カテゴリー「経済・政治・国際」の記事

2016年11月25日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 95 終焉に向かうスペイン支配と改革

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3976_15



 

 

「第十五章  スペインによる統治の黄昏」

 

 

 

p203

 

19世紀は、フィリピンのみならず、スペインの海外の植民地

でも、スペイン統治の黄昏であったと特色づけられる。

Siglo de Oro(16世紀)には、スペインは世界の女王であった。

―― 地球規模の権力を持ち、その世界に拡大された領土は

「太陽の沈まぬ」ものとされた。

・・・・時の風とともに、スペインの征服者としての勇敢な

精神、伝道へのローマ教皇の熱意、そして、文明教化の輝かしさ

は、去っていった。

 

スペインの退廃は、スペインの政治的混沌と、経済的停滞

反映され、また、植民地の官吏社会での汚職と国民の幻滅

ともなった。

 

 

「スペインにおける政治的混沌」

 

19世紀は、スペインの歴史において、政治が荒れ狂った

世紀であった。 断続的に大臣達の入れ替わりがあり、

憲法が頻繁に変更された。

 

・・・・スペインでの政治の混乱は、フィリピンの政治的

及び社会経済的状況にも影響した。

いかなるマドリッド政治の大変動も、植民地政策に新しい

動向をもたらし、そして新しい総督とより多くの

求職者がマニラに到着した。

 

1835年から1879年までに、フィリピンは50人の

総督に統治され、それぞれの任期は平均で1年3カ月であった。

 

・・・不安定な任期のため、総督は管理の永続的な計画を

実施することは出来なかった。

 

 

p203

「スペイン議会におけるフィリピン代表」

 

スペインに公平であるために、特筆すべきことがある。

スペインは19世紀に、ある再編成を導入することによって、

フィリピンにおける植民地制度を改善しようとしたことである。

 

p204

その再編成のひとつが、スペイン議会におけるフィリピン

代表の容認であった。・・・・

 

最初の代表の期間中は、フィリピンからスペイン議会への

最初の代表は、Ventura de los Reyesであった。

彼は、南イロコス州ビガン生まれの混血で、マニラで

裕福で有名な商人となっていた。・・・・・

 

不運なことに、スペインは1837年6月18日に、

スペイン議会へのフィリピン代表を廃止し、それ以降は

特別法によってフィリピンは統治されることになった。

このフィリピン代表への抑圧に、フィリピンの人々は

憤慨した。 その復旧が、プロパガンダ活動で主張された

決定的な改革策のひとつであった。 そして、その

プロパガンダ活動は、M.H. del Pilar、 Graciano Lopez

Jaenaホセ リサール、その他のフィリピン人愛国者たち

によって開始された。

 

 

p204

「総督に対するふたつの審議会の発足」

 

スペイン人総督を、フィリピンを管理する場面で支えるために

ふたつの助言を与える機関が創設された。

 

 

p205

「司法制度の変更」

 

1584年に王立大審問院(最高裁判所)が創設されて以来、

総督がその裁判長(主席判事)であった。

1861年にその王立大審問院の構成が変更された。

――総督は最高裁から外されたのである。・・・・

 

マニラの王立大審問院の下に、1893年、ふたつの地域の

審問院が創設された。 セブとビガンの地方審問院である。

 

 

「スペイン法のフィリピンへの拡大」

 

有名なLeyes de Indias 及び 国王令の他に、

多くのスペインの法律がフィリピンにも拡大適用された。

 

 

「1884年の税法改正」

 

スペインが19世紀に導入した良い改変のひとつは、

1884年3月6日の国王令で与えられた、税法改正である。

この税法改正には二つの重要な条項が含まれていた:

(1)憎まれている年貢の廃止と、cedula tax証明書税

への変更。

(2)40日の強制労働の15日への短縮

 

=== ここで、cedula taxというのは、

 Community tax certificateと言うもののようですので、

    住民税ではないかと思われます。

    この証明書が身分証明書のように使われるようです。

 

Cedula tax(証明書税)は、フィリピンの全ての住民に

課税されました。 ―― 地元民、スペイン人、そして両性

(男と女)の18才以上の外国人に適用。

中国人は、別の種類の人頭税の支払いを要求されたので、

この税金は非課税とされた。

 

p206

 

このcedula taxには、16の段階があって、その経済状況

によって、男女ともに支払わなくてはいけなかった。

最下位の貧困層は無税で、一番高い富裕層は37.50ペソ

であった。

 

 

「地方政府の改革」

 

フィリピンでのスペイン統治が作りあげられて以来、

地方の州はスペイン人の alcaldes mayorsとよばれる知事

によって支配され、この知事は行政および司法の権力をもち、

さらに交易に携わる特別な特権も欲しいままにしていた。

この知事はほとんどが素人であり、法律の知識はなく

総督の友人、親戚あるいは仲間たちであった。

彼らは、従って、地方の知事としての能力がなく、悪いことには

汚職にまみれていた。 彼らは、自分たちの私服を肥やすために

交易の特別な権限を乱用していた。

 

1844年9月23日、女王イサベラ二世は、資格のある

法律家だけが知事に指名されなければならないという

国王令を発布した。それはさらに、alcaldias治安判事市長(知事)は

3つの職級にするという条項もあった。

・・・・

 

それに続いて、同女王は、1844年10月3日の国王令で、

すべての知事が行なっていた交易の特権を廃止した。

 

 

「地方自治体の改革」

 

1847年までは、町の市長?及び他の地元の職員・・・・・

の選出の方法は、良い政府の条例というもので規制されて

いた。

 

1847年10月5日の国王令、あるいは1847年市町村

選挙法と呼ばれたものは、町の職員の選出方法を変更した。

 

 

p207

 

この法律は一般には「1893年のMaura」と呼ばれた・・

・・・それは、フィリピンの地方自治体の著しい改革であった。

 

この法律の下、新しい市町村政府が、1894年1月1日に

開始された。 しかし、残念なことに、それはもう既に

遅かった。 フィリピンはその時 革命が起ろうとしていた

からである。

 

 

・・・・

 

それでは、この続きは 96号で お願します。

 

 

 

 

 

 

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2016年11月23日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 89  トンドの陰謀 日本との同盟?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3312

 

「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

p181

 

「トンドの陰謀 1587-88年」

 

=== トンドと言えばフィリピンの中でも治安が悪いとか

汚いなどと不名誉なことで有名な場所ですが、

    ちょっとどんなところなのか、こちらで復習:

    (かなり由緒正しい、歴史のある町なんです)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%89

                   

 

卓越したフィリピン人によって、スペイン統治を転覆し、

失われた自由を取り戻そうという初めての陰謀は、1587-1588年

の有名なトンドの陰謀である。 それはボニファシオのカティプナン

の革命的構想の先がけとして認識されるかもしれないし、さらに

1892-1896年にトンドで再度発生している。

 

この自由主義運動の指導者は、Lakan Dula の甥であり、ブルネイの

スルタン(イスラム君主)の義理の息子であった Augustin de Legazpi

であった。 1578年の初期に、彼は、・・・・などに対して、

武装蜂起によって先祖が謳歌した失われた自由を取り戻す

秘密の計画を打ち明けた。

 

 

p182

陰謀に参加した日本人のキリスト教徒、Dionisio Fernandez, を通じて、

Augustin de Legazpiと彼の共謀者は、定期的にマニラで交易を

していた日本人の商船の船長 Juan Gayoに接触した。

秘密の合意が結ばれた。 それはGayo船長が武器と日本人兵士

フィリピン人愛国者を助けるために提供し、Augustin de Legazpi

フィリピン王国の国王として認めるということであった。

そのような支援の引き換えに、彼と彼の日本人兵士たちは

フィリピンで集められる年貢の半分を与えられるというものだった。

 

=== じぇじぇじぇじぇ・・・・

    なんと、日本人とは思えない名前の日本人が

    このスペイン支配を転覆する陰謀に加担していたとは!!

    この日本人、Juan Gayo と Dionisio Fernandez とは

    一体ぜんたい何者で日本名はなんでしょうか?

