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2012年5月28日 (月)

「ブッダのことば」 (20) 子供が死んでも嘆き悲しむな

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「六、サビヤ」

サビヤさんは、遍歴の行者で、一人の神から
「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が
質問をしたときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人の
もとで清らかな行いを修めなさい。」と言われて いろんな有名な人たちに
教えを請いに歩き回ったんです。

それで、満足のいく結果が得られずに 最後にゴータマ・ブッダ(お釈迦様)の
ところに来たというわけです。

ってことなので、この章は いかにブッダが凄いかってことをいろいろと
書いてあるんです。

そこで、この時のブッダの立場がわかる記述があるんです:

「ここにおられる<道の人>ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、
有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められ
ている。」

「<道の人>は若いからといって侮ってはならない。 軽蔑してはならない。
たといかれが若い<道の人>であっても、かれは大神通があり、大威力がある。」

そのゴータマ・ブッダに、サビヤさんはいろんな質問をするんです。

513 サビヤがいった、<修行者>とは何ものを得た人のことをいうのですか?
    何によって<温和な人>となるのですか? どのようにしたならば、
    <自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>
    (ブッダ)と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、
    わたくしに説明してください。

・・・いやはや、随分遠慮のない 機関銃のような質問ですね。
そして、お釈迦さんは この質問にひとつひとつ答えるんですけど、
ここでは その一部だけをご紹介します。

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら
    思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに
    至った人、--かれを<目覚めた人>(ブッダ)という。

530 内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、
    また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である
    束縛から脱れている人、--そのような人が、まさにその故に
    <知り尽くした人>と呼ばれるのである。

・・・そして、すべての質問に答えたお釈迦さんに対して、サビヤさんは
いろんな言葉を使って賞賛するわけです。

544 神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

という風に。

そして、サビヤさんはゴータマ・ブッダさんに帰依し、修行のあとに聖者の
一人となったとあります。

この後の章 「七、セーラ」は、バラモンであるセーラさんが、最初はブッダに
疑いの目を向けていたのに、三百人の仲間とともに出家し、聖者となったこと
を書いてあります。

「八、 矢 」

この章のタイトルですが、巻末の解説によりますと:

近親が亡くなった悲しみに打ちひしがれるな、という教えを述べている一節である。
或る在俗信者が子を失って、悲嘆のあまり、七日間食をとらなかったのを
ブッダが同情して、かれの家に赴いて、かれの悲しみを除くために、この教えを
説いた。
と書いてあります。

574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるか
    解らない。 惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

576 熟した果実は早く落ちる。 それと同じく、生まれた人々は、
    死なねばならぬ。 かれらにはつねに死の怖れがある。

580 見よ。 見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、
    人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる

584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない
    ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
    亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得た
    ならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、
    安らぎに帰する。

嘆き悲しむのは無益である、ってお釈迦さんは言っているんです。

普通の人ならば、泣き悲しむことが人間らしくて、愛すべきで、素晴らしい
ことだと思うんですが・・・
煩悩をなくす、悲しみを超越するということが、いささか「冷たい人間」に
なることのように響きませんか?

確かに客観的にみれば お釈迦様のおっしゃる通りなんですけどね・・・

でも、根底のところで、人間の心の強さというものも分かっていらっしゃる
ということなんでしょうね。

   

   

 

   

   

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眠れない夜・・・ このCDは 速攻で効きます

このCDなんですけどね、

このCDをプレーヤーにかけて 布団にはいって聴きながら横になっていると、

テキメンに効きますよ。

5分もあれば ぐーすか 眠れます。

http://white8899.com/blog1/?p=600

だから、なかなかCDの一枚目を最後まで聴けず、何度も何度も

最初の部分だけを 毎晩くり返して聴くはめになってしまうんです。

中村元さんの「ブッダの言葉 スッタニパータの解説」CDです。

私が今読んでいる本の解説をCDに収録してあるんですけどね、

実によく効きます。

嘘だと思うなら 試してみてください。

仏様の教えって・・本当にありがたいものです。 (笑)

・・・・

付録:

ここで 「眠れる」、「眠られる」が気になった方へ:

