カテゴリー「経済・政治・国際」の記事

2017年8月17日 (木)

大統領令で バギオの老舗バーが・・・・一方のカフェは?

4日間の日本映画祭が終わった8月13日。
3本目の上映を終わり 10時半を廻っている。
映画館の前でチラシ配りを手伝ってくれたコスプレの女の子たちとも
さよならして 一人で祝盃を挙げに バギオ市内の老舗のバーへ。

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このバーは アーティストやマスコミ関係者が集まるという
交流の場所でもあった。
その名も「ルーマーズ」(噂話)。

昨年までは 日本映画祭を一緒に盛り上げてくれた男二人と
共に 上映された作品の批評などを語り合った場所でもあったん
ですがねえ・・・

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一人は日本に一時帰国中 もう一人の地元の男は過去に上映館で
あった小さな映画館が無くなってしまい失業。

バーに入ってカウンターに座り「煙草は吸える?」とカウンターの
中のお姉さんに訊くと 「ダメなんです あちらでどうぞ・・・」。

店の奥をみると 印ばかりの仕切りの向こう側に喫煙コーナーがある。

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カウンターから店の中を眺め廻す。

以前は この時刻には いつも80席ばかりの客席はぎっしりで
賑わっていたのに なんと私を入れても9人しかいない。

禁煙の大統領令の煽りをまともに受けている。

カウンターに座っている4人ほどの客は 代わり番こに
喫煙コーナーへ往ったり来たり・・・・

以前はお客の喧騒で ウエイターの動きなどには眼も向かなかった
ものが 今日はウエイターの動きが妙に気になる。

と言っても お客がいないわけだから ウエイターもすることがない。

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ジョニ黒のコークハイで 一人乾杯。

つまみが晩御飯代わり。

がらんとした店内に シェイクを作るミキサーの音だけが
むなしく響き渡る。

この老舗バーは 持ちこたえることができるんだろうか・・

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一方で この大統領令を逆手にとっているカフェがあった。

急遽 広い店内の真ん中にガラスで仕切りを設置。
ドアがあるわけでもなく どう見たって 煙は行き来自由な
仕切り。

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大統領令以降 もう数回このカフェに行ってみたが
以前よりも明らかにお客が急増している。

ランチタイムからすでに喫煙席が満席なのだ。
一方 禁煙席はがらがら・・・

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いずれ日本でも こんな状態になるのでしょうか。

 

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2017年5月20日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 113 ボニファシオの処刑、アギナルド 香港亡命??

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

「第18章  フィリピン革命」

 

 

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p249

 

「ボニファシオ兄弟の処刑」

 

非劇的にも、アンドレス・ボニファシオと彼の兄弟 プロコピオは

反逆罪で有罪となり、死ななければならなかった。

1897年5月10日の朝、・・・銃殺隊を指揮し、処刑した・・・

 

 

Biaknabatoの退却」

 

同日(5月10日)、ボニファシオ兄弟が処刑された時、

スペイン軍がMaragondonを攻撃した。 ・・・・

5月12日、二日間の激戦の後、アギナルドの軍は、その町から

退却せざるを得なかった。

 

 

p250

・・・ブラカン州サン・ミゲールのBiaknabatoへの退却を始めた・・・

 

・・・アギナルド大統領は、・・・北へ向かい、1897年6月24日に

Biaknabatoについに到着し、そこで本格的な司令本部を建てた。

 

 

「革命の継続」

 

総督プリモ・デ・リヴェラの1897年6月24日の

「革命は終わった」という早すぎる宣言とは裏腹に、

自由を求めるフィリピン人の闘争は続いた。

 

・・・鼓舞するような宣言に呼応して、新しい反乱が

南タガログやルソン島中部の州で爆発した。

 

 

p251

 

「Biaknabato共和国」

 

1897年10月末に向かって、交戦が静かだった期間に、アギナルド

大統領は、革命将軍及び指揮官たちの会議を Biaknabatoで招集した。

この会議で、全てを掛けて解放戦争を継続し、Biaknabato共和国

樹立することが決められた。

 

・・・この憲法は、1895年のキューバ憲法をモデルにして

制定された。

・・・Biaknabato憲法は、ほんの2年間有効であった。

 

・・・共和国の公式言語は タガログ語であった。

 

Biaknabato憲法は、人々の人権を守る為に、人権宣言

含まれていた。

 

=== この時初めて、公式言語がスペイン語からタガログ語に

    なったようですね。

    スペイン植民地時代は スペイン語、

    アメリカ植民地時代は 英語、

    そして、その後しばらくしてから、

    英語とフィリピン語が公用語になったんですね。

    ですが、バギオの裁判所などでは、英語が裁判時の

    公用語とされています。

 

 