 

こちらのサイトにこんなことが書かれていました:

https://en.wikipedia.org/wiki/Conspiracy_of_the_Maharlikas

 

日本及びブルネイとの同盟

 

Allies from Japan and Brunei

The mestizo, Augustín de Legazpi and a group of conspiring Rajahs had contacted the Japanese captain, Juan Gayo, through a Japanese Christian interpreter, Dionisio Fernández, who had also joined the conspiracy. A secret meeting ended with an agreement in which Gayo would supply arms and warriors to help in the rebellion and recognize De Legazpi as king of the entire Philippines. In return, Gayo and his men would receive half of the tribute to be collected from the Philippines. A significant group of merchants known only as the "Sakai Merchants", with their leader Luzon Sukezaemon, had also been known to conspirate with the royal families against Spanish rule.

=== なんとなんと、英文サイトには、堺商人の呂宋 助左衛門

(るそん すけざえもん)とあるじゃあないですか。

 

 じゃあ、こっちのサイトもチェック:

 「本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。

堺の貿易商・納屋才助の子。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%AE%8B%E5%8A%A9%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80

 

 

日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったともいう]。慶長12年(1607)、スペインカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。」

=== 日本語サイトでは、フィリピンのこの「トンドの陰謀」に

    関与したという記事は見つかりませんが、フィリピン側

    にはもしかしたらもっと詳しいものがあるかもしれない

    ですね。

    しかし、昔から日本はいろんな形で、フィリピンとの

    「軍事同盟」をやっていたんですねえ・・・

 

p182

・・・・1588年10月26日、彼は、マニラに急行し、

Santiago  de  Vera総督にスペイン統治に反抗する陰謀が 

あることを通報した

 

この恐ろしい陰謀のニュースに警鐘を鳴らされ、

15か月も知らなかったスペイン当局は、ただちに

革命計画に関与したすべての人物を逮捕するよう命じた。

その中には、日本人通訳 Dionisio Fernandezも含まれて

いた。

 

p183

 

失敗した自由への反乱の二人の指導者Augusttin  de Legazpi

およびMartin Panganは、残忍にも絞首刑となった。

 

日本人通訳でありAugustin de Legazpiの友人でもあった

Dionisio Fernandezは絞首刑となり財産は没収された。

 

・・・・Dionisio Capolo(Kapulong)は、Candaba(パンパンガ)

の族長であったが、彼の町から追放され、重い罰金を課された。

総督Santiago  de  Veraは彼を赦免した。 その後、彼は

スペインに協調し、1591年と1594年のイゴロットの 

地域へのスペイン派遣軍のガイド及び通訳として働いた。

 

最後に、「トンドの陰謀」の指導的メンバーであった5名は、

メキシコの追放された。・・・・

彼らは、メキシコに定住した最初のフィリピン人となった。

 

===  おお、日本人の通訳さんは、絞首刑にされちゃいまし

     たか。

     しかし、二人の日本人の日本名が分からないってのも

     寂しいですねえ。

     日本人兵士ってことは、侍がいたってことですよね。

     ルソン助左衛門の船に乗っていた侍がいたんでしょ

     うか。

     織田信長や豊臣秀吉の時代だから・・・

 

 

 

こちらのサイトにもっと詳しい研究論文がありました:

http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/bitstream/iyokan/1542/1/AN10579404_2012_32_05.pdf

 

(こちらでも、日本名は分かりませんが、長崎県平戸との関係が書いてあります。)

 

日本船の船主は、肥前平戸

の松浦鎮信(15491614年)の下にあった日本人キリシタンのジョアン・ガ

ヨであり、日本のイエズス会からマニラの上長アントニオ・セデーニョに宛

てた書簡を携え、また貿易関係の確立を希求した。ガブリエルと名乗る日本

人も乗船し、航海中にガブリエルの感化を受けた日本人8名は、

マニラにおいてサラサール司教により受洗し、ベラ総督を初めとしてスペイン人高官が洗礼親になった。ガヨはベラ総督に対して中国や周辺諸地域への遠征に必要とあれ6,000名の傭兵を提供できる用意があると申し出たが、ベラ総督は、中国征服に意欲を燃やした前任のサンデ総督やロンキリョ総督とは異なって、フィリピン統治の充実を優先し中国人商人との友好関係を重視していたBR 6: 308310)。ガヨはマニラで失意の日々を過ごしたが、間もなく、日本人のディオニシオ・フェルナンデスの仲介によりスライマンの甥かつ養子のアグスティン・デ・レガスピを知ったのである。」 

 

こちらのサイトでは、さらにジュアン(ファン)ガヨが 

吉近はるたさと同一人物ではなかったかとの記事もあります。

http://proto.harisen.jp/hito1/fan_gayo.html

 

「1587年のこの謀議の時点ですでにガヨは、日本から輸送していた武器をイスラム系原住民勢力に供与し、協力の印とした。実際、別の史料には1587年に大勢の日本人と商品を乗せてマニラに到着したガヨ船長の船が記録されている。またガヨと同時期にマニラを訪れていた吉近はるたさの船が武器を搭載していたという記録もある。

 

 計画は1588年十月に発覚し、スペイン側によって未然に防がれたが、発覚数日前には日本からの武器や火縄銃を供与されたボルネオ勢力がマニラ湾に迫っていたという。

 

吉近はるたさ:平戸の松浦氏の家臣。商船と渡航団を率いて平戸とマニラを往復した。」

 

 

==== 我が故郷 長崎県の平戸の話なんで、ぐっと身近に感じます。

 

・・・・・・・・

 

では、次回 90号 をお楽しみに。

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月14日 (月)

日本語との関係? 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その12

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・

一旦 「あとがき」までで終わったんですが、
日下公人氏の「解説」にヒントになる言葉なんぞが
あったので、 その12 として追加します。

Img_3357

p236

日本では一神教的思想に由来する各種の概念が
いかに好い加減に用いられているかの立証に筆を
進められる。 
たとえば個人主義、たとえば合理主義、例えば原理・原則
たとえば科学的証明、たとえば論理的考証などの用語が
日本ではいかにもそれらしく用いられながら、最後のところ
では日本化されて本来の切れ味を失っている状況が
克明に語られる。

=== 私も以前から 日本の民主主義というのが
    なんとなく日本人の体形に合わない服みたいな
    感じをもっていたんです。
    それは、おそらく民主主義や自由主義というのを
    理解しているつもりになっているだけで、
    実際のところは根本のところで何かが違う
    という程度の浅い考えなんですが・・
    この本を読んでみると、キリスト教という
    一神教の思想に根差した個人と神との契約と
    言われるような個人主義の考え方が分かるような
    気がします。
    
    「空気の研究」では、日本の場合は汎神論的な、
    おそらくは八百万の神・自然崇拝的信仰に根ざした
    臨在感に基づく絶対的把握によって、その対象に
    感情移入をして、空気が醸成され、それに支配され
    るから事実が見えなくなり、仲間内での隠し合い
    が行なわれ、事実を見てそれを口に出す いわゆる
    KY君は村八分にされてしまう 集団主義の社会
    だと言っているように思います。
    そして、そこからは科学的合理性なども排除される
    という結果になってしまうと。

    一神教の場合、厳格な派では、偶像崇拝を禁止
    していて、死にも値するような厳しいことにも
    なるようですが、日本の場合は 仏像に代表
    されるような習慣もありますしね。
    おまけに八百万の神々だから偶像崇拝は気楽に
    やっているってことでしょう。
    ちなみに、お釈迦さんも偶像崇拝をするなと
    言ったそうで、仏像も作らなかったそうですから、
    仏教とは言っても お釈迦さんの時代からは
    かなり変遷があって、日本的解釈になってからは
    さらに別物になったんでしょう。

歴史は繰り返されるのであって、戦中戦前の日本人の
思想様式や行動様式が今も変わっていないことが・・・

大正族や昭和ヒトケタ族には その伸縮しない物差しの
重要性と必要性はよく分かるのである。
その世代は理由がよく分からない戦争に捲き込まれて、
ひどい苦労をさせられたからである。

