本文法が1000年前とほとんど変っていない。 」


・・・この論理で行くと、ポルトガル語やイタリア語が変化しなかっ

   たと言うのは変ですね。 侵略、交易、移動なんかが多かった

   はずなのに。

   ですが、下のような説明もありました:


https://ja.wikipedia.org/wiki/言語変化

必ずしも話し言葉と一致しているわけではない。また、書き言葉が固定化され、話し言葉の方だけ変化してしまう場合もある。」


・・・口語は変化しやすいけど、文語は変化しにくいこともあると

   いう理屈です。

   これだったら、 ポルトガル語とイタリア語の文語の

   話かもしれないですね。

   16世紀の口語を聞けるはずもなし・・・


 

 

p336

 

ダリオ(高山飛騨守ダリオ)は、大友宗麟や大村、有馬の領主

と同じ、いわば第一世代の高位のキリシタン武将で、仏教から

キリスト教に改宗した世代である。 

第二世代はその息子たちにあたり、・・・・彼の息子(キリシタン

武士の鑑と言われた)右近ジュウスト、(背教の見本と言われた)

大村純忠の息子喜前、堺の豪商の息子の小西行長アゴスティーノ、

・・・黒田如水シメオン、そして1570年代生まれの

少年使節たちである。

 

p337

 

第三世代はありえたのかどうか、それは考えようである

明治時代になってはじめてフランスからカトリックの神父が

わたってきたとき、長崎の教会の前に、数人の老女がやって

きて、「マリア様のお像はどこ?」と聞いた。

迫害のためにキリシタンは全部死に絶えたと信じられて

いたので、神父にはそれが奇蹟だった。

・・・それは日本教会の奇蹟と言われている。

 

 

なかでも高山父子の領地摂津高槻の隠れキリシタンは有名で、

みごとな聖母の画像さえ、囲炉裏の竹筒に隠して保存していた。

 

 

=== この著者は「第三世代はありえたのかどうか、・・」

    と書いていますが、私なぞは深くも考えずに、

    それはあっただろうと思ってしまいますね。

 

    宣教師や司祭がいなければキリスト教は成り立たない

    と言うのであれば、あり得なかったことにはなるの

    でしょうが、実際に250年という信じられない

    長い期間に渡って、信仰としては代々引き継がれて

    きたわけですからね。

 

    それは違うよ・・なんて言っちゃったら、

    じゃあ信仰ってなんなの・・って話になりませんか?

    もちろんその長い間にさまざまに変化としていく

    でしょうけど。

    フィリピンなんかでもフォーク・カトリシズムとか

    呼ばれることもあるようだし、それぞれの国で

    特異な変化をすることは当然あると思うんですけどね。

 

 

 

<その10に続きます>

 

 

=========

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月 2日 (土)

若桑みどり著「天正少年使節・・」を読む - その5 日本語はラテン語よりも凄い

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

008

 

p169

 

最後にヴァリニャーノは布教の上できわめて重大なコメントを

している。

「彼らのことごとくがあるひとつの言語を話すが、それは

知られているかぎりもっとも優秀なものであり、きわめて優雅で

あり、わたしたちのラテン語よりも語彙が豊富で思想をよく表現する

 

・・最近私はほとんどイタリア語でくらしているが、

いかに日本語が繊細で深遠であるかにやっと気づいてきたところ

である。 十六世紀に「高慢な西洋人」がこのような他者認識

にいたるのはまさに奇蹟である。

 

=== 語学の達人が言っているんだから、そうなんでしょうね。

    少なくとも 優雅で、繊細で、深遠であるらしい。

    これは有名な話ですが、ザビエルは日本語のことを

    「悪魔の言葉」と言ったそうな。


    http://www.uniconpro.co.jp/honyakukakekomi/2017/12/04/「悪魔の言葉」日本語を英語にする人は悪魔の手/

    「日本語をヨーロッパ言語に翻訳していた宣教師

フランシスコ・ザビエルが、日本語の難しさに唖然とし、

日本語を「悪魔の言葉」(Devil’s own tongue)

呼んだそうです。」

 

ちょっと話がそれますが、日本語教師の端くれ

なので、日本語の文法のことで言いますと、

最近の動きとしては このような話になっています。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8851877.html

「外国人に教える文法として、ほぼ共通認識されて

いるのは、(外国人のための)「日本語文法」とも

呼ばれるもので、学校で教える「国文法」とかなり

違っています。しかし、それが一つの大系として

まとまっているかというと、それがかなりばらばら

の状態です。」

この認識は私の個人的認識と同じです。

よって、日本語教師は人によって教え方は

様々です。 

 

 

p169

 

結論はこうである。

「(このようなことばを使い分けるのだから)これにより

日本人の天稟の才能と理解力がいかに大いなるものであるかが

わかる。」

西洋人はここで容易にまったく別の結論も出せただろう。

いわく「このように煩瑣なことばの習得に時間をとられて

いるので、この国民には進歩がない。 あるいは人文科学しか

なく自然科学に目がいかない。 あるいはばかである。」

 

=== 「あるいは馬鹿である」そうです。

    まあ、ここでは自然科学に目がいかないとか

    書いてあるんですが、既に見て来たように

    日本人の旺盛な好奇心が天文学などに向いていて

    自然科学の幅広い知識をもった宣教師がいた方が

    布教には役に立つとも言っているので、

    これも観察した西洋人の個々の視点というか

    偏見などにも左右されるでしょうね。

 

