カテゴリー「経済・政治・国際」の記事

2019年2月24日 (日)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その38 日本初の印刷機、 ポルトガル・スペイン vs オランダ・イギリスの中傷合戦

 

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p367

 

それはこの天草のコレジオで創始されて、日本文化史上

もっとも大きな貢献となった印刷出版事業にかかわった

・・・コレジオというところは、外国人に日本語を教え、

日本人に外国語を教えるばかりではなく、双方に共有できる

ような知識の普及伝播を発信する場所でもあったことが

わかる。

 

p368

 

そしてドイツのグーテンベルクが発明した加圧式の鋳造活字

による印刷機が少年使節の帰来といっしょに日本にもって

こられたのだった。

これが日本初の活版印刷機である。

 

 

そのときコレジオのあった加津佐にまず置かれ、翌年天草の

河内浦に運ばれて、待望の日本・ポルトガル語辞典、文法書、

日本語による宗教書などのいわゆる切支丹版がつぎつぎと

印刷されたのだった。

 

p369

 

その時代にこの印刷機があったのは東洋ではここだけだった・・・

 

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=== この写真は、天草のコレジヨ館で撮影したものです。

    館長さんが印刷の実演もしてくれました。

 

 

p371

 

彼らの運命は・・・日本を亡命するか、または殉教である。

このリストにない者は消息不明の者たちである。

その多くは棄教者であった。

 

マンショは四十二歳で病死・・・マルティーノは国外追放となり

マカオで死んだ・・・ジュリアンは潜伏し、長崎で殉教・・・

ミゲルがいつ死んだかはわからない。

 

=== 私が興味を持っているのは、

    殉教した中浦ジュリアンと 棄教したとされる

    千々石ミゲルです。

    この二人とフィリピンとの何等かの関係を

    探しているのですが、なかなか見つかりません。

 

 

p372

 

秀吉の最期については、イタリアのイエズス会士フランチェスコ・

パシオが・・くわしく報告している。秀吉の死は宣教師たちに

とって朗報であった。

・・・しかし、1600年関ヶ原の合戦が起こり、最後まで

秀吉に忠実だった小西行長は敗北し、捕らわれて処刑された。

新しい政府の枠組みができつつある・・・・

 

 

p375

 

歴史を見ていて不思議なのは、家康が最初宣教師に寛大であった

ように見えることである。

 

しかし、・・・

「予はこれ(キリスト教)を許すこと能わず。何となれば、

我邦は神国と称し、仏像を祖先の代より今に至るまで大いに

尊敬せり・・・・日本に於いては決して其の地の教えを説き、

之を弘布すべからず」

 

・・・家康がその本心を出すきっかけになったのが1612年

に起こった岡本大八事件であった・・・・

 

p379

 

この事件の怖さは、この事件を調べているうちに駿府の旗本や

その侍女のなかにキリシタンがおおぜいいること、民衆のなか

にもおおぜいいることがわかったことである。

 

 

p380

 

家康は・・・家臣団のなかのキリシタンを点検した・・・

これは寛永時代に「五人組」として組織された相互監視

制度の始めである。

・・・それは戦時中の隣組を彷彿とさせ、また慄然とさせる。

私は戦争にまけると言ったり反対だと言ったりしたら

すぐに憲兵に連れて行かれて帰ってこられないと親に言われた

ものである。

 

=== この制度って、最近の近隣の大国でも現在実施されて

    いるようなニュースをみますね・・・

    日本のやり方を真似ているんでしょうか?

 

p380

 

幕府はいわゆる条々五箇条の御禁制を発令したが、そこには

タバコの喫煙売買の禁止、牛殺しの禁止とともに、キリシタンの

禁止が宣言されている

 

=== おやおや、禁煙と同じレベルでしたか・・・

    今現在・・・フィリピンでは大統領令でかなり厳しい

    禁煙が実施されていまして、日本よりも徹底しています。

    しかし、考えてみるに・・・江戸時代のタバコ禁止と

    いうのは何が理由なんでしょうかね?

    火事の大きな原因だったとか・・・??

 

p381

 

このような禁制のかげには、外国貿易についての幕府の政策転換

が少なからぬ要素になったと考えられる。

・・・イギリス人・・・ウィリアム・アダムズが・・・

スペイン人らを侵略者として家康に進言した・・

幕府はオランダやイギリスなどプロテスタント国との交易を

重視してゆき・・・

 

 

p383

 

キリスト教排除は日本の権力者の基本方針であって、

その口実はなんでもよかった。

 

 

p384

 

1614年1月・・・「伴天連追放令」を発した・・・

そこには「神敵・仏敵・仁道の敵」である「伴天連の徒党」は

日本国内のいかなる場所にもいてはならない、これを一掃する、

と書かれている。 これがキリシタン根絶の法令であり・・・

 

=== そうですか。 これが最後の決定版になったわけですか。

 

 

p385

 

原マルティーノは、・・・演説原稿はゴアで、日本に持って帰る

グーテンベルク式の例の印刷機でさっそく印刷された。

・・・片岡弥吉氏はこれを日本人発行の最初の新聞だとしている。

 

 

p388

 

このような大禁令が出た動機について1614年イエズス会年報

は・・・「だいじなのはイギリス人とオランダ人の中傷です。

このふたつの国民が、しきりに将軍に説き立て、国土の「防衛」

についてその心を動かしてしまた・・・」

 

 

=== この三浦按針のことをチェックしたところ、

    下のようなことが書いてありました。

    宣教師がオランダ人やイングランド人を即刻処刑するように

    ・・・ こりゃあ中傷合戦になるよなあ~~

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・アダムス

 

「関ヶ原の戦いの約半年前の1600429日(慶長5316日)、

リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった

乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。

一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、

船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、

大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが

訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。」

 

 

 

p390

 

キリスト教国は日本を侵略するという侵略論、愛国論が

いちばん有効な排除の手段である。事実それは功を奏した。

 

十六世紀にスペインとポルトガルが日本を侵略しなかったのは、

しなかったのではなくて、できなかったのである

国家は財政的に破綻して・・・・資源の乏しい国に植民する

ことは・・・まったく引き合わなかった・・・

 

=== 幕府は、その時 どの程度スペインやポルトガルの

    事情を把握していたんでしょうね。

    朝鮮半島や中国ならある程度は掴んでいたんでしょうが・・・

 

 

< その39に続きます >

 









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2019年2月22日 (金)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その33 秀吉、フィリピンを侵略か!? スペインが日本に侵攻か??

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 


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p245

 

関白秀吉は瞬時の怒りや思い付きでこんどのことをやったのでは

なかった。 彼はただ時期を待っていただけである。

 

宣教師の国外追放も一種の脅しに過ぎなかった。

 

p246

 

彼はキリシタンの家臣に命じて、彼らの陣営や船舶から十字架

が描かれている旗をすべて破棄するように命じた。

・・・また多くの武将にたいして、熊野権現を礼拝して

血判状をもってキリシタン信仰を棄てるように命令した。

これは最初の「踏み絵」のようなものであった。

 

・・・最大の狙いは、キリスト教の自治区にひとしかった

長崎の没収であった。

 

 

p247

 

この知らせを聞いた長崎の住民は驚愕し、なすべきことを

知らず、さながら「最後の審判の日」を迎えたようだったと

フロイスは書いている。

 

 

コエリョは・・・・多くのキリシタン大名に書簡を送って、

・・・秀吉に金で取り入って宣教師の追放令を撤回して

くれないかと頼んだ、・・・

 

p248

 

黒田は、コエリョが多数の武将にあてて書いた書状を

秀吉に見せぬほうがいいと思い自分の手元にとどめてしまった。

 

コエリョとフロイスたちは、このとき、・・・秀吉に軍事力で

対抗し、報復しようとして画策していたのである。

 

 

=== 黒田は流石に思慮深いですね。

    それが徳川時代にも生き残る知恵だったということ

    なのでしょう。

    コエリョたちは秀吉の恐ろしさを知らなかった・・・

 

 

p249

 

「(禁令発布のあと)コエリョはただちに有馬に走り、

有馬殿およびそのほかのキリシタン大名をそそのかし力を

結集して関白敵対を宣言するように働きかけた。

・・・すんでのところで戦争が勃発するところだった。

 

しかし「つぎに彼はスペインの軍隊を日本に導入するという

別の妄想に入った」

・・・そこでフィリピンの総督、司教、神父らに書簡を送り、

援軍を送ってほしいと要請した。

フィリピンはそれを嘲笑し、・・・援軍を送ることは適当では

ないし、その軍事力もないと答えた

 

=== この辺りは、流石にイタリア人の巡察師

    ヴァリニャーノの見通しが正しかったということ

    なんでしょう。 ポルトガルやスペインの

    征服主義とはちょっと違う。

 

 

p250

 

それでもコエリョは懲りなかった

・・・彼は、神父ベルショール・デ・モーラを中国(マカオ)に

派遣して、兵士二百人と多量の食糧、弾薬をもたずには日本に

帰還してはならないと・・・・

・・国王、インドおよびフィリピンの総督たちに働きかけて、

・・援軍の派遣を懇請させようとした

 

 

p252

 

追放令のあと宣教師らは平戸に集結して議論した。

・・・書簡では教会のため長崎に城塞を築く提案があったこと

がわかる。 

 

p253

 

フィリピンのスペイン軍に援助を要請することに強く反対

したのはこのなかではただひとりイタリア人のオルガンティーノ

だけだった。

 

p254

 

「・・・一方で、中国人よりも勇敢な日本国民の力を見誤り、

日本に勝ちそうもないポルトガルの屈服と敗北を準備する

ことになろう。 ・・・・」

 

=== この当時は、おそらく倭寇などの影響もあり、

    また、海外に出て暴れていた侍もいたらしいので、

    日本人は乱暴者という評判だったようです。

 

 

p256

 

武力には武力を、権力には権力を。 異なった宗教は壊滅させ、

排撃すべきだ。 その点で、フロイスは秀吉と変わらない。

 

 

 

p257

 

歴史家が「運命の船サン・フェリペ」と呼ぶスペイン商船の

漂着である。  

・・・スペイン商人が相手だったので、結果は破滅的なことに

なってしまった。

 

 

1591年にマニラにやってきた原田喜右衛門なる人物が、

マニラが砦をめぐらしていないことを見届けると、

・・・秀吉にルソン島の軍備が貧弱なことを告げた

 

p258

 

秀吉は・・・ルソンに対して日本に入貢せよという脅迫的な

国書を原田にもたせてマニラに派遣した。

・・・「日本の国王の手紙」と題する秀吉の書状は胆をつぶす

ほど傲慢なものであった。

 

 

=== この手紙を読んでいると、まるで現在の米国の

    トップのディールを思い出させるような内容です。

    誇大妄想で口ばかり・・・・

    部下を信用せず、猜疑心が深く、女漁り・・・・

    まあ、それにしても、秀吉は日本を統一して

    しまったわけですが。

    その点は、米や世界をディバイドした大統領とは

    一味違いますかね?