=== この部分は 非常に恐ろしい話で、
    私は戦後生まれですが、原発事故と放射能の
    問題や、立憲主義をなし崩しにされている政治的
    情況を考えると、この本は33年前に書かれたとは
    言え、益々その傾向が加速しているような感覚を
    覚えます。

    ただ、この本では、戦後の憲法が絶対化された為に
    欧米の考え方とは違って、憲法改正は一切まかり
    ならんという雰囲気にも言及しています。
    私個人は、憲法改正には原則賛成ですが、
    自民党が進める内容には疑問があるので、野党が
    理想とする、立憲主義を確保するための改正が
    あってしかるべきと考えているんですけどねえ。
    今までにも十分に、野党の責任もあって、なし崩し
    にしてきましたから。
    反対、反対ばっかりじゃあ、何に反対してんのか
    さえ分かりません。
    自分が政権を担うという前提での改正をやって
    もらいたい。

p237

それは「空気」の力が原因だったと教えてくれる。
水を差しても無効な程の「空気」の力が開戦の原因で、
同じことは今も繰り返されていると教えてくれるので
恐怖を感じるほどの迫力がある。

さらに本書は ユダヤ人は紀元前からそうした「空気」
の存在を自覚していて、その克服手段を種々工夫を
凝らしていたとも教えてくれる。

=== 「空気に支配される」ということは、いわば
    洗脳されるということなんだろうと思うんですが、
    それに関して 下のリンクのような記事が
    ありました。

【コラム】洗脳されやすいのはどんな人
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/11/11/2016111101576.html?ent_rank_news

「なぜこういう行動を取るのか。それは、他人に頼らな
ければ自分は生きていけないと信じているからだ。ひとたび
依存し始めると、その人がいなくては駄目だという思いに
とらわれる。自分を過小評価し、実際には能力や魅力に優れ
ていても、独りでは生きていけないと信じるようになる。
さらに、重要な決定を自分で下すことができず、依存する人に
任せてしまう。困難なことが起こると、すぐにその人のところ
へ行って相談し、その人がさせる通りに行動する」

「同書の契機となったのは狂信的なオウム真理教の教祖・
麻原彰晃の存在ですが、・・・」

自尊心。自慢と誤解してはいけませんよ。洗脳や暗示に
あまりかからない人の、第一の条件です。」

=== つまりは、主体的な生き方が出来ているかどうかが
    自尊心という言葉になっていると思いますが。
    この点から判断すれば、
    「空気の研究」の中で 「江戸時代のサムライは
    「空気に呑まれることを恥としていた」という
    部分と繋がるように思います。
    
    
==== さて、ここで、話は飛ぶんですが、
     そもそも私が この「空気の研究」という本を
     読みだしてから考えていたのは、
     日本語教師として この「空気」と「日本語」
     間には何か関係があるのだろうかという
     ひとつの些細な関連付けの可能性です。

・・・と言うのは、過去にいろいろ日本語関係で読んだ
本の中に、日本語は「外交に向かない」とか、
バイリンガルは 「日本語で考える時と、英語で考える時
とでは性格が変わる」とか、そういう言語学的な影響が
隠れているのではないかとの疑問があったからです。

そこで、たまたま最近日本に一時帰国した時に持ってきた
下記の本に、「主体的」という観点と、「日本語のプロ」
という観点から 国語学で有名な 大野晋の人となりを
描いた「国語学者 大野晋の生涯 - 孤高」
次に読んでいこうと思います。

・・・・・

では、又、改めて お付き合いください。

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2016年8月 9日 (火)

沖縄からのバギオ・ベンゲット移民は どうなったのか

先日 沖縄からのお客様がバギオ市にいらっしゃいまして、
沖縄からフィリピンに渡った移民のことを 色々と教えていただきました。

その話の中で、沖縄からの移民も 当初はバギオを切り開く為に
建設されたケノン・ロード(当時はベンゲット道路)の建設に
携わったことを聞きました。

そして、その道路工事で亡くなった沖縄の人たちの慰霊碑
ケノン・ロードの ライオン・ヘッドの少し下の道路脇にあって
今でも数年に一度は慰霊団の皆さんが沖縄からいらっしゃるのだそうです。

キャンプ3にある 鹿児島歩兵71連隊の慰霊碑の黒光りする
大きな石柱とは異なり、沖縄式の屋根と柱のある慰霊碑だそうです。

私は バギオ市に住んで11年目なんですが、この話は初耳でした

 

・・・ところが、さらに・・・

沖縄からフィリピン・バギオへの移民。
この移民の話は 現在の北ルソン比日基金(アボン)が移民100周年に制作した
「Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highland」
の本には掲載されていません。

Img_6713

なぜバギオの日系人の記念誌に沖縄からの移民のことが
記録されていないのか・・・不思議に思い検索してみました。

沖縄県の歴史学習 「海外移民
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~yamauchi/08-fuzoku02.pdf

沖縄フィリピン協会 会長の話:

「フィリピンへの沖縄移移民第1号は1904年(明治37年)、
ルソン島中部の高原都市バギオと低地を結ぶベンゲット道路の建設工事に雇われ、
バシー海峡を渡った出稼ぎ労働者360人。翌年道路の完成にともない、
移民らは新天地を求めてミンダナオ島のダバオへ流れ、マニラ麻栽培の開拓に乗り出す。
言葉や習慣の違いよる現地人との衝突、マラリア風土病などに戦いながらの開墾であった。」

「麻栽培の全盛期には年間2千人の県人移民がダバオへやってきた。
当時日系人は約3万人いた。その7割が沖縄県出身者だった。」

「特にフィリピンに関しては「宜野座村史」が充実している。」

・・・確かに、話に聞いたとおり、ベンゲット道路建設の為に 
沖縄から360人の労働者がやってきたと書いてあります。
そして、その後 ミンダナオへ渡った。

それにしても、上記の記念誌に一言もふれてないのは何故なのか・・・

こちらのサイトに こんな記事がありました:

琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著
http://kousyou.cc/archives/11106

バギオへの1900年代初頭の日本人移民の記録の中に
沖縄からの「ベンゲット移民」の記録がないのは
この辺りに理由がありそうです・・・

「本書で紹介される1944年の部外秘とされた米国海軍省資料の記述が興味深い。


『日本人と琉球人(沖縄人)とのあいだの、たいへん近い民族的関係や、
言語の類似性にもかかわらず、琉球人は日本人からは民族的に平等だとは
みなされていない
。日本人は、琉球人たち特有の粗野なふるまいから、
かれらを、いわば田舎から出てきた貧乏な親戚みたいなものだと見下し、
いろんなところでかれらを差別してきた。ところが一方、琉球人の方は、
自分たちが劣っているとは全然感じておらず、自分たち自身の伝統や、
中国との長期にわたる文化的紐帯に誇りをもっている。そのため、
このような琉球人と日本人との間の動かしがたい関係は、潜在的に
不和の種をはらんでおり、そこから政争の具とするものをつくりだすことが
できるかもしれない
。ほとんどたしかなことは、この琉球においては、
軍国主義や狂信的な愛国心は、たとえあったとしても、それは大きくなる
とはとても思えないことである。』(鳥越P159)」

・・・・ これだけの記録では、実際に当時の様子は推し量ることは
できませんが、沖縄とアメリカの当時の関係、沖縄と日本の関係が
影響しているようです。

当時の沖縄は やっと日本による統治が始まったころですので、
同国人としての意識が まだなかったのかもしれません。

では、当時の記録では、この360人の沖縄からの移民は
どこで どのように 記録されているんでしょうか・・・

ちなみに、英語のサイトを読んでみると、

Kennon Road
https://en.wikipedia.org/wiki/Kennon_Road

The project was begun in 1903 and opened for travel on January 29,
1905. It was originally called the Benguet Road and later renamed
in honor of its builder, Col. Lyman Walter Vere Kennon of the
U.S. Army Corps of Engineers.

The construction of the road commenced in 1903 by cutting across
the mountains of Benguet with the combined efforts of Filipinos,
Americans, Filipino-Chinese and Japanese nationals.

ここには、大雑把に フィリピン人、アメリカ人、中国系フィリピン人、
そして日本人が関わったとされています。

More than 2,300 foreign and local workers worked on the road.
Aside from Filipino engineers and construction workers and U.S.
Army Corps of Engineers headed by Col. Lyman Kennon, foreigners
from 36 countries were recruited to work on the road; the
majority, about 1,500, were Japanese.