=== ブラカン州のビアクナバト共和国については、

    こちらのサイトにちょっとだけ書いてあります。

 http://www.ph-inside.com/site/pres/profile/01.htm

 

    もっと詳しくは、こちらで。(英文)

 http://msc.edu.ph/centennial/biak.html

 

 

p252

 

「プリモ・デ・リヴェラの和平方針」

 

戦争が引きずられて行くに従って、総督プリモ・デ・リヴェラは

武力で革命を鎮圧するのは不可能だと悟るようになった。

 

・・・従って、彼はアギナルドとの和平を望んだ。

 

 

Biaknabatoの協定」

 

ついに、パテルノは、「ビアクナバト協定」として知られる

和平合意を協議することに成功した。

この協定は3つの文書からなり、最初のふたつは12月14日に

署名され、3つ目は1897年12月15日に署名された。

 

「プログラム」と呼ばれた最初の書類には、総督プリモ・デ・リヴェラ

が、武装している者たちに800,000ペソを支払い、アギナルドと

その仲間たちが香港へ自主的に国外退去することが書かれた。

 

二つ目の書類は、「協定の行為」と呼ばれ、武装解除をした者への

恩赦を認めることと、フィリピンあるいは海外に自由に住む特権を

くり返し書いてあった。・・・・

 

三つ目の種類では、損害賠償の問題が検討された。

それは、スペインが合計1,700,000ペソの損害賠償を

する・・・・・というものだった。

 

 

p253

 

Biaknabato協定」の3つの書類のどこにも、改革を認めるという

政府の約束に関しては書かれていなかった

 

これらの改革とは・・・・・・:

(1)フィリピンの教区教会の世俗化と、宗教的命令の排除。

(2)スペイン議会でのフィリピン代表の復帰

(3)法の下での、スペイン人とフィリピン人の平等

(4)フィリピン人に有利なように、資産、税及び行政区を

    調整すること。

(5)人権、言論の自由、結社の権利の保証。

 

 

 

p253

 

「アギナルドの国外退去」

 

その「協定」に付随する書類は、1897年12月14日と15日に

署名され、アギナルド将軍はビアクナバトを離れ、自由意思で

香港に国外退去する準備をした。 

・・・・

1897年12月27日、アギナルドと28人の仲間は、

蒸気船Uranusに乗船し、香港へと渡った

 

・・・・

 

香港では、アギナルド将軍は、いわゆる「香港議会」と呼ばれる

ものを再組織し、革命政府を継続した。 そして、それを

「国家最高委員会」へと拡大した。

 

 

p253

 

「協定違反」

 

スペインとフィリピンの当局は双方ともに、「ビアクナバト協定」

の条件に忠実に従うことが出来なかった。

 

・・・

 

戦争賠償金の1,700,000ペソの内、600,000ペソは

スペインにより実際に支払われた。

・・・・・その他の1,100,000ペソは支払われることが 

なかった。 ・・・・

武装解除し田舎に戻ったフィリピン人の愛国者の多くが、

逮捕され、投獄され、迫害された・・・

・・・改革はひとつも認められなかった・・・・

 

 

p254

 

フィリピン人側も、・・・スペインによる支配を転覆する計画を

継続した・・・・

 

 

「ビアクナバト後にも平和はなかった」

 

ビアクナバトに於いてスペインが買い取った平和は、幻想となった。

 

・・・Zambalesの革命家・・・南イロコス州のCondon、・・・

スペイン軍がビサヤの船乗りを虐殺・・・セブでの反乱・・・

1898年の「血の聖木曜日」・・・ルソン島中部・・・

ボホール、セブ、パナイ、その他の島々・・・

 

フィリピンではそのような状況であった。

その時、世界のあちら側では、スペインとアメリカの 

戦争が勃発していた。

 

・・・革命は、ほんの束の間の休暇をとれただけだった。

新しい力の登場によって短くされた ―― アメリカ合衆国である。

 

 

=== さてさて、ボニファシオが処刑され、共和国が樹立され、

    和平協定が結ばれ、アギナルド大統領が香港に移った

    けれども、革命の反乱は収まらず。

 

    そのどさくさに、アメリカがスペインと戦争を

    おっぱじめた。

 

    次回 114号は 「アメリカがやって来た」ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月19日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 111 革命政府樹立と 選挙に敗れた ボニファシオ