 

 

p259

 

この原田喜右衛門という男は、棄教した元キリシタンで、

一種のぺてん師だった。

 

 

p260

 

マニラの総督および武将は日本国王の傲慢と使節の身分の

低さに困惑したが、ほんとうに日本が攻めてくるのでは

ないかという恐れで混乱が起こった。

 

 

・・・教皇によって、イエズス会だけが布教するように

限定されていた日本に、今やイエズス会が追放されたのだから、

こんどはフィリピンからスペイン人のほかの教団の会士 ――

フランシスコ会やドミニコ会 ―― が行くことができれば

いいという、まったく情勢判断を誤った希望もあった。

 

ほんとうの悲劇はここから芽生えた

しかし、マニラではだれも先を読める者はおらず、・・・

・・・総督は・・・確認のために使節を送る、・・・

ドミニコ会士のフライ・ファン・コボ神父に親書と

・・・をもたせて日本に派遣した。

 

通訳をしたのは原田と長谷川だったので、・・・

・・・秀吉はフィリピンが服従を示したものだと信じた。

 

=== いやいや、ペテン師が通訳になっちまった。

    通訳は信頼できる人じゃなきゃいけません。

 

    やっとここで、フィリピンのマニラから宣教師

    たちが日本に入ってくることになるわけですが、

    まあ、いかにもマズイ時に入ってしまったもんです。

 

    実は、私がこの本を読んでいる理由は、

    日比友好イベントのネタ探しの為なんですが、

    こりゃあだんだん不安になってきちゃうよなあ。

 

 

p261

 

この(秀吉の)書状をもってマニラに帰るはずであった

コボ神父・・・悪天候のために船が難破して

死んでしまった。

 

p262

 

ロペスは日本で聞いた噂として、

「・・・日本人百名はスペイン人の二百名あるいは三百名に

匹敵する力を持っているのだから、まず台湾を征服して

島づたいにフィリピン諸島を征服することは困難ではない」

と秀吉が言ったと証言した。

どうもこの話を聞いていると、ますます秀吉は二十世紀の

日本軍事国家の先駆者だったのではないかと思う。

 

=== 本当に、日本人は16世紀から好戦的な人種だった

    んですねえ。 大丈夫か平和国家ニッポン!

 

 

p263

 

ロペスがコボ神父に向かって「近くフィリピンで戦争が

起こるだろうかと聞くと、それはないだろうが、マニラ要塞

が完成するまで、フランシスコ会の神父を日本に送って

彼らを牽制しておくのがよい。

彼らは金銭を要求しないし、日本人は心がやさしい。

・・・」

 

このあとほんとうにフィリピンからフランシスコ会士が

日本に裸足でやってくる。 というのは、フランシスコ会士

は裸足にサンダルなので。

 

 

=== ここで言っている「マニラ要塞」というのは

    もしかして「イントラムロス」のことかな?

    上の原田の話が 1593年にマニラに着いた時の

    ことだとなっていますので、確かにイントラムロスが

    建造中だったようです。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/イントラムロス

「イントラムロスの計画は157373日サン・ロレンソで

発布されたスペイン王フェリペ2世の王令に基づいている。」

イントラムロスは1606年に完成され、フィリピンがスペイン

の植民地であったとき、スペイン人の政治、軍事、宗教の中心地

として機能した。イントラムロス内にはいくつかのローマ・

カトリックの教会(例えばマニラ大聖堂やサン・アグスティン教会)、

女子修道院そして教会の運営する学校(例えばサント・トマス大学、

サン・フアン・デ・レトラン大学、アテネオ・ムニシパル・デ・

マニラ大学(現アテネオ・デ・マニラ大学))がある。それらはふつう

ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会、フランシスコ会、イエズス会と

いった修道会によって運営されていた。」

 

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p264

 

イエズス会側のフロイスの文書によると、

最初にマニラから使節団がきたとき、随伴した

スペインの船長らが秀吉に向かって、ポルトガル人と

イエズス会のことを悪く言ったために、秀吉は激高して、

長崎に残っていた壮麗な教会や住院を破壊してしまったという

事実を告げている。

植民と交易と布教をめぐるスペイン対ポルトガル、イエズス会

対フランシスコ会の愚かな抗争が、弱りかけた日本のキリスト

教界を破滅の淵に曳いていった。

 

p264

 

総督も・・・フランシスコ会で尊敬されている フライ・ペドロ・

バウティスタ師を選んだ。 このとき、この神父は長崎で

殺されるために選ばれたのである。

 

=== 話がいろいろとややこしくなってきましたが、

    いずれにせよ、今から多数の殉教に向かって

    まっしぐらに転がっていくということになります。

 

    ちなみに、上のイントラムロスの記事の中に

    聖アグスティン教会が出ていますが、

    この世界遺産である教会には、長崎の殉教に関する

    大きな絵が6点ほど展示されています。

    その中のひとつは「長崎のマグダレナ」と題材と

    したものです。

 

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< その34に続きます >

 

 

 

 

 

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2019年2月20日 (水)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その32 秀吉の伴天連追放令、高山右近の放浪、そして奴隷問題

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 


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p224

 

右近一行は船で博多を出て、博多彼岸の一孤島に落ちたが、

そのとき秀吉は右近のゆくえが知れないということを間諜から

聴いて、中国に落ちたのであろうと思い・・・「右近は日本で

暮らしても差支えなかったのだ」と言った。

 

その後、右近は淡路島、小豆島と転々としたが、間諜はその

すべてを追跡し・・・・多くの大名が右近を訪ねて援助を

提供した事実を秀吉に報告した。

 

 

p226

 

「それまでは快適な生活を送ってきた明石のキリシタン武士

の婦女子、か弱い子供達が、突然極貧となり、・・・明石の町を

放浪する光景を見ることは・・・・」

 

 

p227

 

ポルトガル人が奴隷の売買をやっていたことは有名な話

である。  

 

p228

 

・・・奴隷売買は人類の歴史と同じくらい古い。

日本では八世紀の大宝律令で人身売買を禁じているから、

それがもうあったということを証明する。

 

十四世紀に入ってから、九州各地で奴隷的な労働をやっていた

人々には倭寇によって略奪されてきた高麗人が多かった。

 

・・・高麗はしばしば日本に対して農民の返還要求をしていて、

・・・秀吉が・・・二度・・の朝鮮侵略では、・・ふたりの

王子をはじめ多くの職人、学者、奴隷を連れ帰った

 

 

・・・大名のなかには、朝鮮で人民を略奪してそれを売却して

遠征の費用を捻出した者が数多くいた。

・・・これを平戸や長崎でポルトガル人に売って絹や鉄砲と

交換した・・・

 

 

p229

 

ポルトガル商人によって日本人が売買されたことは記録に

残っている。

 

 

==== 長崎という場所は、 いわゆる「からゆきさん」が

     売り飛ばされていた港でもあったということが、

     1900年代の初期にも記録されています。

     フィリピンのバギオ市が開発途上にあった頃にも、

     長崎で売り飛ばされた女性たちが、香港の日本人女衒

     を経由して、マニラに入ったという話があります。

     その当時は、フィリピンはスペインからアメリカ統治に

     変わっていて、アメリカ軍兵士のための吉原みたいな

     街が出来ていたそうです。

     そこには、日本人だけでなく、世界のあちこちから

     女性が集められていたようです。

 

「日本人の女は「売春婦」、男は「ならず者」だった」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-be3f.html

 

 

p221

 

岡本氏は「日本人奴隷の分布図は、まず十六世紀後半に

ポルトガル人の勢力の及んだ諸国にわたっていると見て差支え

ない。 遠くポルトガルまで連れて行かれた形跡がある」と

書いている。

 

1603年にゴアの市民が・・陳情書回教の中に 「日本においては

その民は近隣の回教国へ平然と売られ、毎年船にて積み出されて

ついに回教に帰す。 ・・・」

 

・・・ポルトガルが占拠する東インド、マラッカ、マカオでは

これらの日本人男子は忠実で勇敢な兵士として欠かすことが

できない人材だった・・・・

・・・女性の奴隷ははるかに悲惨であった。

・・・性的奴隷にされたからである。

 

p234

 

この武士は嬉しそうにこういった・・・・

「・・・この迫害はこれからあとずっと続くことでしょう。

・・司祭がたを殉教へとお導きになるかも・・・

・・・ともに死ぬ覚悟ができています

こんな話を聞いて神父らははじめてぞっとしたであろう。

実際、日本の武士は暴君の恐ろしさを知っていてキリシタンに

なったのだから、最初から命がけだった。

・・・でもコエリョたちはまったくそういう事態を覚悟して

いなかった。 いっしょに死のうなどと言われて彼らは

さぞ震えあがったにちがいない。

 

=== そりゃあそうでしょうね。

    日本の武士はいつでも切腹する覚悟はできている。

    自分で死ぬか、殉教するかの違いはあるけれど・・・

    ポルトガルの神父にしてみれば、征服あるいは布教に

    来たわけだから、殉教という栄誉があるにしても、

    遅れている国で それが現実のものになるとは・・・

    ただし、その後、長崎での殉教が世界に知れ渡る

    ようになると、フィリピンなどでは日本に行きたいという

    神父がたくさんいたようです。

 

 

p237

 

フロイスの「日本史」のなかには、もし出版されると

国家間の問題になるようなあまりにも多くのこと ――

内裏が貧乏だとか、将軍が愚かだとか、秀吉が欺瞞者だとか、

・・・ポルトガル人の宗教的先入主にうんざりするが、

・・別の面から見られた当時の日本のありさまが鮮明に

見えてくる・・・・

 

 

p238

 

秀吉の全国統一の最大の障害は、もはや一国二国の大名では

なく、多くの大名らを封建制とは別の価値観によって

結びつける「キリスト教」であったということに、

もう何年もたってからフロイスはようやく気付いたのである。

数多くの大名を感化した右近が狙われたのは、彼がその危険の

象徴だったからである。

 

 

p239

 

奴らは一見、一向宗に似ているが、予は奴らのほうがいっそう

有害であり危険であると考える。

一向宗が広まったのは百姓や下賤の者のあいだに留まるが、

伴天連らは、より高度な知識を根拠とし、日本の大身、貴族、

名士を獲得しようとして活動している。奴らの相互の団結力は

一向宗のそれよりも堅固である。

 

=== 一向宗(浄土真宗)がキリスト教に似ているという話は

    当時の宣教師の記録にもあるそうです。

    私が仏教のいろんな本を読んだ中でも感じたことですが、

    ブッダの原始仏教は哲学であって、それがその後

    中国に到達したころには仏教になっていて、

    法然さんの浄土宗の時までは、戒律と修行の仏教だった

    のが、親鸞さんの浄土真宗になって 一神教みたいな

    信仰になった・・・という感じです。

 

p240

 

「・・・予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを

欲しない。 ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを

集合せしめ、日本の諸国より退去せよ、と」

 

 

松浦家はもともと反キリシタンであったばかりでなく、

関白が追放する宣教師らをポルトガルの定期船が来る迄

集結させておく場所として平戸を定め・・・・

 

=== 私は長崎県出身なんですが、平戸市には松浦藩の

    平戸城があって、博物館にはいろいろなキリシタン

    関連のお宝がたくさん展示してあったので、

    てっきりキリシタン大名なんだと思い込んでいました。

    それに、最近にわかに隠れキリシタンの伝統的な

    ならわしも脚光を浴びていますし。

 