海外からの労働者を含む 2,300人が関与し、36カ国の労働者
働いたとあり、日本人が1,500人ほどだったと書いてあります。

研究者などのデータによって、数字はいろいろとありますが、
日本人が割合としても多かったことは間違いないようです。

こちらのサイトの文献には 沖縄からバギオへ渡った移民のことが
もうすこし詳しく書いてあります:

Johanna O. Zulueta
Living as Migrants in a Place That Was Once Home
The Nisei, the US US Bases, and Okinawan Society
http://philippinestudies.net/ojs/index.php/ps/article/viewFile/4000/4595

1903 Okinawans, along with Chinese and Japanese, migrated to the
Philippines to work on the construction of the Benguet Road
(now known as Kennon Road), the major thoroughfare leading to
Baguio City. Upon completion of the road, some Okinawans decided
to settle in Benguet,
while others moved to Manila and other provinces.
Most of them settled in Davao, which earned the moniker Dabaokuo,
owing to the significant population of Japanese and Okinawan
migrants in the province. During

・・・これを読むと、1903年に沖縄人が ベンゲット道路建設に
参加して、建設終了後に幾人かはベンゲット州に落ち着くことを決めた
とありますね。
ほとんどがミンダナオ島のダバオに定住したともあります。

Prejudice among Okinawans toward the locals, among the locals
toward Okinawans (ibid., 92–93), and among mainland Japanese
toward Okinawans was also prevalent. These Okinawans, at that
time, were called Otro Hapon (the other Japanese) (Yu-Jose 1999,
91; Ohno 2006a, 7; Ohno 2006b, 92–93).

・・・ ここでも、労働者の間での偏見のことが書かれていまして、
沖縄人の地元民への偏見、 地元民から沖縄人への偏見、
本土日本人から沖縄人への偏見も 一般的だったと書いてあります。

そこで 念のために バギオの日系人団体が出版した
本を もう一度見直しましたところ、一家族だけ 沖縄出身者が
見つかりました。

Img_6702a


Img_6709

大城昌康 シズエ 雑貨商

Img_6714a

・・と 一世の名簿にありました。

幾人かがベンゲット州に落ち着いたというのは事実だったようです。

・・・ですが、以前 バギオの日系人団体の役員の方に
「沖縄出身の日系人はいませんか」と尋ねたところ
御存じありませんでしたので、非常に少なかったのは間違いなさそうです。

さらに、このサイトの論文は続きます:

The prejudices between Okinawans and the mainland Japanese stem
from the fact that Okinawa was historically not part of the
country
now known as Japan but was part of a group of islands
formerly known as the Kingdom of the Ryukyus, with its own cultural
traditions and distinct languages. At present Okinawans, despite
their Japanese nationality, still experience discrimination for
being not truly Japanese, or being “a different kind of Japanese,”
due to perceived cultural and ethnolinguistic differences.

つまり、元々 沖縄は 歴史的に日本ではなく 琉球王国だったので
現在でも 国籍は日本だが 文化や伝統が異なるので「他の日本人」と
見られていると書いてあります。

おそらく、360人が沖縄から バギオの道路工事にやってきたけれど、
ほとんどが纏まってダバオへ行ったというのも この辺りの理由が
あったのかもしれません。

///////////////////////

ちょっと 時間をおいて またまた検索をしてみたところ
下のサイトに さらに興味深いことが書いてありました:

「ダパオ国」の沖縄人社会再考
本土日本人,フィリピン人との関係を中心にー
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/123456789/6447/1/No2p001.pdf

「しかし,これらの研究は,Kaneshiroなどを除けば,邦人移民社会を
単一のエスニック集団であるとの前提
で議論し,日本本土出身者(以後, 「本土日本人」と表記) と沖縄県出身者
(以後,「沖縄人」と表記)の関係や両者の間にあったサブエスニックな溝
についてほとんど触れていない」

「ダパオに定住する最初の邦人移民のコア集団は,いわゆる「ベンゲット移民
である。ベンゲット移民とは,バギオというルソン島中部の高原の避暑地
(夏の首都)に通じる「ベンゲット道路」工事のために導入された日本人建設労働者
のことで,1903年から道路が完成する1905年初めまでの間,一説には延べ約2,800人
が工事に従事した(東亜経済調査局1936:212)。この中心は,沖縄人と九州人だった
(米田1939:31)。沖縄からのベンゲット移民は,本土日本人移民より1年遅れの
1904年4月に現地入りした。『琉球史料』によると,この年,計360人の
沖縄人がベンゲット移民としてルソン島に渡航した(金武町史編さん委員会1996a:265)。」

・・・ なるほど・・ベンゲット道路に関わったのは 主に沖縄と九州から
の出稼ぎ者だったんですね。
しかし、沖縄人は1年遅れで入っている。

「ここで重要な役割を果たしたのが,沖縄で「海外移民の父」と言われる
常山久三と「フィリピン開拓の父」と言われる大城孝蔵である」

・・・関係があるのかどうか分かりませんが、「大城」という名字ですね。
上記の 雑貨商の大城さんとどういう関係でしょうか。

「,大城はベンゲットへの先遣人になり,300人以上の沖縄人労働者の「監督
として工事現場に赴任した(金武町史編さん委員会1996a:562)。ベンゲット
道路は1905年1月に完工しているから,沖縄人移民は9カ月間しか工事に従事
しなかったことになる」

「道路完成とともに,ベンゲット移民の多くは日本に帰国したが,百人単位
の労働者がそのままフィリピンに居残った。その主な理由は,帰国したくて
もそれだけの所持金がなかったからのようだ」

・・・そして、ダバオへ移動した・・・

「。バギオ周辺には最盛期,千人余りの日本人が居住していた。このうち
沖縄出身者は極めて少数だったようである3)。バギオ市には現在,
二世と三世を中心とする日系人団体「北ルソン比日友好協会」があるが,
戦前の沖縄移民を祖先に持つ日系人の会員はいない

「多民族・多言語の中で生きる地元住民からみれば,在留邦人社会は2種類の
エスニック集団で構成されると理解された。本土日本人と沖縄人である」

「。その点において,Codyの論文は光る。彼女は,ダパオの在留邦人を
非沖縄人」(本土日本人のこと) と「沖縄人」に分け,非沖縄人は知的
職業人,会社幹部,事務職,技術者が多かったのに対して,沖縄人は
「より頑丈な体格で,ひげや体毛が濃く,勇敢,機知に富み,優秀な労働者」
「無教育で,言葉も行動も粗野」という傾向があったという。そして,
本土日本人は,自分たちが沖縄人より優越だと考え,キリスト教徒
のフィリピン人が非キリスト教徒の先住民を差別したのと同じように
沖縄人を差別した,と指摘している(Cody1959:174)。」

・・・ これで どうやら バギオ市の北ルソン比日基金の
日系人団体に沖縄の人たちがごく少なかったことが分かりました。

上記の雑貨商の一世の大城さんですが、
JAPANESE PIONEERの本で 2世、3世の名簿を探しても
大城さんの名前は出てきませんから、その後ダバオへ移ったか、
あるいは子供がいなかったか・・・はたまた日本へ帰ったか・・・

・・・と言うことで、ケノン・ロードに沖縄出身の道路工事犠牲者の
慰霊碑がありながら、バギオの日系人の人たちや、私を含む在バギオの
日本人はこのことを知らなかったということになります。

======= おわり ===

 

 

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2016年1月21日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 84 英国による侵略・ヨーロッパの七年戦争

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

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さて、日本との関係は一旦終わりまして、

今日からは英国との関係に入ります。

31章まである この教科書の、やっと13章なんです。

先が思いやられます。

まともに全部翻訳をすると、ヨーロッパの歴史みたいに

なっちゃいそうなので、フィリピンに関係の深いところだけ

つまみ食いします。

 

 

13 THE BRITISH INVATION

「第十三章 英国による侵略」

 

 

p171

 