「ら抜き言葉」の判別法についてのサイトがありました。

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n1900

  

 

 

    

 

  

  

  

   

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2012年4月 8日 (日)

「ブッダのことば」 (16) 逆らっちゃいけないよ・・・ 

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「13、正しい遍歴」

巻末の解説によれば、
古代インドのバラモン教では、人生の四時期の慣習を実行すべきとなっていて、
最後の第四の時期、つまり遍歴修行の時期が最も尊いとされていたので、
ブッダはこの遍歴について論議しているということです。

いくつか、心にひっかかった文だけを拾ってみます。

359「・・・・家から出て諸々の欲望を除いた修行者が、正しく世の中を
    遍歴するには、どのようにしたらよいのでしょうか。」

360「師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを
    完全にやめ
、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を
    遍歴するであろう。」

・・・まずは、占いはやるな、ですね。
日本人は占いが好きですもんねえ。

364「かれが、生存を構成する要素のうちに堅固な実体を見出さず、諸々の
    執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に
    誘かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。」

・・・これは「空」の理論につながるところなんでしょうか。
「堅固な実体を見出さず」とありますね。
般若心経では「実体がない」というのが何度も出てきますからね。

365「ことばによっても、こころによっても、行為によっても、逆らうことなく
    正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地をもとめるならば、かれは
    正しく世の中を遍歴するだろう。」

・・・これは難しいですよね。 「逆らうな」ですからねえ。
既に正しいとされている理法を疑いを持たずに理解せよ、という意味なので
しょうか。
それは、師を信じてその説くところに従えということになるのでしょうか。
バラモンの考えを革新していこうとする、つまりバラモンに逆らっている、
ブッダ自身の考えを「逆らわずに」理解せよという意味なのでしょうか。

369「かれにとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎに
    され、ねがうこともなく、求めることもないならば、かれは正しく
    世の中を遍歴するであろう。」

・・・「願うこともなく、求めることもない」という言葉は、「妄執」に対して
のことなのか、あるいは全てのことについてなのか・・・
願わず、求めずに 悟りの境地に達することが出来るのか。

373「過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて
    清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から離脱しているならば、
    かれは正しく世の中を遍歴するであろう。」

374「究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに
    見て、あらゆる(生存を構成する要素)を滅しつくすが故に、かれは
    正しく世の中を遍歴するであろう。」

解説では、「究極の境地」とは「四諦」のことと理解されているようです。
又、373の「あらゆる変化的生存の領域から」については「十二処」
考えられているそうです。

四諦は「釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する
方法論をまとめた苦集滅道の4つをいう」とWikipediaにあり、

十二処は「認識の根本となる眼耳鼻舌身意などの感覚器官と、色声香味触法の
認識の対境となるものを指す。」とこれもWikipediaにありまして、

こちらのサイトでは、
http://bc.web-bz.com/buddhism/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3.html
般若心経が次々と数え上げながら、「空」や「無」と否定しているのは、「十二処」
「五蘊」「十二縁起」「四諦」など、釈迦が説いたとされる仏教の中心的な教説で
使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものだ。

と解釈されているんですね。

・・・「あらゆる要素を滅する」ということは、これも「空」ということに
つながるのでしょうか。
ここでは、原始仏教の釈迦の言葉を読んでいるわけですから、大乗仏教の
般若心経を持ち出すのは早過ぎでしょうけど。

う~~ん、疑問ばかりが出てきますね。 この部分は。

この続き(17)は こちらです

  

  

  

  

  

  

     

     

     

     

    

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2012年4月 4日 (水)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (13)  原始仏教は ストイック

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

ますます、訳の分からんところに入り込んできました。

「九、いかなる戒めを」

人が正しく安立し、また最上の目的を達するための態度について、

326「強情をなくし謙虚な態度で、時に応じて師のもとに行け。 ものごとと
    真理と自制と清らかな行いとを心に憶い、かつ実行せよ。」

328「笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲、高慢、激昂、
    粗暴なことば、汚濁、耽溺をすてて、驕りを除去し、しっかりとした
    態度で行え。」