平戸城

https://www.hira-shin.jp/record/index.cgi?field=14

 

平戸の聖地と集落

http://www.nhk.or.jp/fukuoka/sekaiisan/kyokai/006.html

 

 

 

p240

 

この布告は・・・・

「日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、

甚だもって然るべからず候事」

 

・・これはすでに、信長が殺されたとき以来の伏線だったのである。

 

p241

 

日本が神の国であるとする宗教思想または信仰は神国思想

と呼ばれるが、それは基本的には国家神道や天皇制擁護思想

と結びついているものの、時々の情勢に応じて政治的主張や

体外的信念となってあらわれてきた。

 

p242

 

秀吉は宣教師の弾劾文を作らせたときに、この蒙古襲来当時の

排外思想と神道思想をよみがえらせたことはたしかである。

 

 

たいへんおもしろいことに、奈良哲三氏によると、

キリシタンの迫害がはじまった時期がまさにお伊勢参りが

発生した時期だった・・・

1622年に長崎で大殉教と呼ばれた五十五人の処刑があった

翌々年には神宮をめぐる「伊勢踊り」が大流行・・・

・・・伊勢参宮はキリシタンでないことを示すための、

あるいはカモフラージュのための民衆の一大パフォーマンス

だったらしい。

 

=== これに関連しては、長崎の「くんち」も

    諏訪神社のお祭りですが、キリシタンを排除するための

    ものだったとの話があります。

    さらに、熊本の天草市を訪問した時に、正月でもないのに、

    しめ縄が家々の玄関口に飾ってありました。

    地元の人に聞いたところ、「うちはキリシタンではありません」

    と示すためのもので、一年中飾るのが伝統になっているのだ

    そうです。

 

 

p244

 

思えば、大名が分立抗争する地方分権的な戦国時代こそが

日本に三十万に及ぶキリスト教徒を醸成させた社会的政治的

苗床であった。  秀吉が始め、徳川が完成させた中央集権

的封建制社会は、行為ばかりか心までもひとつに統制せずには

おかなかった。

 

西欧では、同じ十六世紀、まさに信仰の自由と個人の権利

封建制的な諸勢力と抗争をはじめ、それがやがて絶対主義

を崩壊させていったのだが・・・

 

 

=== これによって、日本の進歩は止まった。

    そして、日本のガラパゴス化が始まったということ

    でしょうか。

    自由主義、個人主義、民主主義が いまだに

    日本では本物になっていないと感じるのは、

    この日本の「ひきこもり」に原因があるのかも

    しれません。

 

 

 

< その33に続きます >

 

 

 

 

 

 

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2019年2月18日 (月)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その30 秀吉の九州征伐、大阪発の十字軍 高山右近

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p175

 

このように軍事に介入することは、危険なことであったので、

オルガンティーノと右近はこの話題を転換しようとしたが

フロイスはこの話題に固執した。 そしてこの話題こそ、

秀吉が最大の注意を払って聴いていたものだった。

 

ヴァリニャーノはオルガンティーノからこの話を聞き、

心底怒った。 ・・・戦国大名の猜疑心を知っていたので、

・・・実は秀吉の猜疑心が増すということを心配した

 

ヴァリニャーノはつぎのように書いた。

「・・・有馬と大村の領主や、豊後のフランチェスコ王が

危険にさらされたのを機会に、コエリョは彼らを助けるという

口実でそこに介入し、非常に無謀で軽率な行動に及んだ。

・・・キリスト教徒の領主たちをして全員結束して関白殿に

味方させようと約束した。・・・中国にわたるときには、二艘の

ポルトガル船を提供しようと言った。・・・」

 

p181

 

しかし、秀吉は長いあいだ朝廷・公家と信長のあいだにキリシタン

許可をめぐって対立があったことを知っていた。

・・・だから、「イエズス会を迎えた秀吉が公・武どちらの法を

継承するかは、すぐれて政治的決断を要する課題」であった。

 

 

p181

 

この段階では、(信雄が生きていたので)、秀吉は信長の政策を

継承してみせることで正統的なポスト信長継承者であることを

印象づける必要があったとも清水氏は言っている。

 

 

=== この時期の秀吉の政策というか戦略は本当に

    巧妙というか、よく考えられていますねえ。

    猜疑心から出ているとしても、その秀吉の心の内を

    見抜けなかったコエリョやフロイスは、結局

    大きな迫害が起こるとは思ってもいなかったのでしょう。

    秀吉は単純じゃなかった。

 

p182

 

秀吉は天下を掌握したあと、草創期に大いに秀吉に貢献した

有能な人間を多く処分してしまっている

軍功あらたかな秀長がそうであり、千利休がそうである。

 

実際、大友宗麟は・・・「ここですべてを仕切っているのは秀長と

利休である」と家人に書いている・・・ 右近もまた処分された

側近である。 ・・・そうやって彼は人間を使い捨てた

キリシタンもまた使い捨てられたのである。

 

==== ああ、正に、規模は違えど、 現代のブラック企業と

     同じ使い捨て・・・・

 

 

p184

 

性的に放縦であり、女漁りに目がなかった秀吉は、キリスト教徒の

純潔と夫婦間の貞節が信じがたいものに見えたが、そのいっぽうでは、

そうした清潔な人間のことは尊敬もした。

 

 

p185

 

右近、行長、黒田孝高、蒲生氏郷らのキリシタン武将は、秀吉に

とって彼らの敵である仏教徒の島津を滅ぼし、大友、大村、有馬

キリシタン領主を救うための「聖戦」に駆り立てることのできる

利用価値の高い者たちだった。

 

 

p188

 

これは如水の先見の明であった。 ・・・黒田はじつは自分が天下を

取ることを内心考えていて、それを秀吉に見透かされたというのである。

 

p189

 

如水は政界から去ることで秀吉の警戒心を避けたが、秀吉への

憎悪は深く、関ヶ原では父子ともに家康側に着いた。

・・・息子の長政は禁教令下に生き延びるため、黒田家と

キリシタンとの関連を示す文書その他を抹消した。

 

=== これはまた、サラリーマンじゃないけど、

    生き残るのは大変だったんですねえ。

    その為には 自分の家の歴史さえ抹消しなくちゃ

    いけなかった。。。。。

    そういう意味では、日本で書かれた記録よりも

    外国人が書いたものの方が客観的であるとも

    言えるのでしょう。

 

p191

 

九州征伐は、キリシタンの武将たちにとって一種の十字軍

なった。 ・・・「大阪で予は関白の出陣を目撃した。・・・

彼らのある者は紋章、兜、ひざに亦武装のうえに十字架を

つけていた」。 ・・・・右近がこれらの軍勢の指揮者で、

・・・ ある者は着物にも十字架あるいはイエスの苦難の

しるしをつけていた。 ・・・そのなかには美しいロザリオを

かけた者も・・・・」

 

・・・九州に着いてから右近に多数のキリシタン武士が

加わった。  

・・・ 本隊に先立って出陣していた秀長と黒田が日向を征服、

・・・ 先陣は大友義統、黒田孝高、・・・・

 

 

=== こういう場面を大河ドラマで見てみたいもんですね。

    キリシタンの派手な装いの軍団の姿を。

 

 

 

p192

 

秀吉は・・・肥後の八代で・・・

フロイスにこう語ったそうだ。

「・・・中国にわたり、その国を征服する決意であるが、

ポルトガル人がこれを喜ぶや否や」。

 

・・・「ポルトガル人らの答えを聞くと、関白は無上に満悦した。

・・」

 

どうやら「ポルトガル人ら」は秀吉の中国征服計画を支持した

としか思えない。

 

p193

 

秀吉は定期船が堺付近の港に来ることを強く希望した。

 

どうもこの時点では秀吉は世界と通商する偉大な日本の国王に

なるつもりだったらしい。

 

=== とりあえず、今のところは、信長の意志を継いでいる

    という形もとらなくちゃいけないし・・・・

    ここら辺りも、ポルトガルの真意を探るための

    やらせっぽい部分だったのか・・・・

 

 

 

p195

 

秀吉は・・・大友には父祖伝来の豊後を安堵した

しかし、これが定まる前・・・大友宗麟はその苦悩にみちた

生涯を終わった。

 

この再配分で、その貧しさやよるべなきを中傷された

伊東マンショの叔父伊東祐兵は揖斐と日向の一部をとりもどし

結果としてマンショが近親であることが証明されることになった

のである。

 

=== 良かったねえ、伊東マンショ。

    これで、いろんな中傷を結果的に跳ね飛ばすことが

    できたわけですね。

    ・・さて、次回はいよいよ、決定的な瞬間になっていきます。

 

<その31に続く>

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その29 現代は ブラック企業の強制労働 と 秀吉時代の武士道・・??

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

2017_02_toyotomi_hideyoshi_koudaiji

 

=== さて、本能寺の変。

    百花繚乱の説の中で 「天皇・朝廷黒幕説」を

    展開中です。

 

003

p154

 

本能寺の記録を生々しく伝えたふたりの公家、吉田兼見と

勧修寺晴豊が、誠仁親王の意を受けて終始動いていたことが

浮かび上がってくる。 

・・・公家、近衛前久も事件に相当関与していたものとみられる。

 

光秀の軍勢が信長を討ったあと、長男の信忠を討ちに行き、

彼が籠った二条城を攻めた時に、隣には近衛の屋敷があったので、

その屋敷から二条城に向けて矢を放ったという記録が

「信長記」にあり・・・・

・・・前久はその後信孝に詫びを入れるために出家し、・・・

 

 

p155

 

甲州を攻めた時・・・・

信長は「近衛、わごれなんどは、木曽路を上らしませ」と

言ったというのだ。 これは「暴言」だとされた。

というのは太政大臣を「近衛」と呼び捨てにした・・・

 

 

p155

 

秀吉は・・・光秀亡き後、天皇と直結した公的な朝廷

守護の武将に昇格した。 ・・・あとは織田の血筋を

断ってしまえば秀吉の天下である。

 

 

p159

 

光秀の最期のようすについても外国史料と日本側史料は

まるでちがう記述をしている。

イエズス会年報では、光秀は勝竜寺城から坂本城に逃亡

するため農民に報奨金を出して道案内を頼んだが、その

農民は刀と金を奪うために光秀を殺したと不名誉な

死にざまを書いているのに反し、「明智軍紀」では、

・・・農民に腹を刺され、近臣溝尾茂朝に・・・介錯されて

自害したという、・・・

 

p161

 

 

日本ではキリシタン側の史料は一般に低くみられる傾向

あるが、実際にはその記述は相当に公正である。

彼らにはだれかを栄光化する必要がない。

ただし、キリシタンは別である。

 

「わたしが修道院から見ていたところでは、明智の軍勢が

武器を捨てて退却しながら修道院の前を通過するのに二時間も

かかった」などというふうに一人称で書かれた部分は、とりわけ

史料価値が高い

 

・・・歴史家としては余計な配慮や作為があまり入り込むひま

のない同時代の史料を第一に信用するしかない。

 