スペインによる征服の後にやってきた最初の成功した外国

による侵略は英国によるもので、1762年から1764

まで、英国のマニラ占領という結果になった。

マニラの外では、英国は前進できなかった。

それは、闘う法律家である Simon de Andaが、

愛国的聖職者や忠誠を誓うフィリピン人達の支援を得て、

英雄的な抵抗によって、地方におけるスペイン体制を

維持したからである。

 

=== 英国もフィリピンを狙って、占領したっていうのは

    日本の世界史の授業じゃあ、勉強することもない

    でしょうね。

    フィリピンは、スペイン、英国、アメリカ、日本と

    次々に侵略を受けてきた国なんですねえ。

    その間、日本は鎖国を謳歌していた。

 

 

「英国による初期のフィリピン植民地化計画」

 

 

1762年の英国による侵略よりもずっと前に、フィリピンが

東洋の中において戦略的な地理的位置にあり、天然資源が豊富

であるという理由で、フィリピンを植民地化するという 

ある英国の帝国建設者たちの計画があったということを記する

ことは興味深いことである。

それは、例えば、帝国主義の熱心な主唱者であり英国の東インド会社

のエージェントであったAlexander Dalrymple(1737-1808年)

の壮大な妄想である。

 

アレクサンダー・ダリンプルについては、こちらのサイトで:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB

 

1779年から東インド会社のために水路学者として働き、多くの水路図を作成し、後にイギリス海軍最初の水路学者となった。」

 

 

p171

彼が東南アジアの海を調査の船旅をして、1759年にマニラを

訪問した後、彼は友人の東インド会社のマドラス評議会の長官に

有望な中国交易における拠点として、スールーのイスラム教

君主国に足場を獲得することの必要性を提案した。

その後、彼は「南フィリピンの征服の為の遠征隊計画」を

著し、英国政府に送っている。

 

 

(中略)

 

p171

 

「スペインと英国の戦争の勃発」

 

18世紀における世界植民地化のふたつの伝統的ライバル

であるスペインと英国が、荒れ狂うヨーロッパでの

七年戦争に突入した。

 

(中略)

 

p172

 

フランスの敵である国王ジョージ三世は、1762年1月

2日に、スペインに対して宣戦布告し、アメリカと東洋

のスペインの植民地を攻撃するために、遠征軍を準備した。

 

七年戦争については、こちら:

http://www.y-history.net/appendix/wh1001-122.html

 

 

=== フィリピンは植民地であったために、

    ヨーロッパ列強の植民地争いに巻き込まれて

    いったわけですね。

    まあ、日本の、なんとも平和なことよ。

    平和ボケってのは、徳川時代からの日本人

    のDNAに刻まれた特徴なんでしょうかねえ。

    明治維新で大逆転しますけど・・・

 

 

=== シリーズ 85 に続きます ===

 

 

 

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2016年1月14日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 77  イントラムロス危うし、日本人も動員!

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

 

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

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p164

 

「最初の中国人の反乱(1603年)」

 

1603年5月23日、3名の中国人官吏がマニラに到着。

伝えられるところによれば、中国で、カビテにあると

噂されていたChinsan(金の山)を見に来たという。

スペイン人は、彼らの話を疑い、官吏が出発した後に

町の防御を固めた。

そのような戦争のような準備体制が、中国人居住者に

不安を抱かせ、中国人はスペイン人が虐殺をおこなうのでは

ないかとの恐怖を感じた。

スペインの統治をひっくり返そうという秘密の陰謀が

Parianの中で企てられた。 これは、裕福な中国人商人

EngKangの指導の下にあった。

 

 

=== 不安が恐怖を呼んで、やらなくても良い

    戦争になったということでしょうかねえ。

    ところで、Parianという中国人町の場所ですが、こちらにありました:

http://www.top-specials99.com/kol/ENGL/col06a-Christian-holocaust-Peru-Mexico-Philippines-mines+mission+terrorism.html

    このページの古地図をみると、イントラムロスの東に隣接ですね。

 

 

1603年10月3日のセント・フランシスの日の夜に、

中国人はストライキを実施して、彼らは、トンドとキアポ

攻撃し、建物に火を放ち、居住者を殺害した。

武装したスペイン人のグループがDon Luis Dasmarinas

(前総督)と TomasBravo de Acuna船長(総督Acunaの甥)

に率いられ、町から出港して、中国人反乱者の鎮圧に出た。

これらのスペイン人たちは、待ち伏せされ、ひとり残らず

全滅させられた。

 

=== Parianという中国人の居住地は、

    イントラムロスの城塞の外にあるっていうこと

    なんですが、船で鎮圧に行ったんですねえ。

    どういう地理関係なのか分かりませんが・・

 

 

初戦に勝ったのに勢いづいて、町の城塞を襲った

スペイン人修道士たちは、十字架や刀を持って闘って

いたが、血染めの白兵戦の中で、フィリピンースペイン防衛隊

に力づけられた。

その一人、修道士の Antonio Floresは、聖アウグスティヌス

修道院の平修道士であり、フランダース戦争では船長で

あったのだが、武勇をもって戦った。

日本人居住者は、フィリピン人とスペイン人と共に

勇敢に戦った。 中国人の攻撃は撃退された。

 

=== おお、日本人も一緒に戦ったんですね。

    と言うことは、日本人居住者はイントラムロスの

    中で生活していたってことになりますか。

    この当時は何人ぐらい住んでいたんでしょうか・・

 

 

町を奪うのに失敗し、反乱者たちはラグナのサン・パブロの丘に

撤退した。そして、そこで、Cristobal de Axqueta Monchaca

率いるフィリピンースペイン討伐軍によって、壊滅させられた。

およそ23,000人の中国人が最初の中国人の反乱で

非業の死をとげた。

 

 

=== 2万3千人というのは随分多いですね。

    そうとう激しい戦争だったということになります。

 

 

=== この当時の 日本とフィリピンの関係を

    検索してみたところ、こんなサイトが見つかりました:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82

 

日本とフィリピンはスペインによるフィリピンの植民地化

1592)以前より関係があった。1591豊臣秀吉

スペインのゴメス・ペレス・ダスマリニャス総督に、日本に

入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。

15927、ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスは、

ドミニコ会士のフアン・コポスを派遣、秀吉に書信と贈物を

届けると共に、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区

集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)

 

 

1570年には20人ほどだった日本人居住者は、17世紀には 

1500人、最盛期には3000人にもなった。1614にはバテレン

追放令を受けてマニラに到着した大名、高山右近をスペイン人

フィリピン総督、フアン・デ・シルバらが歓迎している。

しかし1633以降の鎖国令によって、日本人町は衰退しやがて消滅する。」

 

 

・・・・・なるほど、中国人の反乱は、1603年の話

     ですから、この記事から判断すると、

1,000人ぐらいはいたのかもしれませんね。

     マニラのデイオラ地区というのは どこに

     あったんでしょうか・・・

 

 

==== と、いろいろ検索をしたいたところ、こんなサイトが

     見つかりました・・・

http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb313c/

 

1592.10

秀吉は再度総督宛に返信を届けるため原田喜右衛門を起用し、原田は翌年4月マニラに到着した。

この頃在マニラ中国人約2000名の一斉蜂起があり、政庁の要請でマニラに在住していた日本人多数が反徒鎮圧に協力した。

・・・これを読むと、1593年4月に、

   マニラの中国人の一斉蜂起があったってことですね。

   そうすると、1603年の反乱は「最初」じゃない

   ですね。

   2,000人の蜂起は、数のうちに入らなかったって

   ことになりますか。

   で、この時も、日本人が鎮圧に加勢しているんですね。

 

   と言うことは、日本人はこの時既に イントラムロスでは

   なくて、デイオラ地区の日本人町に住んでいて、

   反乱の鎮圧を要請されたってことになりますね。

==== いろいろ検索しまくりまして、デイオラ地区の場所が

        分かりました。。。。こちらの観光案内のサイトです:

高山右近の像のある公園の情報です。

http://4travel.jp/overseas/area/asia/philippines/manila/kankospot/10423138/

「マニラにあった2つの日本人町のうちデラオ町跡に立っています。説明板あり。廃線になった鉃道駅(廃墟)を背に、ロータリーの広場プラザ ディラオの中にありますが、そこは、寝泊まりする人がベンチや茂みにいて、万が一危険な目にあっても車の流れにさえぎられてすぐには助けに来れない位置の、荒れた印象の公園です。タクシーの運転手さんにガードして見張ってもらいましたが、カメラを出すにも緊張感がはしりました。できるだけ日本人としては訪れたいところですが、単独なら、すばやく立ち去る方がよさそうです。実際の高山右近はイントラムロス内に滞在、埋葬されたということです。」

「【アクセス】LRTのPedro Gil(ペドロ・ヒル)で下車し、タクシーで行くのが最短の方法です。」

=== 地図でみると、イントラムロスから南東に1.5キロぐらいのところですね。

=== そして、中国人町のある Parianですが、地図がありました。

http://www.top-specials99.com/kol/ENGL/col06a-Christian-holocaust-Peru-Mexico-Philippines-mines+mission+terrorism.html

イントラムロスの東に隣接しています。

確かに、イントラムロスから銃口が向けられているという位置ですね。

 

 

=== シリーズ 78 に続く ===

 

 

 

 

 

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2016年1月11日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 76  中国人の経済的貢献と迫害

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 ==この翻訳は、英語の勉強と歴史の勉強を兼ねてやっているん

  ですが、政治学・歴史学の元大学教授に家庭教師を

  お願いしているので、その授業にある程度まとまった

  形の準備をしないといけないってことで、

  一所懸命書き溜めているところです・・・

  お付き合い、毎度ありがとうございます。

 

Img_3313a


12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

p162

 

1575年5月Salcedoが林鳳を包囲していたころ、

福建省総督の使節であるAumonOmoncon)を乗せた

二隻の中国船がリンガエンに到着した。

 

Aumonは、中国でお尋ね者となっていた林鳳を

捜していた。 海賊の運も尽きたことを見て、

Aumonはマニラへ向かった。 そこでは、総督Lavezaris

の厚いもてなしを受けた。

彼が中国に帰る時には、スペインの大使一行に伴われた。

(中略)

この大使一行は、総督から中国の皇帝に宛てられた手紙を

持っていた。 その手紙は、中国との友好と交易を

求めるものであった。

 

福建省の総督はスペインの大使一行を歓迎し、Lavezaris

手紙を皇帝に届けた。 しかし、彼は大使一行が長く

滞在することは許可しなかった。

 

p163

 

1575年2月に、中国人が皇帝の返書を携えてマニラに到着した。

返書は、スペインの要求である交易と、マニラ貿易に対して

中国(アモイ)の港を開くというものであった。

 

=== おいおいおいおい・・・

    気づきました、皆さん。

    1575年5月にAumonがやってきて、

    1575年2月に返書が来た・・・って可笑しいでしょう。

    本当に この教科書の編集・校正は大丈夫か

 

    しかし、スペイン大使一行に「長居は無用」って

    いったのにはどういう事情があったんでしょうね。

    もしかして、キリスト教の伝播とか、侵略を疑って

    いたのかな・・・

 

=== Captain Omonconについては、こちらのサイトで:

http://www.liquisearch.com/limahong/a_belated_visitor

 

 

「中国人の経済的重要性」

 

 

スペイン時代のフィリピンの経済的生活は、中国人の労働と

産業に大いに頼っていた。 中国人住民は、商人、農業、

石工、金融業、塗装工、靴職人、金属工、そして人夫であった。

「かれらは優秀な労働者だった」とMorgan博士が1609年に

述べている。「そして、全ての工芸や交易に技術を持っている」。

フィリピンは中国人の手助け無しには成り立たなかった。

Recollect 歴史家として.. Juan de la Concepcionコンセプションは

1788年に、「中国人の交易と商業がなくては、この国は

 

生きて来れなかった」と述べている。

 

=== Recollectの訳し方が分かりません。(「思い出の歴史家?」)

歴史家のJuan de la Concepcionについては

    スペイン語らしい言語でのwebサイトはたくさんあるの

    ですが、英語でのサイトがほとんどなさそう:

Juan de la Concepcion, Historia General de Philipinas, 1788-1792, the "Events in the Philippines," 1739-1762

https://www.translate.com/english/juan-de-la-concepcion-historia-general-de-philipinas-1788-1792-sa-mga-kaganapan-sa-filipina/36597124

 

 

 

 

「中国人に対するスペインの方針」

 

中国人の経済的貢献は価値があったのだが、スペイン当局からは

公正な扱いは受けなかった。 移民の増加は疑念と恐怖の目で

見られた。 なぜなら、大きな中国人のコミュニティーは、

スペイン統治にとっては危険だと思われたからである。

 

中国人移民が増えないように、スペイン当局は重税を課した 

滞在の許可に64レアル、年貢は5レアル、そして持家には

12レアルであった。 

マニラでは、中国人はParianに住むことを強制された

そこは、町の城壁の外側に位置し、スペインの銃口の射程内

にあった。 反乱の兆候があった時には、大勢が虐殺され、

あるいは、国外追放となった。

 

Parianは、スペイン時代は、マニラの中の中国人街であった。

それは、フィリピンの歴史の中で著しい役割を演じた。

元々、Parianはパシグ川の南の土手にあって、サント・ドミンゴ

教会の近くにあった。 

 

(中略)

 

Parianはマニラにおけるビジネス・ライフの中枢部であった。

毎朝、町のゲートが開けられると、スペイン人とフィリピン人が

城塞の町(イントラムロス)から流れ出て来て、Parian

買い物にやってきた。 Parianでは、何百もの店があって、

Cathay(中国)の製品が売られ、すべての交易の優秀な職人

が価格のためなら何でもやる用意があった。

Parianは」と司教のDomingo de Salazarが1590年に

王宛てに、「町を美しく飾っており、閣下に対して

スペインの良く知られた町あるいはこの地域にも、

この町ほど観る価値がある場所は、他にはありませんと、

ためらうことなく申し上げます: なぜなら、この中では、

中国のすべての交易を見ることができるからです・・・

全ての交易と工芸品の職人たち・・・医者と薬屋、・・・

また、多くの食堂があって、中国人とフィリピン人が食事を

しています; それに、スペイン人ですら常連がいると

聞いております。」と書き送っているのです。

 

 

 

=== スペインが この時点で、どの程度中国のことを

    知っていたのか分かりませんが、

    中国本土の王宮周辺を見たらなんと言ったんでしょうね。

    昔昔から、中国人は商売が上手かったんですねえ。

 

    陶磁器やらなんやら、日本も中国や朝鮮半島から多くを学んで

    いたわけですし、陶工を日本へ連れて来ちゃったり

    のしていたんですもんねえ・・・秀吉の時代かな?

 

    そういう人たちが、北部九州なんかのあちこちに

    窯をつくって、伊万里焼き(有田焼き)、三川内焼きとか

    今の有名ブランドになったんでしょうね。

    そういう技術の歴史というのはフィリピンには残って

    いないんですかねえ・・・

有田焼き:

http://dictionary.goo.ne.jp/jn/7545/meaning/m0u/

鍋島焼き:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%84%BC

 

=== シリーズ 77 に続く ===

 

 

 

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2016年1月10日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 74  マニラのイスラム王国に中国人移民がいた

 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

Img_3312

 

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

第十二章 中国および日本との関係

 

 

さあ、十一章の「フィリピンのイスラム」をすっ飛ばしまして、

いよいよ日本との関係に関する章に突入します。

 

 

p160

 

中国および日本との関係は、マゼラン以前に始まり、

スペイン時代にも続いた。

スペインの統治の当初には、スペイン当局は中国及び日本との

親善・友好を推進した。 それは、価値のある経済的サービスと

マニラの有利な貿易を保護する為であった。

しかしながら、不信と疑念がスペインの方針を台無しにして

しまった。 しばしば、フィリピンは中国人や日本人の反乱に

揺さぶられ、それを鎮圧するために多くの人命と財産の被害

を被ったからである。

 

 

「初めての 中国とスペインの接触」

 