「笑い」と「だじゃれ」はいかんそうですよ。
何故なんでしょうかね。
私は この二つが好きなんですけどねえ。 困ったな。

ちょっと戻ったところに、こんな一文がありまして、

318「未だことがらを理解せず、嫉妬心のある、くだらぬ人・愚者に親しみ
    つかえるならば、ここで真理(理法)を弁え知ることなく、疑いを
    超えないで、死に至る。」

この中の「嫉妬心」について、巻末の解説に面白い記述がありました。

「嫉妬心のあるーー師が弟子に対して嫉妬心があり、弟子の成長発展に
 堪えられないことをいう。 この点では、原始仏教が主知主義的また
 貴族主義的表現を愛好していたことが知られる。 そうしてこの点で、
 原始仏教は、ストアの哲人を思わせる。」

http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E7%9F%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9
こちらのサイトの辞典によれば、
主知主義」とは:

感性・情意に認識の起源を求めず,知性ないし精神の思考にこれを
求める哲学上の立場。

又、「貴族主義」とは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F%E5%88%B6

貴族制(きぞくせい、貴族主義、Aristocracy)は、貴族が政治権力を握って
人民を支配する統治形態(政体)である。

さらに、「ストア哲学」について調べてみると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE

徳の実践を第一 自分達が善い生き方であると考えた生き方について
実践することを要求する。堕落した生活は魂までをも堕落させると考える。
ソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だ
と思われる。また、ストア学派はソクラテスの主知主義を継承し、徳即ち知
あるとした。

・・・・・

要するに、愛好していた表現方法として、このような主義に通ずるものが
あるってことで、「ストイック」という言葉が当てはまるみたいですね。

これで、ちょっと謎が解けたような気がします。
「友は選ばなくちゃいけない」という主旨のことが度々出てくるのは、
この辺りが関係しているようですね。

こういう筋で考えれば、お釈迦様は、原始仏教は、レベルの高い、知性的な
集団の哲学的な思考や、厳しい修行を求めるものであったように見えます。

日本の現代の仏教で言えば、禅宗のように師から弟子へ悟りを伝えていく
ような宗派に近いということでしょうか。

武士階級によって発展したとされる禅宗ですから、庶民とは遠い存在だった
んでしょうね。

   

   

   

   

   

   

   

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2012年2月25日 (土)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (6)  4種類の修行者 神とは?

 
岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

この本は、さすがにお釈迦さんの肉声に一番近いというだけあって、
面白いです。
いろんなエピソードがあって、その場面でお釈迦さんがどう対応し、
詩のような言葉を発したのか。

さて、その一つ、一所懸命働いている農夫のところへ行って、道にたたずみ、
食物を配給しているところでのエピソードです。
(まあ、要するにお釈迦さんが托鉢をしているってことです。)

お百姓さんから、
「あんたは何にもしないで、そうやって食べ物をもらいに来たけど、
私はこうやって一所懸命働いているんだから、少しは手伝ったらどうよ。」
って言われちゃったお釈迦様の応えが次のようなもんなんです:

77.私にとっては、信仰が種子である。 苦行が雨である。 智慧がわが
   くびきと鋤とである。 はじることが鋤棒である。 心が縛る縄である。
   気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。

いろいろもっと話すんですが、この応えを聞いた百姓さんが、
なるほどと思って、乳粥をお釈迦さんにあげるわけです。

すると、ここで、お釈迦さん曰く:

81.詩を唱えて(報酬として)得たものを、わたくしは食うてはならない
   バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわし
   ではない。 ・・・定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)
   生活法なのである。

と言って、今度は断ってしまうんですね。
そうなると、百姓さんは、その乳粥をどうすんべえ、と聞くわけです:

お釈迦さんの応えは、
「青草の少ないところに棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。」
なんです。
意味わかんないですけどね。

言われるままに、それを水の中に投げ棄てるわけです。
そうしたら、水から湯煙があがったってんです。
それで、なんと、そのお百姓さんは、恐れおののいて、ぶったまげて、
お釈迦さんの弟子になって出家しちゃうんです。
そして、最後には聖者の一人になったんですって。