=== この辺りは、様々な個人的、立場的な原因に繋がり

    そうな事情がたくさんでてくるんですが、

    それが記録されるときには、不都合なことは

    省かれたり、いわゆるフェイクが書かれたりするので、

    歴史家としては史料の読み方に注意しなくちゃ

    いけないっとことが何度も繰りかえして述べられて

    います。

    まあ、私などは研究家でもなんでもないので

    只々 面白がって読むだけなんですが・・・

 

p162

 

キリシタン側の史料の特色は・・・

日本の公文書作者に固有の紋切り型文章ではなく、いわゆる

リアリズムで細部を記述するところに特徴があり、・・・・・

・・・覚めた冷静な観察を行っていることである。

 

信孝と秀吉は明智軍の首を・・・・・最初千を超す首が

信長の供養のために晒されたが、このときの本能寺界隈に

ただよう臭気について語るところは特徴的なリアリズムだ。

 

「・・・あまりにもひどい臭気を放つため、その方向から

風が吹いてくるときには窓を閉めなければ教会にとどまって

いられないほどだった。 ・・・数人の男があたかも羊か

犬の頭を運ぶかのように三十以上の首を数本の縄に吊って

もってきたが、彼らの顔には一片の感情もなかった。・・・」

 

 

p164

 

宣教師たちは各地で起こった殺戮を報告した。

子供が優美な人たちであったというくだりには、

「ヨーロッパの貴族のように」というところは余計だが、

滅んでいった光秀一門へのあわれみがある。

 

 

p165

 

信孝は、宣教師たちが深く期待を寄せる君主であったが、

しかし、それゆえにこそ、もっとも君主になっては

ならぬ人物であった。

 

 

p166

 

フロイスの書簡では、いっそうくわしく勝家の最後の盛大な

酒盛りや、それに続く女子供の殺害、最後に上がる火の手に

ついて書いている。 宣教師は、燃え上がる炎の音よりも

悲鳴のほうが高かったといい、幼い子供の年齢や涙を少しも

顧みない、この野蛮な風習を嘆いている。

 

 

p168

 

秀吉が大阪城の建造にどのような権力を行使または誇示したか

をリアルに報告しているのはやはりイエズス会年報である。

秀吉の「偉業」を賞賛するだけではない冷静な視点が

ここにある。

 

「この工事において万人がもっとも不思議に思い、また驚嘆と

畏怖の念を抱いたのは、かくもおびだだしい石材をどこから

集めてくるかということだった。 ・・・ジュスト右近殿が

陸路を一里、海路を三里も運ばしめた石のごときは、輸送に

千人の人手を要し・・・・・

 

・・・堺の町だけでも毎日二百隻の石船・・・

尋ねてみた。・・千隻以上であることを認め・・・

・・・たとえ一個でも盗んで・・・・ただちに斬首された。

・・諸侯を・・・果たしていない者があると・・・

追放し、その封禄や領地を没収した。

 

・・・強制労働に従事している人々(それは奴隷ではなく

武将たちだった)の信じがたいほどの労苦や経費・・・

 

彼らの多くは遠国、僻地の者だったので、多大の経費と

責任を負わされ、あらゆるものを国許からとりよせるしか

なかった。 ・・・刀剣、鉄砲、甲冑、鞍、・・・それらを

二束三文で売り払って生活していた。

・・・彼らを支配し謀反や反乱を企てる機会や時間を

与えない・・・・

・・・絶望のあまり・・切腹して死ぬ者もかなりいた。

・・・彼らがよく苦しみから抜け出すことができたと

いって、それを勇敢で賢明な行為だと賞賛した」

 

ローマの昔から・・・当然蜂起や反乱を呼ぶはずなのだが、

日本では自殺が唯一の解決として賞賛されたという・・・

 

・・西洋史を学んだ人間にとって日本はまさに異文化の国

である。 だが、これが私たちの国の歴史なのだ。

 

=== これにはさすがに驚きました。

    農民などではなく、武将が強制労働をさせられ、

    挙句の果てに切腹というよりも自殺を図って

    苦から逃げ出した。

    そして、それが賞賛された。

 

=== ここでちょっと「武士道」という言葉が気になった

    ので、下のリンクをご覧ください。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/武士道

 

「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、江戸時代

初期に成立し、原本が武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記と

される『甲陽軍鑑』である。ここでの武士道は、個人的な戦闘者の

生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および

一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。」

 

「武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である

「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。

なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、

「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。

この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われる

ような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」と

いった考え方は当時は主流ではなかった。体系付けられた

いわゆる武士道とは言えず、未熟である。」

 

=== つまり、まだ信長や秀吉の時代には「武士道」という

    観念があったわけじゃないという話です。

    主従関係は契約関係・・・ってことは、

    この場合は正に「ブラック企業」のおぞましい契約

    という実態だったわけですね。

 

    さらに、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と

    上記の「自殺」がどういう関係になるかなと思って

    下のリンクでちょっと考えてみます。

 

葉隠 「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

https://ja.wikipedia.org/wiki/葉隠

 

「『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期1716年ごろ)に書かれた書物。」

 

「そのような解釈は全くの見当違いである。葉隠の真意は、自己を

中心とした利害に基づく判断からの行動は、結局のところ誤った行動

となってしまう。そのため、本当に最良の行動ができる心境とは、

自己を捨てたところ、すなわち自身が死んだ身であるという心境から

の判断であり、そのような心境から得られる判断が、自分も含めた全体

にとって最良の結果を生むというところにある。」

 

=== 江戸時代中期になれば、このように

    「自身が死んだ身であるという心境からの判断」   

    というのが真意ということなんですが、

    秀吉の時代には、そこまでは行かず、

    正に「ブラック企業の慈悲のない強制労働」から

    抜け出すための自殺だったわけですね。

    今の時代とあまりにも似ているのでぞっとします。

 

p171

 

秀吉の九州平定にあたって、・・・少年使節の送り主で

あった大友、有馬らの殿とひさしぶりで再会する。

 

・・・1584年、竜造寺隆信は有馬の従弟大村を征服し、

有馬の大部分を支配した上で、有馬晴信に決定的打撃を

下そうとしていた。


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・・・有馬は島津に援軍を乞い・・・・竜造寺は敗北・・

 

・・島津は勢いを駆った日向、肥後、肥前、筑後を占領し、

その同盟者である秋月が筑前、豊前の一部を大友から奪って

いた。 ・・・豊後を残すのみ・・・・

 

 

秀吉は・・・・・大友・毛利間の和議を約束させ、島津との

確執について援助するという話し合いを大友とやっていた・・・

 

p172

 

秀吉は、いかなる代償を払ってでも、大友ならびにほかの

キリシタン大名の信用を獲得せねばならなかった。 それは

彼らを島津を倒すのに使うため、そしてつぎには、朝鮮侵略の

ためだった

 

 

秀吉は九州平定計画である「九州分目」を出した。

・・・そのなかに「高麗渡海計画」もあった

 

 

p173

 

秀吉は、正しい人柄のために、宣教師らに絶対の信頼を得ている

高山右近を司祭らのそばに座らせ、フロイスを通訳として

コエリョに向かっていかにも親しく胸中を語ってみせた。

 

 

p173

 

「・・太閤殿は・・・朝鮮と中国を征服すること決心し、

そのため木材を切らせて彼の軍勢を運ぶ二千の船を造るように

命じた」

 

「彼が司祭たちに助力を頼みたいのは、彼のために装備の整った

二隻の大型帆船(ナウ)を調達するように交渉してもらうようにこと・・・

 

p174

 

フロイスの報告書のつぎの部分は問題が多い。

「さらに、太閤は、日本の半分または過半数をキリシタンにする

つもりである、と言った。・・・・」

 

 

p175

 

フロイスがわけあってぼかしたこの会話の中身を、

同じくその場にいたオルガンティーノ・・・の書簡が補っている。

 

・・・ コエリョと同じく好戦的なフロイスは、太閤が九州に

進撃することを願い、それが実現したときには、副管区長は

九州の全キリシタンを秀吉側につかせるように尽力すると

言明したのである。

 

・・・・つまり、このとき秀吉は、宣教師がキリシタン大名を

戦争に動員することができるし、彼らを支配できる、ということ

を「確認」したのである。

これがのちの切支丹神父大弾圧の火種になった。

 

 

==== さて、さて、やっと 天正遣欧少年使節の

     おひざ元である九州に話が戻ってきたんですが、

     秀吉はここで、キリシタン宣教師と危ない話を

     していたんですねえ。

     それが、キリスト教大弾圧の導火線になった。

     宣教師側もうかつなことをしたものです。

     人間、調子に乗ってしゃべると ろくなことは

     ありません。

 

 

<その30に続きます>

 

 

 

 

 

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2019年2月14日 (木)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その25 その時 歴史は変わった 信長から秀吉へ

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 


003

 

その25までお読みいただき有難うございます。

ちょっと趣向を変えて、下の動画でもごらんください。

 

NHK番組 「その時 歴史が動いた」のふる~~い動画がありました。

「天正遣欧使節 ~日本の運命を背負った少年たち~」

なんと、この番組のゲストは この本の著者 若桑みどりさんじゃ

あ~~~りませんか。 びっくり!!

https://www.youtube.com/watch?v=g78PUj2_zik

 

この本をダイジェストにしたような内容になっています。

御用とお急ぎでない方は是非ごらんください。

 

私的には、千々石ミゲルが言ったという言葉

ところどころに出てくるので、もう大興奮です。

 

ただ、これも又 絵画の話なんですが、

この番組にでてくる「ラテラノ教会行幸図」というのが

亡くなった教皇グレゴリオ13世が実施したパレードだと

なっているんです。

この番組の中の絵と私が天草の博物館で撮影したものは

同じだと思うんですけどねえ・・・・

ちょっとこちらのサイトの絵でも確認してください:

イタリア聖地巡礼の旅日記

  http://sawarabi.a.la9.jp/07.07ITALY/11Roma2.htm

ラテラノ教会へ行幸する新教皇の行列に、4人の使節

も騎乗し参加しましたが、そのラテラノ教会へ向かう

その記念すべき絵「ラテラノ教会行幸図」が、バチカン

図書館シスト五世の間に残されていました。」


 

前回に書いたとおり、この絵は新しい教皇のパレードの

絵じゃないかと思うんですが・・・どうなってんだ??