1521年という早い時期に、マゼランは中国人貿易商

によってもたらされた中国の陶磁器を見つけた。

彼らは、マゼランがフィリピンの海岸に到着する

随分前からフィリピンにやって来ていたのだ。

マゼランは実際に中国の磁器とゴング(ドラ)をMasao

セブで見たのだが、中国人貿易商には会わなかった。

 

初めて中国人とスペイン人が出会ったという記録は

1570年5月8日で、ミンドロ島の海岸の沖であった。

その日Martin de Goiti大将に率いられたスペインの派遣軍

が、Maynilad(マニラ)に行く途中にたまたまミンドロ島に立ち寄った。

その時、二隻の中国貿易のジャンク帆船がミンドロ島沖に停泊

していた。

その中国人貿易商は、近づいてくるスペイン船が攻撃してくる

と思い、ロケットやカルバリン砲(銃)で抵抗した。

海戦となり、Goitiはその二隻の中国船を捕獲した。

 

その中国人たちが敵意のあるものではあなく、平和的な貿易商で

あることが分かると、Goitiは彼らを釈放し、貿易品の積み荷を

返却した。

その出来事があってから、Goitiは Mayniladへと進み、

Raha Sulaymanとその軍隊との激しい戦闘の末、マニラを占領した。

この占領された町―王国で、Goitiは 地元の女たちと結婚して

いる40人の中国人移民を発見した。

 

次の年(1571年); レガスピは何の抵抗もなく

マニラを占領し、スペインの町として再建し、中国との貿易を

歓迎した。 この時には、レガスピは、150人の中国人

見ることとなった。

 

=== Raha Sulaymanは、スペインが来るまでは

    マニラ周辺のイスラムの王国を統治していたようです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Rajah_Sulayman

 

Sulayman I is the ruler of the united kingdoms of Manila.He was the kingdom's second to the last indigenous ruler (Lakan Banao Dula is the last), as the state was absorbed into the Spanish Empire during the latter's conquest of Luzon and the archipelago.

 

同じく、マニラ占領についても書いてあります:

Goiti anchored at Cavite and established his authority by sending a "message of friendship" to the states surrounding the Pasig River. Rajah Sulayman, who had been ceded authority over their settlements by his aging uncle Rajah Matanda, was willing to accept the "friendship" that the Spaniards were offering, but did not want to submit his sovereignty unto them, and waged war against them due to disputes and hostility. As a result, Goiti and his army attacked the Islamic kingdoms in June 1570 and occupied their settlements before returning to Panay.[6]

 

 

マニラの歴史については、こちらのサイトにあります:

https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Manila

 

The history of Manila begins around 65,000 B.C. the time the Callao Man first settled in the Philippines

なんと、マニラの歴史は 紀元前6万5千年も遡るそうです・・・

 

the earliest recorded History of Manila, the capital of the Philippines, dates back to the year 900 AD as recorded in the Laguna Copperplate Inscription.

記録に残っているものとしては紀元後900年だそうです。

 

the city became known by the name given to it by its Tagalog inhabitants, Maynila, based on the nilad plant, a flowering mangrove plant that grew on the marshy shores of the Manila Bay.[1]

マニラという名前の由来が書いてあります。

 

=== イスラム王国があったマニラに、スペインが突然

    現れて、キリスト教の拠点都市に変わっていったわけですね。

    フィリピンにイスラム教が伝わったのは14世紀となっています。

https://en.wikipedia.org/wiki/Islam_in_the_Philippines

 

Islam was introduced by Chinese Muslims, Indian Muslims, and Persians. Islamic provinces founded in the Philippines included the Sultanate of Maguindanao, Sultanate of Sulu, Sultanate of Lanao and other parts of the southern Philippines.

 

・・・これを見ると、中国人ムスリム、インド人ムスリム、そして

ペルシャ人のムスリムが フィリピンにイスラム教をもたらした

ということになっていますね。

この意味でも、中国との関係があったという話です。

 

 

=== こちらの日本語のwikipediaにもフィリピンのイスラム教

    に関する情報があるんですが、一部に変な記述が

    あるので、あまり信用しない方が良いかも。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99

 

それでも、このサイトでちょっと興味を引くのは、こちらの記事:

しかしながら、ヴィサヤ諸島はヒンドゥー教や仏教が非常に強く、イスラム教に対しては少なからぬ抵抗を示した。ミンダナオ地域出身のムスリム海賊が海域を荒らし回ったことにより、経済的、政治的危機がもたらされたためである。これらの頻繁な攻撃を通して、海賊が略奪を行えない程ヴィサヤ諸島民の結束力が固くなってゆく[5][6]。」

 

インドあたりから、ヒンデゥーや仏教もすでに入っていたんですね。

 

 

 

=== シリーズ 75 に続きます ===

 

 

 

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2016年1月 9日 (土)

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 05 アメリカはイスラムを理解できない

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

「第二章 迷えるイスラム教」

p116

ヨーロッパの人びとは、アメリカに比べて、冷めた態度です。
ほとんどの人びとが教会に行かない。 これが、実証性と
理性主義を十分に踏まえた、文化的な人びとの行動様式だ
と言えます。

p117

乱暴に言えば、ヨーロッパの人はカトリックの教えなんて
迷信だと捉えていますからね。 プロテスタントは、
世界の創造主である神の存在は認めるけど、創造後の
世界に神は干渉していないと考え、奇蹟や啓示を否定する
理神論にかぎりなく近い。

p118

イスラムやカトリックは今後も世界的な宗教として
生き残っていくのは確実です。 しかし、多くの
アメリカ人が信じるプロテスタントは衰退している。

p119

イスラムは、アメリカの、真逆の世界です。
手の内もわからないから過剰に警戒している面もある。
そんな状況だから、今後、イスラムに対して、
悪魔のようなイメージが一人歩きしかねない。

もうすでに悪魔のように思っている人がいてもおかしくない。
となると「「アメリカ人がそう思うなら、いっちょ、
本物の悪魔になってアメリカ人を恐れさせてやるか
と行動に移すムスリムが出てくる危険性もある。

=== そうなんですか。
    プロテスタントのアメリカと イスラム世界は
    真逆なんですね。
    それで、大統領候補の共和党のトランプ氏
    みたいな人が「イスラムは悪魔だ」みたいな
    論陣を張って過剰に警戒をしている・・・
    ・・・ってことは、トランプ氏が大統領に
    なったらイスラム過激派は 千載一遇の
    チャンスを手に入れるって話ですね。

p119

外から投げかけられたイメージによって、自己を形成
してしまうことは決して珍しくはありません。

実は、国の舵取りを天皇が握っているかのような
「天皇制絶対主義」という言葉を作りだしたのは
ソ連なんです

1932年5月、ソ連の共産党国際組織「コミンテルン」
によって・・・・そこで日本を支配する絶対天皇制を
打倒するブルジョア民主主義革命を行うべきだとした。
・・・日本の「悪魔のようなイメージ」が広まり、
それに合わせるかのようにして、現実の日本の国家体制も
コミンテルン32年テーゼに書かれた姿に似てきた。

p120

日本が共産主義を研究して過度に警戒した結果、
国家そのものがそれに応じて変質してしまった、という
可能性は十分に考えられます。

p121

(現在のアメリカは)・・議論や討議を尽くすことで、
逆にイスラムのネガティブなイメージを固めつつあります。

=== う~~ん、なんだか「言霊」に飲みこまれた
    というような雰囲気ですね。
    まあ、マスコミの影響が大きいのでしょうが。

    日本の国会は、議論や討議を尽くすってことも
    ないから、今の日本は大丈夫なのかな?
    (これは皮肉です・・笑)

p122

内ゲバを続ける限り、「イスラム国」の拡大には
限界があるだろう、と。
内ゲバの拡大を狙っているから、イランが核を持つ
リスクがあるにもかかわらず、アメリカはイランに
肩入れしているわけです。

p123

扱いが難しいイスラム世界が内ゲバを起こせば、
そのぶん自分たちのリスクが減るという論理です。
身勝手ですよね。

p124

「イスラム国」の敵の敵は味方だから、とアメリカは
イランと手を結ぼうとしています。
アメリカがイランの核開発を事実上認めれば、イランと
関係が悪いサウジアラビアに核が渡る危険性があります。