 

p175

 

布教は基本的に国家と国家のあいだの協約でなされるべき

性質のものになっていた。 軍事力でその国の主権を

奪って植民地化するのでないかぎり。 それは彼らが

インドや南アメリカやフィリピンでやったことで、中国と

日本のような独立した国家ではそういう布教方針ではなかった。

 

=== 残念ながらフィリピンは植民地にされてしまい

    ました。 当時はまだまだ小さな王国が

    ちらほらと多くの島々にあるだけだったので

    なかなか統一国家というものにならなかった

    わけです。 その間に取られてしまった。

    それに武器にしても西欧に対抗できるような

    ものはなかった。

    でも、ラプラプと言う人は、マゼランに勝っ

    しまったんですねえ。

    こちらでどうぞ:

    https://www.excitecebu.com/QVLpP

 

 

 

 

p177

 

ポルトガル人からの手紙によりますと、・・・・

・・・「日本や他の地方で今までわたしが聞いた限りに

おいては、中国人はきわめて鋭敏で、才能が豊かであり、

日本人よりもずっとすぐれ、学問のある人たちだと言われて

います・・・・中国は平和ですぐれた法律によって支配されて

いる国で、たったひとりの国王に完全に従っています。」

 

このように、ザビエルは日本ではむしろ多くの幻滅を

味わって、中央集権の確立した法治国家である中国で

布教したい、そのために中国に行きたいと思いながら

日本を去ったのである。

 

=== ザビエルは日本より中国の方が

    魅力的だったんですね。

    まあ、日本だっていろんなことを中国から

    学んだり、輸入したりしたわけだし。

    気持ちは分かります。

    なにせ、乱世の真っただ中で、天皇にも

    会えず、失意の末だったようで・・・

 

    https://ja.wikipedia.org/wiki/フランシスコ・ザビエル

    「ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」

から得るため、インド総督とゴアの司教の親書

とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝

への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかった

ためかなわなかった。」

 

でも、なんとか、インドへ発つ前に豊後で宗麟と

会って、布教の拠点をつくったようです:

https://ja.wikipedia.org/wiki/フランシスコ・ザビエル

「ザビエルは、豊後国府内(現在の大分県大分市)に

ポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教

をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での

信徒数は約600人を超えていたといわれる)。

15519月、ザビエルは豊後国に到着。守護大名・

大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教

を行った。

 

 

 

p180

 

最近の研究によると、このように、征服者的ではない、

文化教養人的なヴァリニャーノが巡察師に任命されたのには、

イタリアとスペイン、あるいはカトリック教会とスペイン・

ポルトガル国家とのあいだの政治的な対立が関係していたと

いうことである。

 

 

p184

 

しかし、スペイン人はまったく別、スペインは征服国家

あった。 そしてそうであることを中国および日本はすでに

知っていた。 ヴァリニャーノは確信していた。

だれもアメリカやフィリピンから来てはならない、たとえ

イエズス会士であっても、そこ、つまり新スペインとフィリピンは

コンキスタドール(征服者)精神に汚染されているからである。

 

=== おお、フィリピンからも宣教師は来ちゃいけないって

    思っていたわけですね。

    まあ、実際 秀吉の時に サン・フェリペ号事件が

    起っちゃいましたからねえ・・・見通していたんですね。

    http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/81-60e0.html

    「1596年、スペインのガレオン船 サン・フェリペ号の

おしゃべりな水先案内人が、Tesa(土佐の間違い?)の海岸

に座礁した折に、キリスト教の宣教師たちの助けを得て、

スペインが広範囲の征服を行なったことを吹聴したのである。」

 

 

 

p204

 

日本人の改宗は、インドのキリスト教徒のように心から

キリストの掟を受け入れたわけではありません。

ただし、京都はちがいます。 ここにはクロフネから受ける

利益などはまったくないからです。

 

とはいえ、インド人と日本人を同列におくことはまったく

不可能です。 インド人は個人的な動機からキリスト教徒に

なりますが、なにしろ彼らは「黒い人」です。 そしてあまり

思慮というものがありません・・・・・

 

いっぽう、日本人は、たいていの場合、個人的な動機から

改宗するのではなく(君主の利益を考えてそうするので、

自分の利益ではないですから)、ただ彼らの君主が命令する

からなのです。 しかし、日本人は「白人」であって、すぐれた

理解力とよいふるまいかたを知っていて、また大いに世間体を

気にして教会にも熱心に通い、説教を聴きますので、

教育を受けたときには非常にすぐれたキリスト教徒になるのです。

 

 

=== 大名によっては動機が違うかもしれませんが、

    京都を除けば、基本的にはビジネスを元にして

    戦力をつけようという大名が多かったようですね。

    このような考えかたは 伊達政宗にもあったようで、

    一説ではスペインと組んで徳川を倒そうという

    野望を持っていたらしい・・・・

    支倉常長をスペインとローマに送った慶長遣欧使節

    の目的がそれだったとか。

 

    http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2015/12/san-juan-bautis.html

    「伊達政宗が スペインやローマに 支倉常長を始め

とする「慶長遣欧使節団」を派遣したんですけど、

その船 サンファン・バウティスタ号(愛称:「伊達丸」)

が その帰途 フィリピンに立ち寄り 支倉常長が

2年間もフィリピンに居たという話があるんです。」

 

 

 

 

<その6に続きます>

 

 

 

==============

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