・・・・

次に鍛冶屋さんとの会話

「世間にはどれだけの修行者がいますか?」って問いに対する応え:

84. 四種の修行者があり、第五の者はありません。 ・・・・・
    ・・・ <道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する
    者>と及び<道を汚す者>とです。

その4種類というのがどんな人たちかっていうと:

86. 疑いを超え、苦悩を離れ、安らぎを楽しみ、貪る執念をもたず、
    神々と世間とを導く人、 -- <道による勝者>

87. この世で最高のものを最高のものであると知り、
    ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を、
    -- <道を説く者>

88. みごとに説かれた(理法にかなったことば)である<道>に生き
    みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを
    奉じている人を、---<道によって生きる者>

89. 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、
    傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、
    まじめそうにふるまう者、-- <道を汚す者>

これは全部修行者ですよ。
89も修行者です。
あああ、私はしっかり<道を汚す者>ですね。すんまへん。

ここで、今、ふっと思い出したんです。

宮坂さんが書いた「真釈 般若心経」で出てきた4階建て。
以前読んだ本の感想文で その「まとめ」に書いたんですけど。

屋上 = 釈尊瞑想の図 = 仏陀の居るところ (人知を超えた)
四階 = 釈尊入滅の図 = 観自在菩薩レベル (空を知る)大乗仏教
三階 = 釈尊説法の図 = 舎利子レベルのフロア(無我を知る)小乗仏教
二階 = 釈尊修行の図 = 世間レベルのフロア (自己形成)
一階 = 釈尊誕生の図 = 幼児レベルのフロア (出発)

以上のような話でした。
この一階と二階は、いずれも世間レベルの話ですから、上記の89に
該当しませんかね?
88=舎利子、 87=観自在菩薩、 86=当然、屋上の仏陀

今読んでいる本のうしろの解説には次のようにあります:

ブッダとは、世の中に多数いる修行者のうちの一種類にほかならないのである。
目ざめた人々が複数形であることに注意せよ。
ここの教えを釈尊が説いているのではない。 「私が説くのだ」とは言わない。
そういう傲り高ぶった気持ちをかれはもっていなかった。
ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が
説くのである。 当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊は
ただ伝えただけにすぎないのである

かれには<仏教>という意識がなかったのである。

・・・そこで、私の疑問なんですが、
上記の86に「神々」って出ているんですね。お釈迦様が「神」と言っているのはどんな神なんだろう?
それも「神々」と複数形なんです。

それに77で「信仰」という言葉もあるんです。 仏様の信仰って・・・・?

そこが、知りたい。

次回の(7)は こちら です。

   

   

   

   

   

 

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2012年2月20日 (月)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (2) いつ頃の話なの?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。

この本の解説の部分です:

ー ここに現れる修行僧たちは、・・・大寺院の中には住んでいない。
  せいぜい庵に住んでいた程度である。 つまり大寺院がつくられる以前
  段階を示している。

ー 尼僧が登場しない。 西紀前300年ころにインドに来たギリシャ人
  メガステネースは、尼僧に言及しているから、当然それ以前の時期の
  段階を示している。

ー ストゥーパ(聖者埋葬の塚、塔)の崇拝あるいはチャイティヤ(塔院)
  崇拝が一般にひろがる前の段階。

ー 真理に関する論議は盛んになされているけれども、・・・「四諦」の説
  とは何の関係もない。

ー 歴史的人物としてゴータマ・ブッダ(釈尊)の逝去(西紀前383年頃)
  ののちに、仏弟子たちはその教えの内容を簡潔なかたちでまとめ、あるいは
  韻文の詩のかたちで表現した。

ー 最初は古マガダ語・・・或る時期にそれがバーリ語に書きかえられて、
  現在はバーリ語聖典・・ これらの詩あるいは短い文句は大体
  アショーカ王(西紀前268-232年)以前に成立した・・・
  それらの集成のうちでも「スッタニパータ」は特に古く成立した・・