=== この本が出版されたのは2015年10月21日
    なんですけど、この辺りの記述は 2016年1月
    9日現在の サウジアラビアとイランの間の
    危機的な動きをかなり正確に予測しているよう
    にみえます。

p124

パキスタンのように貧しい国が核開発できたのは、
サウジアラビアがスポンサーになったからです。
スポンサーが「よこせ」と言ったら、パキスタンは
断れない。

p127

サウジアラビアの国家体制は盤石とはいえません。
さらにいえば「イスラム国」とも関係が深く、
サウジアラビアから多額の金が渡っていると
考えられます。

=== おおお、恐ろしい話になってきました。
    イランとサウジアラビアが 核兵器を持ったら、
    核戦争もやりかねないですね。
    「イスラム国」を支援しているスンニ派の
    サウジアラビアと アメリカが軸足を移し
    始めたシーア派のイランの内ゲバ。

    シリアだけでも被害者や難民が大量発生で
    ヨーロッパをひっくり返すような
    事態になっているというのに・・・

    世界地図が大きく変化しそうなことに
    ならなければいいのですが・・・

=== その6 に続く ===

                      

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橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 04 世界帝国のイスラム VS 「アメリカ」アイデンティティー

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

p80

「第二章 迷えるイスラム教」

カリフを唯一の正当な統治者と考え、イスラム共同体ウンマ
の建設を目指すイスラム世界とは違って、キリスト教の
場合は、王に服従する文化、国家に従属する文化を持っている。
・・・国家は神によってつくられて神の行為を代行するから、と。

p82

キリスト教の原則はつぎのようなものです。
その時々の有力な統治者に、政治を任せる。 統治者は
、キリスト教徒であるのが望ましいが、絶対というわけ
ではない。 キリスト教徒が統治者に服従する条件は、
信仰が守られること。

p85
イスラムは、全世界、全人類にイスラムの教えが広まり、
カリフが指導する普遍的な人類共同体ウンマ、いわば
カリフ帝国の建設を目指している。
イスラム以外の世界から見れば、カリフ帝国とは
単一帝国による世界支配です。
その点で、私は、「イスラム国」は旧ソビエトに非常に
似ていると感じているんです。

p87
近代以降、キリスト教世界はどんどんバージョンアップ
していったのに、イスラム世界はそれに対応するバージョン
アップをすることができなかった。

p88
いま「イスラム国」はバージョンアップしなくても
存続できる基盤をインターネットによって手に入れた
わけです。

p89
イスラム主義は、進歩、発展により失うものが大きい、
と捉えている。 だから、原点回帰をすれば、失うもの
は何もないという考えに至る。

=== 要するに、イスラム世界は世界帝国になることが
    最終的な理想なんだけれども、キリスト教世界の
    ようには進歩ができない。
    ところが、インターネットの拡大によって
    原点回帰の思想を世界中に広めることが
    可能になってきたって話のようです。
    最先端技術をキリスト教世界からたなぼたで
    もらって、復古主義に世界を引きずり込む
    ということのようです。

p91

ムスリムにとって、クルアーン(コーラン)は唯一の聖典で、
それを文字通り神の言葉と受け取らなければならない。
キリスト教徒はそれを、原理主義ではないかと思った。
その見方が、欧米のマスメディアで拡散していって、
イスラムはファンダメンタリストだ、過激派だ、
テロリストだ、という単純な決め付けが、一人歩き
してしまっている。

p93

いまもワッハーブ派は、サウジアラビアの国教で、
ムハンマド時代の原始イスラム教への回帰を目指して
極端な禁欲主義を掲げています。
また過激派とのつながりのあるグループも一部にはいて、
アルカイダも「イスラム国」もワッハーブ派の武装組織
ですし、アフガニスタンのタリバンやチェチェンの
テログループも流れをくんでいます。

=== この辺りは、私はノンポリなので全く知りません
    でした。
    日本のマスコミに毒されちゃってますんで、
    アメリカと仲良しのサウジアラビアは
    割と進んだ国で、悪の枢軸とか呼ばれたイランは
    とんでもなく過激なイスラムかというイメージを
    持っていたんですが、知らないってっことは
    とんでもないことですねえ。
    これを読むと、アメリカがシリアなんかでも
    ISの壊滅に本気じゃないってことが
    分かるわけですね。
    一応「テロリストとの戦争」とか形だけは
    言っていても、壊滅するつもりもない。

p96

ローマ・カトリック教会は「執り成し」の権限を商品化して
購入すると罪が軽減できる「贖宥状」、いわゆる「免罪符」
を発行しました。・・・宗教においてもっとも大切な
ポイントが、金次第という話になってしまう。
・・・この免罪符を、マルティン・ルターが批判して
始まったのが、宗教革命です。

p97

プロテスタントは、腐敗したローマ教会を否定し、
神の言葉が書かれた聖書だけが正しいと考える。
イエスが唱えた素朴な原始教会に戻ろうという復古維新運動
です。 
・・・そう考えるとイスラム原理主義、復古主義と
成り立ちも考え方も重なります。

(イスラムは)・原罪がないから神が命じれば、聖戦の名のもとに
あらゆるものを破壊しても構わないと
考える。

=== ということで、イスラム教と キリスト教の
    アメリカなどを中心とするプロテスタントは
    原理主義の復古主義ってことでは共通すると
    言うんですねえ。
    ただし、「原罪」があるキリスト教と それが無い
    イスラム教では、決定的に異なると。

p98

過激なイスラム主義がなぜ生まれたかは、ヨーロッパ諸国が
中東に与えたトラウマを抜きには語れません。

第一次世界大戦後、西欧諸国は中東の全域を植民地に
しました。・・・イスラム法を無視した政治を行って、
共同体を破壊した。

「イスラム回帰」「イスラム復興」の動きが、
イスラム各地に広がり、現在に至っている。

p107

イスラムの場合、主導的に主権国家をつくったわけでは
なかった。 歴史を振り返れば、前近代的なオスマン帝国
やペルシャ帝国はあった。 しかしそれが崩れ去った
あと、ヨーロッパ列強によって、アラブ、ペルシャ、
トルコといった広い地域に、恣意的に線引きがされた。

p109

アメリカ人が、イスラム世界が置かれた現状やイスラム教
の人びとの心情を理解できないのは、イスラム世界と
アメリカが正反対だからです。

p110

アメリカは宗教によってつくられた国です。
民主主義や資本主義の実現が動悸ではなかった。
・・・ちなみにアメリカに渡ったピューリタンは
プロテスタントで、カルヴァン派の教えを信じていた。

・・・誰を救済するか決めるのは、神である。
しかもそれは、 あらかじめ決まっているという、
救済予定説に立ちます。
この考えは、アメリカの性格を、かたちづくります。

p111

まずは徹底した個人主義
家族も教会も、会社の上司も、自分が救済されるかどうかに
影響を与えることができない。
・・・大切なのは、神と自分の関係だけだ、と。

p112

端的にいえば、アメリカ人にとって「アメリカ」が
最上位のアイデンティティです。

では、ムスリムにとって最上位のものは何か。
それは、信仰です。

p113
イスラムが「アメリカ」という価値観の上位概念に
なりうる可能性を秘めているわけですから・・・

=== このアイデンティティの概念というのは
    恐ろしいですね。
    アメリカは国としての「アメリカ」という概念の
    下に世界中から移民が入って形作られている。
    一方、イスラム世界は、「信仰」というより大きな
    概念で「世界帝国」を目指す宿命を負っている。
    だから、国境なんて関係ない。

    さあ、日本人にとってのアイデンティティーって
    何でしょうかね?
    「日本人」?  「島国の世間」?
    「八百万の神々の国」? 

    動機づけとしては、イスラム世界の方が
    上を行く概念ではありますね。
    
    あるいは、先の大戦中のスローガン
    八紘一宇(はっこういちう)の復古主義にします?
    https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87-115006

    そういう意味では、イスラムというのは
    日本人がやってきたこととかなり共通項が
    あるみたいですね。
    昔の日本軍と今のイスラム過激派・・・

=== その5 に続く===

 

 

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