 

おまけに、この番組の終わりに千々石ミゲルの墓

思われる墓石が発見されたと出てくるじゃないですか。

いいねえ~~~。

 

少年使節がリスボンに到着したのが 1584年8月11日で、

1586年4月12日ようやくリスボンを出てとありますから、

1年と8カ月ぐらいポルトガル、スペイン、イタリアなど

巡り歩いたということになります。

 

=== では、この辺で、若桑さんの本に戻りましょう。

 

p91

 

87年5月に、ゴアに着いた。

そこで彼らは待ちかねていたヴァリニャーノと再会した。

少年たちはもはや男の子ではなかった。・・・・

・・・ヴァリニャーノの手紙が、彼らを

「ラガッツィ(少年)」ではなく、「シニョーリ(紳士)」

書いたことからも推察できる。

 

・・・ラテン語とイタリア語とポルトガル語で話ができた。

彼らはさながら帰国子女であった。

 

=== おお、日本初の帰国子女の誕生ですか。

    しかし、日本語を含めて4か国語が出来るとは凄い。

    往復8年ほどの旅の間に・・・・

    私なんぞは、14年もフィリピンに住んでいるのに

    フィリピン語はさっぱりです。

    帰国ジジイにはなんの成果もありません・・・とほほ・・・

 

 

p91

 

信長は死に、1587年、その後を襲った秀吉は宣教師追放令

を出していた。

 

p92

 

マカオから教皇にあてたマンショの手紙は・・・・

「・・・・キリストの法は日本の仏教神道にとってよろしからず

そのほかの日本の立法にも反し、習俗にさからうものであるとして

宣教師らを国外に追放することを命令いたしました」

=== これは既に書いたように、天皇の意向が大きく

     影響していると感じます。

     もちろんスペインが侵略してくるという話も

     大きな原因だと思いますが。

 

p92

 

マルティーノに、長文のラテン語のオラティオ(演説)を

させることにした・・・・・

 

・・・なによりも感嘆するのは、この文章が示す驚くべき

教養である。 ・・・

 

・・・冒頭がボッティチェッリも描いた「三美神」の

寓話説明から始まっているのは驚きである。 つまり古代から

伝わる三美紳の新プラトン主義的解釈は、最初の女神が

与えた恩恵をそのほかのふたりが二倍に返すというものである。

・・・このことは・・・・日本人の名においてこのように

ルネサンス的人文主義の思想がしかも十六世紀にラテン語で

書かれたこと・・・・

 

・・・なによりも重要なことは、ゴアの西洋人たちが、

日本人少年の教養の高さを認識したということである。

 

=== このあたりの、著者の興奮の度合いは、

    上のNHK番組の中で 若桑さんがまとめの言葉として

    語られた「その時」の重要性が奈辺にあったかを

    示しているような気がします。

 

 

<その26に続きます>

 

 

 

 

 

 

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2019年2月 6日 (水)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その16 ついに出航、マカオへ 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

004

 

 

p513

 

シュッテは続ける。

「このような詐欺が、日本の大名の三家から抗議を受けないわけ

はなく、またこのような詐欺が通るほど法治国であるスペインは

甘くない。 さらに世界じゅうに布教地をもち厳格なコントロール

を布く教皇庁はなおさらである。」

 

 

p515

 

このフライ・ファルティンの「反イエズス会攻撃」は、印刷した

ものではバジャスの「日本切支丹宗門史」で読める。

 

p516

 

ヴァリニャーノの議論の大半は、このフライ・マルティンが、

スペイン帝国による日本征服論者であったために、これを攻撃し、

否定することに費やされているので、使節のことはほんとうに

すこししか比重を占めていない。

 

フライは長崎には三万人キリシタン武士がいるから、これを

味方にして日本を攻撃可能であると言っているが・・・・

 

p516

 

イギリス人学者のモラン氏によれば、この神父(フライ)は

「悪党で愚か者」である。 イエズス会はスペイン系の

フランシスコ会士が「はだしで日本にやってくること」

反対した。 したがってフライはイエズス会に敵意をもっていた。

 

=== 日本人なら「土足でやってきた」と言うところですかね。

              イエズス会はそれまでの経験で、日本では身なりが

    大事だと言うことが既に分かっていたらしい。

    そこへ、マニラ経由で遅れて入ってきた

    みすぼらしい格好のフランシスコ会などが布教を

    始めたので、今までの苦労がぶち壊されると

    思ったようです。 

    布教の方針がかなり違っていたのでしょう。

    それも、日本の状況がかなり微妙な時だった。

 

 

p517

 

太閤が憤慨して彼ら(フランシスコ会士)全員が処刑されたこと

について「殉教は彼らにとって善いことだった。 だが、キリスト

教全体にとってはこれはきわめて悪いことだった」と書いた。

殉教はキリスト教徒の最高の信仰の行為であるから、それについては

黙ってしまうほかはないのに、大胆で冷静なことばである。

 

ヴァリニャーノは、フランシスコ会士がイエズス会を悪く言う

ことで、日本でのキリシタンの立場全部がだめになると思い

そのために躍起になった。

 

 

p519

 

船出

1582年2月20日・・・・一行九人が長崎を出帆した。

 

 

p520

 

青山敦夫氏が「活版印刷人ドゥラードの生涯―天正遣欧使節の

活版印刷」という本を出され、この忘れられていた日本最初の

活版印刷工に光を当てた。

それによると、ヴァリニャーノが彼を一行に加えたのは、

使節の世話をするとともに、やはり西洋の印刷技術を習得

させるためだったそうだ。

 

p521

 

青山氏は、このドゥラードには日本名がないが、それは

彼はポルトガル人との混血児で捨てられたところを教会に

拾われ、そこで育ったからだとしている。

彼がひどくポルトガル語がうまいので、・・・有馬の

セミナリオに入れた・・・

 

青山氏の本は小説仕立てになっているが、史料はみな押さえて

あるので、なかなかおもしろい。

・・・感動的である・・・・たいへんだいじなことをしたのに、

歴史の下に沈んでいたもうひとりの少年が日の目をみることに

なった。

 

 

松田氏は、ドゥラードとは金銀細工師という意味で、父親は

諫早の金銀細工師で、家業に近い活版印刷事業のために

連れて行かれたと推論する

しかしポルトガル語で鍍金屋のことはドゥラドールというので

ある。 そしえドゥラードとは金に塗られた、鍍金されたもの

という意味で、文字のままとれば、「金色に塗られたもの」

ということである。 これはまったく私の推論であるが、

彼は金髪だったのではないだろうか

「史料がない」から推定である

 

==== なんとも面白い議論展開ですねえ。

     歴史家の権威に対して、チクリチクリとやって

     いるのがなんとも愉快です。

     しかし、日本語でも英語でも、同じ単語に

     複数の多くの意味があったりするし、

     特に漢字熟語なんてのは同音異義語が多いですもんね。

     英語から日本語、日本語から英語に

     翻訳するときなんかなは どれを選ぶのが

     正しいのか、背景が分からないと決められない

     ことも多々ありますしねえ。

 

松田毅一

https://ja.wikipedia.org/wiki/松田毅一

松田 毅一(まつだ きいち、192151 - 1997

518日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。

専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・

スペインとの関係史。 ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・

バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている

日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・

論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、

こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・

文化交流にも尽力した。

 

 

=== まあ、こんな歴史学の大御所を相手に、批判的に書いて

    いるんだから、この若桑さんは凄い。

    度胸があるねえ・・・

 

p522

 

ヴァリニャーノはこの船長の厚遇に深い恩義を感じていたので

マカオでもっと設備のいい、最新式の大型船に勧誘されたときに

それを断り、この小さい船に乗り続けた

ところが、その大型船は座礁し、ほとんどの乗員が死んだ。

もしこのとき誘いにのって大型船に乗っていたら、使節団は

インドに着く前に全滅していただろう。

 

 

====  おお、これは運命の分かれ道だったんですねえ。

      情けはひとの為ならず・・・・

      大きな最新型が安全とは限らない。

 

p523

 

ここで、これからの旅路については、たくさんの報告があるので、

それらを参照しながら、できるだけ信用のおける情報で

語っていきたいと思うが、いくつかの主な報告のなりたちや

特徴を言っておきたいと思う。

 

 

いちばん有名で定評があるフロイスの使節記は、じつは、

彼が使節に同伴していたのではなく、そのあいだずっと

日本にいたので、彼の報告書がおおよそそうであるように

実際に見聞したほかの宣教師の報告や書簡から編纂された

ものである。

・・・総合的であることはたしかだが、個々の事実の詳細

部分になると、彼個人が見たことではないので、誤りもあり、

生彩を欠いている。

 

 

同様に有名なサンデの「見聞録」は、事実上の編纂者は

ヴァリニャーノ、サンデはそのラテン語への訳者である。

・・・岡本良知氏によれば、ヴァリニャーノもメスキータ

およびそのほかの随行者、そしてなによりも使節ら自身から

記録をとって書いたものである。

 

・・・その主たる目的は日本の神学生の勉強のための

目的で編纂されているので、その内容は教化的、教育的で、

これで日本の神学生に西洋文化史を教えようとする意図がある。

・・・その目的が教化である以上、それをさまたげるような

ことは書いてないので、それはそう思って読む必要がある。

 

 

p524

 

岡本氏は・・・

「あらゆる記録がヨーロッパ人の作成にかかり、しかもほとんど

カトリック関係者が作るところであるから一面的

あることを免れない」と言っている。

 

 

日本人であっても、カトリック的な共感をもって書かれたもの、

逆に、非キリスト者の立場や、日本のナショナリズムの立場

を強調するものなど、いろいろである。

 

 

私は、宗教はあまり関係がないと思っている。

もしカトリック側の史料が全部だめなら、西洋人の多くが

カトリックだから、西洋史がなりたたない

客観的であろうとしていることと、狂信的な信仰心で

事実を誇張したり、ゆがめているということさえなければ

それでいい。

 

・・・書いてあることを鵜呑みにしないということが

われわれにはいつも必要なことである。

 

=== 確かにもっともなんですが、

    批判的に読むというのが難しいからねえ・・・

    それに、そもそもポルトガル語もスペイン語も

    イタリア語も分からんし。

    翻訳が正しいかも疑い始めたらきりがない。

 

p525

 

最大の問題は、ヨーロッパと日本の双方を同時に眺めようと

する視野が今までなかったことだ。

・・・なにしろ、まったく異なったふたつのものが出会って、

稀にみるこの時代ができあがったのだから。

 

 

p526

 

サンデの「見聞録」は、さすがに、ミゲル自身の口を借りて、

出発時のありさまをこんなふうに書いている。

 

「・・・今にも出帆せんとしていたわれわれに少なからぬ

障害を(人類の敵)は加えようと謀った。・・・

・・われわれの母たちは、・・・いよいよわれわれがすっかり

旅支度をととのえ、出帆の用意もすべてできあがったのを

見ると、今さらのように祈りをあげ、涙を流すなど、・・・

・・・この旅行から呼び戻そうとした。」

 

p527

 

「・・・この誓いを破ったとあっては、われわれの名を汚す

ことになったのだ。 とくにそれを、眼の前に恐怖や脅威を

つきつけられて破るとあっては、なおさら不名誉である」。

さすが十三歳でも武士の子である。

 

 

p528

 

家族に泣いてもらえなかったのはドゥラードだけではなかった。

正使であるマンショの母と家族がこの遠方まで来ていたとは

考えられない。

 

====== さて、そろそろ、出帆の状況が始まりました。

       ここまで、527ページはイントロだった

       んですねえ。 長かったなあ~~~。

       途中でめげそうになりました。

 

それほど遠くない昔、ヨーロッパに船で向かった日本の

若者がおおぜいいた。 横浜の港が見えなくなったころの

暗い海の記憶、その恐怖と寂寥は私の思い出のなかにもある。

 