ー 第三の段階として・・・・原始仏教聖典のうちの「経蔵」(経典の部分)
  が成立。  戒律の集成説明書である「律蔵」も成立

ー 第四の段階として、 仏教教団が細かな部派に分裂。(小乗仏教)
  諸部派で経典の内容の説明・整理・註解を行い、・・・「論蔵」を構成。
  スリランカの上座部のものと説一切有部のものとが伝わっている。

ー 原始仏教 ・・ 「三蔵」=経蔵・律蔵・論蔵  バーリ語

ー 三蔵は紀元後にもとの俗語からサンスクリットの翻訳され・・・・

ー サンスクリット原典がシナにもたらされて漢訳され、
  ほぼバーリ語三蔵に比敵するものが漢文の大蔵経のうちに収められ、
  チベット大蔵経の中にも訳出されている。

ー 紀元後にインド及び中央アジアで大乗仏教が興起・・・
  多数の大乗経典が作成された・・・ シナ及びチベットに伝えられ・・・
  日本の仏教に特に影響を及ぼしたのは「法華経」「浄土三部経」などの
  大乗経典である。

ー もしも訳文に、いわゆる仏教的色彩が見られるなら、それは後世の
  見解をもち込んだものであり、原意からそれだけ離れていると言わねば
  ならぬ。

ー 「スッタニパータ」について少なくとも分量的にはこれだけ解明した
  書は、海外にはないと思う。

この本の最初の230ページあまりがその本文であって、お釈迦様の会話の
ような短い文がたくさん並んでいます。
そして、「註」が190ページにもおよぶ長さになっています。

要するに、研究資料集といった方がいいかもしれませんね。

この解説を見る限り、真理についての議論はたくさんあるけれども、
お釈迦さんがいったという「四諦」などについては出てきていない、って書いて
あるみたいです。

古マガダ語ーー>バーリ語ーー>サンスクリット語ーー>漢語ーー>日本語

って形で翻訳された経典が広がっていったんですね。
(この本については、バーリ語から日本語への翻訳だったようです。)

では、実際には お釈迦さんはどんなことを話していたのか、
次回から見ていきましょう。

   

   

   

   

   

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2012年2月19日 (日)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (1) お釈迦様の生の声 ?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。

私の手元に二冊の岩波文庫の本がありまして。
ひとつは この「ブッダのことば」で、もう一冊は「般若心経・金剛般若経」
なんです。 どちらも大御所の中村元氏の著書なんですね。

3img_0629

今まで「般若心経」の解説本3冊を読んできたんですが、さて、どちらを
先に読もうかと、ぱらぱらと中身をチェックしたんです。

後者の本は、いままでの解説本とは違って、まさに解説本の元になるような
基本になる「般若心経」解説と言えるかと思います。
おそらく多くの解説本の著者が この本をもとにしたのではないかと思います。
・・なので、私にはちと難しすぎるかなあ~~、と思って敬遠。

そこで一気に、大乗仏教の代表的経典である「般若心経」から、小乗仏教を
飛び越えて、原始仏教の本ともいえる「ブッダのことば」を読むことに決め
ました。

3img_0629s

この表紙に書いてあるように、「最も古い聖典」なんだそうです。

それで、この本の一番最後にある「解説」をまず読みました。
そこにはこのように述べてあります。

この「ブッダのことば(スッタニパータ)」の中では、発展する以前の
簡単素朴な、最初期の仏教が示されている。 そこには後代のような煩瑣な
教理は少しも述べられていない。 ブッダ(釈迦)はこのような単純で
すなおな形で、人として歩むべき道を説いたのである

かれには、みずから特殊な宗教の開祖になるという意識はなかった。
修行者たちも樹下石上に座し、洞窟に瞑想する簡素な生活を楽しんでいたので、
大規模な僧院(精舎)の生活はまだ始まっていなかった。

・・・ まさに、原始仏教の時のブッダの言葉を集めたということのようです。

「スッタ」=「たていと」「経」の意味
「ニパータ」=「集成」の意味

よって、「スッタニパータ」は、「歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。」としています。

日本の仏教は大乗仏教ですから、この小乗仏教の前段階である原始仏教に
ついては、中国・韓国を含めてほとんど知られていなかった聖典だったようです。

私は、これまで、我が家の宗派である浄土真宗に発して「阿弥陀経」、親鸞さんの
「教行信証」、そして、大乗仏教の代表的な経典としての「般若心経」に
ついて解説本を読んできました。