=== これは、著者の経験とのオーバーラップですね。

    まだ、飛行機でちょっとひとっ飛びういうわけには

    いかなかった留学生。

 

p529

 

少年たちは船酔いに苦しみ胃液まで吐いてのたうちまわった。

このときマンショだけは平気で、みんなの苦痛を「笑って見ていた」

しかし、マンショに言わせれば、酔って苦しんでいたほうが、

死の恐怖と向かい合っているより楽だったそうだ。

 

=== 私は完全に「胃液まで吐いてのたうちまわる」タイプです。

    実際に中学生の時の修学旅行は地獄でした。

    バスで私の隣に座ってしまった荒木君には今でも

    時々すまなかったと思いだします。

 

 

この少年たちのなかでなにかと話題を提供するのは人気の

高いミゲルで、お坊ちゃんでかわいらしく、母親にも愛されて

育ったので、やさしいところがあり、仲間にも宣教師たちにも

もっとも愛されていた。

 

=== ほお~~、もっとも愛されていたミゲルが

    迫害に加担したとされ、棄教したとされ、

    最後には「悪魔の子」と言われるように

    なったわけですか・・・・

 

マンショは責任のある立場を意識しているせいか、または性格

からか、常に正しい姿勢、動じない平静さを崩すことがない。

口数は少なく、端然としている。

 

=== 伊藤マンショは筆頭の正使ですから、それなりに

    その性格などをしっかり見て選ばれたんでしょう。

 

 

十七日め、3月9日には船はマカオに入り・・・・

・・・そのころのマカオはポルトガル商人やイエズス会宣教師

でにぎわっていて・・・

 

 

司教館は今も残っている。 ・・・壮麗としか言えないような

大聖堂は正面壁を残すのみだが、・・・ この廃墟のなかの地下室

には、マカオで死んだイエズス会宣教師らの墓が安置されている。

じつはここにマルティーノが眠っている

 

=== この壁だけが残る大聖堂。

    聖ポール天主堂跡

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/聖ポール天主堂跡

「この遺跡は、今、南側の石造りのファサード(イタリア人の

イエズス会士カルロ・スピノラのもとで、本国から追放された

日本人キリスト教徒と現地の職人によって、1620年から1627年の間に

複雑に彫刻された)と、この天主堂を創設し維持したイエズス会士

の地下納骨堂からなっている。」

 

「日本人キリスト教徒の殉教者や、イエズス会の神学校コレジオ

のマカオでの設立者アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父を含む

修道僧の遺骨とともに、数多くの宗教遺物も一緒に発見された。」

 

https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201703130000/

原マルティノはマカオで帰天。享年60歳。

 遺骸は(今は正面のファサードだけが残る)マカオの聖ポール

大聖堂(写真)の地下に、自らをローマに送ってくれた生涯の師

であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られている。」

 

 

 

p530

 

彼らは風を待って十カ月もマカオに逗留した。

・・・そこで使節らは語学と音楽を学習し、イエズス会の

宗教儀式に参加して将来の司祭職の準備をした。

 

 

 

<その17に続きます>

 

 

 

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2019年2月 4日 (月)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その10 天皇のキリシタン追放令と織田信長

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

009

 

p338

 

高山ダリオは五畿内における最強の大名であった大和の領主

松永久秀の有能な家臣として沢城を預かっていた。

もともと摂津高山出身で、先祖は宇多天皇の皇子敦実親王だと

されている。

 

日本の歴史家も、もろもろの史料にもとづいて、彼の偉大な

容貌、剛勇、すぐれた騎手、有能な武将、明朗快活、愛嬌あり、

上品な教養、領民への思いやり深く、多くの慈善をなし、

慈悲心あり、高潔、廉直、正直、つまりは「理想の武士」だと

している。 

 

=== ちょうどこれを書いていた時、NHKの「知恵泉」で

    松永久秀のことをやっていた。

    松永久秀は悪の権化みたいに言われているが

    最近の一次史料に基づく研究では、主君殺しや将軍殺し

は濡れ衣であって、下剋上は都合が悪い徳川時代の

創作であり、本当はとても主君思いの実力者であったと

いう話であった。

    主君の三好長慶は、当時は足利将軍をしのぐ勢いの

    三好政権を作った大名であったらしい。

 

 

p339

 

仏僧とキリシタン神父の「宗教論争」はこのころしばしば

行われたのである。

 

琵琶法師ロレンソ・・・・・

みごとな語り口で多くの日本人を教化してきた実績と自信が

あって、・・・・とにかく学者と日本語で議論することが

できるのはそのころはロレンソしかいなかった。

彼は盲目であった。

 

 

ロレンソはまず宇宙には作者がいることと、人間の霊魂の不滅

について数日間にわたって話し続け、ひっきりなしに討論したが、

聞いていた高山は自分の目からウロコが落ちるような気がした。

 

討論の相手もふたりの吟味役もキリスト教に入信してしまった・・

 

ふたりの吟味役の改宗は、ふたりが名望のある人物であったから、

周囲に深い影響を与えた。

 

=== 論争した仏僧と審判が 論争の末に改宗しちゃったと

     言うんだから、それはまあロレンソが論客だった

んでしょうね。

たった今、壇蜜のタイでのロケ番組をやっていたん

ですが、仏教も輪廻転生があるとはいいながら

私には霊魂の不滅を意味しているような気が

するんですけどね。 まあ、この当時のキリスト教は

黒人を動物とみなして、人間の霊魂はないような

扱いをしていたそうなんで、ちょっと不思議な

感じがしますけど。

 

私の個人的な最近の「信じてみたい」理屈としては、

最先端の素粒子物理学のアメリカの学者だかが

「意識」というものは素粒子レベルに属する

いうようなことを言っているらしいんです。

もしそうだとするならば、それがもしかしたら

魂が不滅だということだったりしたら面白いなと

思うんですけどね。

この宇宙の95%はまだ人間にはみえていない

暗黒物質みたいなもので出来ているらしいし、

巷の噂では、前世のことを覚えて生まれてくる

子供もいるとかいうし・・・・

 

 

p343

 

信長にとって、まさしく、天皇の命令を尊重してキリシタンを

追い出すか、またはそれを無視してキリシタンを保護するかの

二者択一の瞬間であった。

 

和田、高山の尽力によってついにフロイスは・・・信長と将軍に

会うことになったが、それに先立って、このことを知った朝廷

から、将軍義昭にむけて、信長をして宣教師を追放させるように

との要求があった。

 

そのことを頭に入れておくと、

和田に頼まれてフロイスに会ったときの信長のふしぎな態度が

よく理解できる。

多くの歴史家はなぜかこのときの態度を別の理由にしているが。

 

=== 朝廷が宣教師を追放するように元々言っていたのに、

    なぜか多くの歴史の専門家がこのあたりの事情を

    十分には考慮していないと この著者は不思議に

    思っているわけです。

 

 

 

p344

 

「信長は奥に引っ込んで音楽(能楽?)を聴いていた。

彼はもっと近くでパードレに会い、話をしたかったのであるが、

これがはじめてのことで、いろいろなことを慮ってそうは

しなかった。・・・・ 信長は進物品を見終わってから、

そのうちの三つをパードレに返させて、ビロード帽だけを

とった」

 

そのまま宣教師たちは退出した。つまりこの第一回のときは、

信長はじかに引見したとは言えない

 

=== 相手がどんな連中かが分からないし、

    朝廷から追放しろとも言われていることだし、

    正式に引見したという形にはしたくなかった・・・

 

 

p347

 

シュタイシェンは、「信長は何人にも、一度として外国人にも

恐れを抱かなかった。 彼は秀吉や家康が当時日本に住んで

いた外国人に心から恐怖を抱いていたのに反して、自分自身

ならびにその祖国の実力について確乎たる信念をもっていた

からである」と書いている。

 

 

p348

 

松永のことばのなかには、すでに後代の決まり文句が出て

きている。 つまりキリスト教は日本の国を破壊する

忌まわしい宗教だという考えである。

 

信長自身、この国家のなかの国家のような仏教の勢力を

なんとかしなければ天下を真に掌握できないと思っていた

のである。 だから、遠くから来た宗教がこうした仏教の

専制的支配を崩し、少なくとも、相対化して平地にして

くれるのならば、それは大いにけっこうだと思っていた。

 

=== 信長は神も仏もあるものかと合理的に考えて

     いたわけだから、天下を取るためには

     キリスト教もうまく利用しようとしたので

     しょうか。

 

 

信長は・・・・もう一度来て対面するように言った。

 

・・・行く先は屋敷ではなく、工事現場だった。

信長はこのとき二条城を建設中だった。

 

p351

 

彼らの会話は戸外でおおぜいの群集の前で行われていたので

(それが信長の狙いだった。 密室ではなく、工事現場を

借りて、公開の引見を行うことで、群集になにが話された

かを知らせることが最初からの目的だった。 むろん、そのなか

には心配してまぎれ込んでいた仏教の僧侶たちがいることも

わかっていた)、・・・・・

 

=== なかなかの策士というか、公明正大というか、

    仏僧、ひいては朝廷にも信長の考えを

    聞かせようとの行動だったわけですね。

 

 

p358

 

信長がしばしば口にした「彼らは日本人が見たことも聞いた

こともない遠方の大きな国からやってきたのである」という

ことばは、信長が、国内ではなく、国外にまなざしを

向けている人間だということを示している。

 

 

彼が喜んで神父からもらったもののひとつに地球儀がある。

その後、安土において多数の武将がいるところで、

オルガンティーノとロレンソと信長は三時間も論議をした。

宣教師らの知性を愛した。しかし、宣教師たちのどの報告を

読んでも、彼らは信長が宗教に関心があったとは書いていない

信長は、彼らがほんとうに来世を信じているとは信じなかった。

 

==== 信長の興味は宗教にはなかった。

     世界征服をするための道具・方法が欲しかった

     ってことでしょうか。

     ポルトガルやスペインがやっているやり方を   

     盗み取ってやろうじゃないか・・・・

 

 

p359

 

信長はあるとき、フロイスに向かって、

予はおまえたちの神を信じない。日本の神も仏もだ」と言った。

もしそれがほんとうなら、信長がキリスト教を保護したのは、

政治的な理由のためである。

 

 

p370

 

信長は仏教徒との戦争に、キリシタン兵士を数多く用いたのだ

という推測ができる。 1527年にカトリック総本山

ヴァティカンを襲撃略奪した皇帝軍に、多くのルター派の兵士

がいたのに似ている。・・・信長が仏教勢力を屈服させる梃子

としてキリスト教を用いたということは概略わかっているが、

一向一揆合戦にキリシタン兵士を使うということは知らなかった。

 

・・・いっぽうでは、キリシタンは、信長を仏教を滅ぼす

神の手だと思っていた。

 

=== キリシタンはキリシタンで、信長を利用したかった。

      お互い様ということですか。

 

 

p374

 

それまで、通常貧民の死体は賤しい人によって火葬場に運ばれて

いたが、(高山)ダリオはこれを禁止した。 彼は、最下層の人間でも

名誉ある葬儀をしてもらう権利があると言い、ときに身寄りのない

貧しい者の棺を息子の右近とともにかついだ。

 

=== 日本には穢れ思想がこの時にはあったから

    こういう慣習もあったんでしょうね。

    そこに大胆な意識の変革を求める宗教が入ってきた。

    子殺しや親殺しが当たり前の乱世でこういうことが

    出来たというのも画期的なことだったんでしょう。

 

 

p377

 

こうして信長旗下の最大のキリスト教保護者和田惟政を殺してから

七年後、同じ荒木村重は信長自身に向かって弓をひくことになった。

その謀反の原因はフロイスの「日本史」によれば、やはり仏教との

深いつながりに端を発している。

荒木は石山本願寺包囲の際に、包囲された町内に食料品を供給

させたそうだ。

 

 

p378

 

信長はひっきりなしに謀反を起こされており、1577年には

松永久秀が天下をとろうとして叛旗をひるがえし、いままた

1578年に荒木村重が同じく叛旗をあげた。彼もその周囲の

武将も、信長を倒して天下をとろうと思ったに相違なく、

しかもいずれもが仏教信者であった。

・・・三回めが明智であって、突然ということではない。

 

=== 荒木村重は 優柔不断だったという話もありますね。

      だから、惨めな結末になってしまった。

      こういう話になってくると、本能寺の変は

      天皇や仏教界が裏で動いていたんじゃないかと

      思えて来ますね。

 

 

p384

 

オルガンティーノが驚きのうちに考えたことは、もし右近が

信長の味方をしたら、信長のキリシタンへの保護は異常な進歩

をするだろうし、もし右近が信長の敵になったら、予想も

できない大迫害が起こるかおしれないということだった。

 

・・・父子は人質の問題さえかたづけば信長の味方に

なると答えた。

 

p385

 

もしもこのことがうまくゆかなければ、疑いもなく信長は

ロレンソやイエズス会士たちを皆殺しにするだろうから、

ぜひ村重に和平を説得してくれという手紙である。

 

・・・この間の事実関係は、宣教師のあいだでも、日本側

史料のあいだでも、くいちがいがあって・・・・・・

 

 

=== このあたりは、話がごちゃごちゃしていますんで、

    本をしっかり読まないと筋が分かりません。

    お買い求めください・・・笑

 

 

p394

 

和平交渉は三たび決裂した。 信長は有岡に人質として残った

村重の妻子、親戚三十六人を京都で斬首し、百二十人の女を

尼崎で磔にし、五百四十人を火あぶりにした。

 

信長の残酷は戦国大名の常とはいえむごいものがあるが、

もともと主君に反乱をはじめたときに、村重にはなんら

正当性はないのだから、負けたとなったらあっさり城など

あきらめて裸一貫になればよいのである。 そうすれば、

婦女子の血が流れることもなかったものを、すべてを

捨ててすべてを救った右近とはまさに対照的であった。

 

=== しかし、それにしても、36+120+540

    の村重派を女子供も関係なく殺したっていうのは

    確かにむごすぎますね。

    潔くなかった村重の罪なんですかねえ・・・

 

 

p395

 

信長はオルガンティーノに恩義を感じ、彼に約束したように

前にもまして絶大な保護を教会に与えるようになった。

まさに、この1578年(天正6年)から信長暗殺の

1582(天正10年)が、日本キリスト教の絶頂期

をかたちづくる。 そしてこの絶頂期にヴァリニャーノは

日本に来て、信長に会い、使節を連れて去ったのである。

思えば、天正少年使節とは、この絶頂期が生み出したもの

であった。

 

 

p395

 

信長は安土にいかなる宗教施設も建立させなかったにもかかわらず、

キリスト教会と住院の建立だけを許可し、しかも、城山のふもとに

建てることを許可したのである。

 

 

p396

 

信長の城は非常に高い所にあり、約三百の階段を昇ってゆく。

・・・山の頂上ははるかに大きく堅固な壁で囲われ、その内に

主たる城がある。 城は七層あって・・・・・

 

外部の壁はいとも白く、最上階のみは、ことごとく金色と青色

で塗られ、・・・外から見る者には薔薇か花に金を塗ったように

みえる。

 

 

p397

 

今は永久に消えてしまったこの豪壮な城下町では青い瓦の

家は信長の安土城とキリスト教教会のみであったということに

なる。 

・・・しかし、この城は天正四年から天正十年までわずか

六年しか地上に存在しなかった。 焼失後秀吉が修復したが、

それも九年足らずの命であったために、その記録は

ほとんどない

 

 

=== 安土城があった時が、キリスト教の最盛期だった。

    そして、教会だけがその目と鼻の先に許された。

    よっぽど信長は仏教が疎ましかったんですねえ。

 

 

p397

 

 

信長はこの壮麗な城と城下町を・・・狩野永徳に描かせ

・・・この「安土城下町屏風」は、ローマ教皇への

贈り物として、巡察師ヴァリニャーノに与えられ、

少年使節とともにローマに行き、ヴァティカン宮殿に

収められた。 今それは理由不明のままゆくえが

わからなくなっている。 

 

 

=== 屏風。 残念ですねえ。

    控えみたいなものは無かったんでしょうか?

    この屏風はかなり華奢な作りだったそうで、

    ローマでのメンテも難しかったんだろうという

    話が出てきますけど・・・・

 

    それに、下のような復元の話もありますが、

    手持ちの史料はどんなものなんでしょうか・・・

 

「信長の安土城復元へ 夢の構想も費用・設計図どうする」

https://www.sankei.com/west/news/190130/wst1901300002-n1.html

「安土城については以前から復元を望む声があるが、詳しい

史料がないため進んでいない。いわば滋賀にとって長年の懸案。

それが、ここにきて本格的な検討が始まったのには幾つか理由がある。」

 

|安土城復元図概要|

http://www.bisaikou.com/azuchi_nobunaga/nobunaga3.htm

 

 

 

<その11に続きます>

 

 

 

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2019年2月 3日 (日)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」を読む - その8 武士の子は気ままだが大人

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

03_096_2

 

p290

 

戦国時代の少年は十三か十四で成人とみなされ、また大名や、

武家の大身の場合には、嫡出の男子はもしもその父親が敵に

負けた場合には血統を絶やすために必ずと言っていいほど

殺された。 ・・・・

 

・・・子供らは、大人と同じようにいつも生命の危機に

さらされていて、死の覚悟をさせられていた

 

また二男三男は他家の血統を継ぐため、または自分の家の

口減らしのため親元を離れて養子にやられる。

または最悪の場合、人質に出されてまさかのときには

殺害されることはしばしばであった。

 

・・・よくも悪くも自分の生死については自分で考えるほか

はなく、いやでも自立しないわけにはいかなかった。

 

 

=== 武将の息子が早く大人になるのはこういう事情  

    があれば当然のようにも思えて来ますね。

    中学生で、大人ですよ。

    もたもたしてらんないもんねえ・・・

    現代の日本人はそれにくらべて・・・・・

    これが本当の平和ボケなんだろうか。

 

 

p291

 

ヴァリニャーノは・・・・第二世代の少年たちがおおぜい

育っていることに注目せずにはいられなかった。

・・・「真の」キリスト教徒になり得る条件を備えている・・・

その条件とは知性である。

「日本の少年はわれわれの国の少年よりもはるかに早く

ラテン語を覚える。 彼らは知性があり礼節がある。」

 

・・・学校で教育さえつければ、外人神父の助けなしに、

日本人の司祭が育成でき・・・

 

ザビエルも・・・・手紙のなかで、

「今まで発見されたすべての地域の国々のうちで、

日本人だけが自分の力でキリスト教を発展させるのに

適している。・・・・」と書いた。

しかし・・・・イエズス会が各地にコレジオをつくったのは

ザビエルが日本に来たあとの1550年代のこと・・・

 

=== セミナリオやコレジオについては、こちらで:

     https://nihonsi-jiten.com/seminario-korejio-chigai/

 

     要するに、セミナリオは 小・中・高の一貫校で、

     コレジオは 大学に相当するようですね。

     こういう学校を カブラルは作りたくなかったけど、

     ヴァリニャーノは積極的だったということですね。

 

 

p294

 

両方の学校にはすでに四十四人の日本の少年がおり、

彼らの大半は武士および名門の出身で、デウスの御助けに

より、同神学校の善い規則を遵守しつつ日々に成長している。

・・・子供達は幼いころからはなはだ自由に気ままに育てられ、

両親にとめられることもなく己れの欲するところを行うのが

日本の一般的な習慣であるから・・・

 

 

=== 武士の子は、自由気ままだけど、早く自立する

    ことが必要ってことですか。

    型にはまった教育じゃあ、自立が阻害されるって

    ことになるのかね?

 

 

p296

 

ヴァリニャーノは日本の少年を「西洋人」にする気はなかった。

「東西を知る人間」にすることが基本的な理念である。

・・・西洋の思想を知るべきである。 しかし、それを日本の

なかで日本人に語るには、禅僧などと同等の日本文化や思想の

知識やことばを知らなければならない。

 

自国語を正しく書き、正しく話せる人、これがじつは

ルネサンスの基本思想であって、ラテン語偏重から最初に

抜け出したのはイタリアのルネサンスだった。

 

=== ヴァリニャーノ、凄いなあ。

    自国語を正しく書き、正しく話せる人・・・・

    確かに教育の基本はそうなんじゃないかと思います。

    今の日本の教育はどうなってますかねえ・・・

    やや心配です。

 

 

p297

 

信長はこの演奏を大いにほめ、「ヴィオラを弾いた少年をもほめた」

「今日までに日本へ渡来した事物のうち、日本人がもっとも

好んだことは、オルガン、クラヴォ、ヴィオラを演奏すること

であった。 ・・・」とフロイスは書いている。

 

=== この褒められた少年が本当ならローマ行きの使節に

    選ばれるところだったそうな。

 

 

p298

 

セミナリオでは、1581年に宣教師の要請でローマから派遣

された画家ニコラオが少年たちに絵を教えていた。

・・・聖画像を国産するためである。・・・

宣教師はニコラオの描いた絵を中国に送ったりしている。

 

ヴァリニャーノは・・・

日本人をして創らせることに眼目をおいていたことがわかる。

それは日本最初の人文教養課程の創始だった。

 

 

=== 実はですね、謎の壁画ってのがありまして。

    それがもしかしたら日本人画家が描いたんじゃないか

    って話もチラホラなんですが、謎のままです。

    マニラのイントラムロスの聖アグスティン教会

    あったんじゃないかとされるものなんです。

 

    マニラ.... サン・アグスティン教会 謎の壁画 

    http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2018/09/post-9760.html

 

    天草四郎の乱などの後に日本からマニラに行った

    日本人画家がいなかったか・・・見つかりませんでした。

 

 

p299

 

有馬のセミナリオの最初の生徒は二十二人だった。

・・・ローマに行った四人の使節がそこにいたことは確実

ある。

 

 

p300

 

大多尾マンショ、大村出身、1568年生まれ。

ラテン語、音楽巧み。 1592年画才を買われ、1581年に

日本に派遣された画家ジョヴァンニ・ニコラオが天草の志岐

設立した日本最初の聖像学校で弟子となった。

1614年の大追放でマカオに追放され、そこで死んだであろう。

 

 

p302

 

1582年に信長が死に、城と町は破壊され、セミナリオの

学生は命からがら京都に逃げた。 その年の末に高山右近の

城下町でセミナリオの授業を始めたが、それも1582年の

右近の転封でだめになり、結局、それはできなかった。

したがって日本で最初の西洋哲学の講義をしたコレジオは

府内だけだった。

 

=== 信長が死んで、状況がガラリと変わってしまい。

    学べる場所が宗麟の大分だけになってしまった

    ようです。

 

 

 

p302

 

実ったのはジョアン・ロドリゲスだけであった。

・・・この人はポルトガルのセルナンシェルシェというところ

に生まれて、生涯ひどくなまっていたそうだ。

だがなぜか自国語以外では、語学の大天才だった。

 

・・・大友宗麟の耳川の戦闘に加わったりしていたが、

・・・1604年から8年にかけて日本語文法、日葡辞典

編纂におもな功績を残した。 この文法書は日本における

最初の学術的な文法書であった。 日本の言語学者のあいだ

では彼が一番有名である。

 

=== 分からんもんですねえ。

    自国語はひどい訛だったのに、外国語は天才的とは。

    もしかして、生まれながらに日本語が合わないって

    子供もいるのかもしれない・・・

    外国語によって性格も変わるって言いますしね。

    日本最古の学術的な日本語の文法書?