で、今回は、せっかくバギオにお住まいの知人からいただいたこの本が
手元にありますので、小乗仏教を飛び越えて、「ブッダのことば」で
その原点まで遡ってみたいと思います。

またまた、なが~~い道のりになりそうです。

   

   

   

   

  

   

   

   

   

   

   

        

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2012年2月15日 (水)

松原泰道著 「般若心経入門」 3回目ー タイトルの意味がこんなに違う

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

ーーー

そもそも、この経典「般若心経」あるいは「摩訶般若波羅蜜多心経」というのは
このタイトル、経典の名称そのものが どういう意味なのか様々な議論がある
みたいなんです。

まず、赤コーナー、この松原泰道氏の本ではどう解釈しているかっていいますと:

ー 「誰もが、いつ、どこでも持つ超越的実在の深い理性のこころ」の経典。

  摩訶=超越的実在=すべての存在の原典である空のかたち
  般若=プラジュニャー=パンニャー=知恵=深い意味での理性=般若は仏母
  波羅蜜多=パーラミター=完成
  心=この「心」は感情ではなく、感情の下の深い層の、私のいう「こころ」
    であることも確実です。 人間本心の「こころ」。
    「何ものにもとらわれないこころ」こそ「空」、という観点にたったもの。

ー 本来「ほとけ」とは、世間でいうような死人とか仏像ではなく、
  「真実の人間性」のことなのです。 ゆえに、自分の中にわけ入って
  真実の人間性を開発するのが「般若心経」のこころといえます。

次に、青コーナー、宮坂宥洪氏によりますと:

ー 「般若波羅蜜多という名称のマントラ」の経典
  原典では、「般若波羅蜜多心」
       (プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ)だけがタイトル。
  摩訶や経は後付けの言葉。
  般若=プラジュニャー=智慧=仏の知恵
  波羅蜜多=パーラミター=完成(到彼岸)
  般若波羅蜜多=智慧という完成。智慧の完成ではない。
         完成された状態であって、完成を目標とするものではない。
  心=フリダヤ=マントラ=真言(祈りの言葉)

松原氏の臨済宗では、「般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典」という
ことでしたから、この解釈は自然と言えるのでしょう。

宮坂氏は、心=マントラとした理由について、以下のようなコメントをしています。
  現代の般若心経の解説書の中では最も評価の高い中村元・紀野一義訳注
  「般若心経・金剛般若経」では、・・・「心」の後に括弧で「真言」と
  言い換えているのは、まったく正しい理解にもとづいています。

又、次のようにも書いています。
  玄奘以前に羅什が、この経典を「摩訶般若波羅蜜大明経」と、
  誤解の生まれようもない題名で訳出していたのを、玄奘が「摩訶般若波羅蜜多
  心経」という題名にしたため、古来、この「心」の意味をめぐって
  さまざまな解釈が生まれ、・・・

つまり、羅什の訳を皆が見ていたらこんな騒動にはならなかった、というわけです。

サンスクリットをどう漢語に訳したかによって、それを中国から受け取った
日本は 大きな誤解のまま 今に到っているということになります。

しかし、その一方では、その誤解のお陰で、般若心経は中国でも日本でも大ブームに
なった、と言えるのかもしれません。

 

 

 

 

    

   

   

   

   

   

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2012年2月13日 (月)

松原泰道著 「般若心経入門」 VS 宮坂宥洪 1回目

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

この本は、松原泰道著 「般若心経入門」で、副題に、
ー 276文字が語る人生の知恵 - って書いてあるんです。

まず、この副題が宮坂宥洪氏にとっては「大間違い」みたいなんです。
宮坂宥洪氏は、般若心経はどんな人生訓も処世訓も書いてはいない、
って言っているんですねえ。

この本を一回読んだ感想なんですけど、この本は「般若心経」の入門書と
言うよりも、松原泰道氏の人生訓・処世訓がほとんどで、般若心経は
それを説く為の材料のような感じです。
いろんな著名人のいろんな言葉が例示されていて、そのすべてを
般若心経に結び付けて意義付けをしています。
般若心経の解説書とは思わない方がいいと思います。

一方、宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」は、まさに、般若心経の原典を
詳細に検討し、歴史的背景を踏まえながらアカデミックなアプローチで
解説しているといった雰囲気です。
かなりの過激派ですけどね。 他の著作に喧嘩売っているし・・・(笑)

私はちょっと失敗したかな、なんて思っているんです。
最初に宮坂宥洪著を読んだのは、「こだわり」が出来てしまって、
他の本を素直には読めなくなったようなんです。

おそらく、この本、松原泰道著の方が世の中では一般的なんではないかと
思うんです。 人生訓を垂れるのがね・・・

で、この松原泰道さんなんですけど、

1907年生まれ、早稲田大学卒業後、岐阜県の瑞龍寺で修行、臨済宗妙心寺派
教学部長を経て、宗派を超えた仏教者の集い「南無の会」会長。
この本は30年間で110万人に読まれているベストセラー。

・・・なんだそうです。

そして、この本も、有名な薬師寺官長である高田好胤氏や、石原慎太郎氏の
推薦を受けて出版したのだそうで、
これだけで、多分、メジャーな「般若心経」理解の本なんでしょうね。

ところで、一方の宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」なんですけど、
その「あとがき」に 以下のような事が述べてあります。

サンスクリットの原意にさかのぼっての、それこそ重箱の隅をほじくるような
徹底した語句の解明なくして何が分かるというのでしょう。
皮相な読み方や誤読や曲解を避けるためには、学問的定説となっている
従来の用語解説に対しても再検討が必要であり、本書では結局、
そのことごとくを見直すことになりました。
高名な学者や僧侶の方々のご高説も基本的な理解が不十分では台無しです。

と宣戦布告をしているんです。 すごいバトルですなあ。

という事を踏まえて、次回からぼちぼち 読み比べをやってみたいと
思います。

ちなみに、前回の感想文を思い出したいかたは、こちらへどうぞ。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-e49a.html

私自身も振り返りながら書いていきたいと思っています。

    

   

   

   

   

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これが あの 松原泰道著 「般若心経入門」 です・・・・?

「般若心経」については、いろいろ、本当にいろいろ あるんです。

今回は、これを読んでいます。 飽きもせず・・・・・

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松原泰道著 「般若心経入門」 

276文字が語る人生の知恵

祥伝社黄金文庫

  

    

この本の裏表紙には、石原慎太郎氏が

「仏が口うつしに与える一鉢の水」 と推薦文を書いています。

   

   

・・・・で、なんで 「あの・・・・」 とタイトルに書いたのかと言いますと、

以前読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」で こんなことが書いてあったんです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-87b5.html

   

      

ここで、著者は「不生不滅」の意味について、一般にかなり誤解されている
のではないかとして、以下のように言っています。

ー 「広辞苑」で「不生不滅」は「生じもせず滅しもせず常住であること」と
  説明されている。 仏教用語としては間違っていないが、「般若心経」では
  そういう意味では使われていない。
  
ー ある解説書には、「初めも終わりもないということで、永久とか永遠な
  ものをさしている」(松原泰道著「般若心経入門」)とあるが、
  これはデタラメもいいところだ。
  それは「般若心経」が批判の対象としているアビダルマ論師の見解そのもの
  である。

つまり、観自在菩薩が伝授しているのは、そうした永遠のものはない
ダルマは実在しない、ということを説いているのだから、
生ずることも滅することもないということなんですね。

    

    

・・・・ ってことでですね、 公道で喧嘩しているんですね。

だからってこともないんですけど、ちょっと その喧嘩を見物してみようかなって・・・・

ちょっと趣味が悪いんですけど、比較しながら読んでいこうと 思っています。

ただ、今週一週間はいろいろと立て込んでいるんで、ゆっくり読みますね。

よろしく、お願いします。

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

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