    読めるものなら読んでみたいなあ。

 

    ジョアン・ツズ・ロドリゲス

    https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョアン・ロドリゲス

 

 

p303

 

有馬のセミナリオには1580年創設当初に伊東修理亮裕益という

十歳の少年が洗礼を受けて入学した。 これが使節の筆頭

伊東マンショである。

・・・彼は日向の領主だった伊東家の縁つながりだが、姻戚関係

で大友宗麟の血縁ということで使節になった。

 

 

p304

 

・・・同年入学の、島原半島の千々石出身で1569年ごろ

生まれた・・・有馬の領主有馬晴信の従弟、大村の領主

大村純忠の甥、千々石ミゲルもその身分の高さから使節に

選ばれた。

 

大村領波佐見出身の・・原マルティーノも使節に選ばれた。

彼はラテン語ができるということが史実からわかっている・・・

 

大村領、いまの長崎県彼杵半島出身の中浦ジュリアン

入学当時十歳、彼は幼児洗礼を受けていた・・・

 

ヴァリニャーノがこの四人の少年を連れて日本を発つのは

1582年のことなので、彼らは十一歳から十四歳までの

ほんとうの少年であった。

 

=== 出ました。 4人の少年のプロフィール。

    私がこの中で一番興味を持っているのは

    何度も言いますが 千々石ミゲルでございます。

    な~~んでかって言うと、

    イエズス会を脱会し、棄教して、「鬼の子」

    呼ばれるようになってしまい、おまけに

    いつどこで死んだかも分からないという

    ミステリーに包まれているからなんです。

     おまけに、大村藩に仕えるようになった時に、

     フィリピンに派遣されたという噂もあるんです。

     もしかしたらスペインの意図を探るための

     スパイだったかもしれません。

     (ここだけの秘密です・・・)

 

     二番目に興味を引くのは、中浦ジュリアンです。

     なぜなら、殉教したからです。

 

     他の二人は、病死らしいので、劇的ではないですね。

 

 

 

p327

 

最初の禁教令は天皇から

永禄八年七月五日、内裏への三好義継の奏請で、正親町天皇から

宣教師追放の女房奉書が出たことが女房の日記に残っている。

 

・・・女房日記には「今日左京太夫禁裏女房奉書出、大うす

はらひたるよし」とある。 大うすとはデウスのことで、

「煤払い」にひっかけてある。

 

=== 天皇から禁教令が出ていたとは この本を読むまで

    全く知りませんでした。

    あとからいろいろ事情が書かれますが、

    もしかして結局のところ これが一番重要な

    禁教令だったのでしょうか?

 

 

p329

 

フランシスコ会のリバデネイラは天皇について・・・

「(この国には)当初から全日本王国の本来の国王があって、

それは直系で現在に到り、王、別名を内裏と称する・・・

一般人と同じようには扱われないのをきわめて神聖なことだと

考えている・・・・

その王国を武将の手によって統治させることが必要であった・・

・・・

本来の国王はただ国内の諸貴人に位階を与えるのみであり、

また坊主と称する偶像の使徒たちにも品級と位階を与える。

内裏自身はこれらの坊主の長、すなわちスプレーモ・

サチェルドーテ(最高位の司教)のようなものである。

・・・

一般の人と区別するために中国人のような服を着ている。

なぜなら彼らは中国人の子孫であると言われているからである。」

 

=== どんな衣装だったんですかね?

    中国人の子孫って・・・初耳ですが・・・

 

    当時の天皇や公家の装束を検索してみたんですが、

    どうも、戦国時代は混乱していたようですね。

    しかし、既に平安時代には国風文化になって

    それまでの唐風から日本独自の装束に変わったと

    書かれているので、中国風というのと合いませんね。

 

    http://www.kariginu.jp/kikata/4-1.htm

    「戦国・安土桃山時代・江戸初期

 京は戦乱がうち続いて荒廃し、公家も各地に散らばる

など、装束に凝るどころの時代ではありませんでした。

天皇の袍の黄櫨染色の作出技術も失われ、それまで

天皇の第二色であった「青色(青鳩色)」の袍が天皇

の第一色になりました。

織田信長は尊皇の意志が強く、有職故実家である山科家

とのつながりもあって公事復興に力を示します。続く豊臣

・徳川も政治的配慮もあってか尊皇を建て前として即位

の大礼に資金を投じるなど、さまざまな面で装束の復興に

力を注ぎました。しかし後年軽視された「寛永有職」

という言葉があるように、当時の装束は古式とは似ても

似つかず、能装束のような布で袍を作るなど、非常に混乱

したものであったようです。」

 

 

 

 

 

<その9に続きます>

 

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2018年2月15日 (木)

「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読む - その6

 

「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読む - その6

 

 

矢部宏治著 集英社インターナショナル

「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」

を読んでいます・・・・

 

 

ちょっと時間がとれなくてさぼっていましたが、続きをやります。

 

今日は第四章の

「安保村の謎 - 国連憲章と第2次大戦後の世界」のところを読みます。

 

001a

国連というのはそもそもどんな組織なのかという話が続きます。

 

― たとえば中国が尖閣問題で日本を非難するとき、国連総会で

  こんな演説をします。

  「日本政府による尖閣諸島の購入は、世界反ファシズム戦争に

  おける勝利という結果への公然たる否定で、戦後の国際秩序と

  国連憲章への挑戦でもある」

 

― 私たち日本人はこれを聞いて、

  「なにをわけのわからないことを言っているんだ」

  と思います。しかし、これは日本以外の国の人にとっては

  当然の表現、少なくともすぐに意味がわかる表現なのです。

 

・・・確かに、私なんかにとっても、「なんじゃこりゃ」ですが、

この本を読んでいくと「なるほどなあ」と思います。

要するに 日本は軍国主義で敵国だったという話ですね。

日本人はそんなことはすっかり忘れちゃっているし、

マスコミも日本が戦争で叩きのめされてすっかり被害者みたいに

なって、8月15日前後に戦争は惨めだったみたいに書いたり、

放映したりしていますからねえ。

ほとんど加害者としての意識はないですもんね。

フィリピンに住んでいると分かります。

 

― ポツダム宣言が「戦後日本」の原点なら、こちらは

  「戦後世界」の原点です。

  その名は、大西洋憲章(正式名称は「イギリス・アメリカ

  共同宣言」)といいます。

 

 

― ポツダム宣言もそうですが、この大西洋憲章もまた、

  戦後日本の圧倒的主流派である安保村にとって、

  非常に都合が悪いものだからです。

 

― 「第二次世界大戦後の世界」の基本的な枠組みは、

この1941年8月に出された短い共同宣言のなかに、

  ほとんどすべて書かれているのです。

 

― 三。 両国はすべての民族が、自国の政治体制を選択する

     権利を尊重する。 両国は、かつて強制的に奪われた

     主権と自治が、人びとに返還されることを望む。

 

― 七。 そのような平和は、すべての人びとが妨害を受ける

     ことなく、公海・外洋を航行できるものでなければ

     ならない。

 

― 八。 両国は、世界のすべての国民が、現実的または

     精神的な理由から、武力の使用を放棄するように

     ならなければならないことを信じる。

     ・・・いっそう広く永久的な一般的安全保障制度

     が確立されるまでは、そのような国の武装解除は

     不可欠であると信じる。

 

・・・・これを見て、何かに似ていると感じませんか?

これは フランクリン・D・ルーズベルトとウィンストン・

チャーチルの間で交わされた共同宣言だそうです。

それも 戦争が始まる前の話です。

いかに英米がシナリオどおりに戦争をすすめ、その後の

処理までやり通したかということになりますね。

 

― あまい見通しのもとに戦争に突入し、自国の兵士を

  大量に餓死させるような計画ばかり立てていた日本政府

  にくらべて、なんという違いかと思わずにはいられません。

 

・・・ これを読んでいると、今現在のアメリカの大統領は

まるっきり反対の性格のような気がします。

そして、いろいろとキナ臭い話が世界を覆っています。

当時とその後の現実はともかくとして、上に書いてあるような

一見理想主義的な戦略というものが今の世界にあるのか

というのが気になります。

 

 

― この事実は、日本とドイツ、イタリアとの三国同盟が、

  結局軍事的になんの連携プレーもできないまま終わった

  ことを考えあわせると、非常に大きな意味をもっています。

  軍事力だけでなく、政治的スキルにおいて日本とアメリカ・

  イギリスは、まさに大人と子どもほどのちがいがあったのです。

 

 

― なぜこれが重要かというと、それから約1年半後の1946年

  2月にGHQが作成した日本国憲法草案、とくにその戦力

  放棄条項(のちの第九条二項)は、国連憲章そのものよりも、

  むしろこの原案に書かれていた国連の基本理念を見た方が、

  その本質が理解しやすいからです。

 

― 原案にあった理想主義的な「世界政府構想」が、

  日本国憲法九条二項を生んだ

 

― 国連安全保障理事会だけが「世界政府」として軍事力の使用権

  を独占し、ほかの国はそれをもたないという、国連憲章の

  原案にあった理想主義的構想が、のちの日本国憲法九条

  二項が執筆される大きな前提となっているのです。

 

 

・・・さて、今日はここまでにします。

第四章がけっこう長くて 一ページには収まりません。

 

では、次回 その7は いよいよ どのように日本国憲法は

作られたのか・・の核心の部分に入ります。

 

いやあ~~、それにしても、今から50年前、私が高校時代には

日本史の授業はこんなことは教えてくれなかったし、

近現代史は時間切れ大学受験に突入って感じでしたからねえ。

今の高校生たちは どの程度 日本の近現代史を教えて

もらっているんでしょうか・・・なんか危ういなあ。

 

011a

 

=== その7 に続く ===

 

 

 

 

 

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