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」

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p243 

「イムス会議」 

マグダロとマグディワン議会の対立は革命運動に対して破滅的な

ものであることが証明された。 それは、Polaviejaの部隊に対して

彼らの分断された兵力は敗北したからである。

彼らの違いを調整し、ひとつの革命政府の下に統合するため、

マグダロは二つの派の総会を1896年12月31日に主催した

――それはリサールの処刑の翌日であった。

この会議で、脱兎のごときボニファシオは、マグディワン議会の

議長であったのだが、正しくはマグダロ議会の主催者及び長として、

バルドメロ・アギナルド将軍に属すべき議長の座を、傲慢にも奪取した。

ボニファシオは、重要なポストを全てマグディワン議会の役員

割り当てた。

・・・・・・

そのイムス会議では、なんら決定的なものは成し遂げられなかった。

 

p243

「総督Polaviejaの総攻撃」 

革命を壊滅する目的をもって、総督Polaviejaは、1892年

2月15日に総攻撃を開始した。 この日、フランシスコ・

ガルビス将軍は、総督の戦闘将軍の一人であったが、ザポテを

攻撃し、一方 Lachambre将軍は、ふたつの部隊を率いて、

ラグナ-カビテの境界を越えて、シランに向けて行軍した。

2月17日、エバンゲリスタ将軍は、アギナルド将軍の勇敢な

将軍の一人であるが、スペインの射撃手によって殺害された。

二日後(2月19日)、シランはLachambreによって奪取された。

アギナルド将軍は、ビト・ベラルミノ将軍とアルテミオ・リカルテ

の支援を得て、反撃を準備したが、シランの奪還には失敗した。

・・・・・ 

p244 

「テジェロス会議」

 

1897年3月22日、戦争の潮目が革命派に不利であった頃、

脱兎のごときボニファシオのマグディワン議会は、Tejeros

総会を開催した。 ・・・・・

・・・アギナルド将軍と他のマグダロの役員達は、その時

スペインの攻撃からマグダロの町を防衛していたので

欠席であった 

・・・AlvarezMontenegroの爆発的確執は、会議を混乱

中に落とし入れた。大混戦を避けるために、Lumbreras

休会を求めた。  

p245

・・・新しい革命政府を設立すべしというのが大多数

願いであった。 ボニファシオはこの政府の役員の選挙を

求めることを強要された。  しかしながら、彼は、

誰が選出されようと、それに反対することは出来ないという

多数の意見を確保することが出来た。 

無記名による投票は、驚いたことに、以下の結果となった: 

大統領・・・・・ エミリオ・アギナルド

副大統領・・・・ マリアノ・トリアス

総司令官・・・・ アルテミオ・リカルテ

戦争長官・・・・ エミリアノ・リエゴ・デ・ディオス

内務長官・・・・ アンドレス・ボニファシオ

・・・・

ボニファシオは、議会の規則と作法を知らず、怒って、

選挙の無効を宣言し、会議を解散し、彼のボディー・ガードと

一緒に会議場を立ち去った。 

しかしながら、愛国者の大多数は、選挙の結果とカティプナンに

代わる新しい革命政府の設立を認めた

・・・・

アギナルド将軍は、部下と共に、Tejerosへ向かい、1897年

3月23日の黄昏時に到着した。 しかし、彼の入場を拒否する

ボニファシオの兵士たちによって入口が警護されていたので、

Recollect   estate-houseに入ることができなかった。

アギナルドは、敵対する土地にいることを悟り、サンタ・クルズ

デ・マラボン(タンザ)に向かった。そしてそこのカトリック教会で、

マリアノ・トリアス(副大統領)、エミリアノ・リエゴ・デ・ディオス

(戦争長官)、そして アルテミオ・リカルテ(総司令官)と共に、

宣誓し就任した。

 

=== ボニファシオは 結構我がままな人だったんですねえ。

    選挙の結果には従うと言いながら、怒って出ていくなんて・・

    あっと驚く選挙結果に「茫然自失」ってところでしょうか。

    しかし、地元の若者たちには、アギナルドよりも

    ボニファシオの方が人気があるみたいなんですけど、

    何故なんでしょうねえ・・・・

 

=== こちらのサイトにこの当時の歴史に関連する

    観光地の解説があります。 (英文)

Cavite Historical Tour

https://traveleronfoot.wordpress.com/tag/bonifacio-trial-house/

 

・・・ それでは、次回 シリーズ112 を お楽しみに・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月16日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 110  ホセ・リサールの共謀罪、公開処刑、辞世の句

  

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」 

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p242

リサールは軍事裁判所で、反乱、扇動、違法共謀について裁かれた

彼の裁判は、彼が有罪であるという決め手になるものがなく

茶番狂言であった。 それにも関わらず、軍事法廷は彼に死刑を

宣告した。 Potavieja総督は、軍事法廷の死刑の評決を確認し、

12月30日の朝にリサールを処刑することを命じた。

1896年12月29日に、リサールは親友である フェルヂナンド・

ブルメントリット教授(オーストリア人)に最後の手紙を書き送り、

以下の通り無罪であることを宣言した:

「私は反乱の罪に関しては無罪である。 私は穏やかな道義心を抱いて 

死んでいく。」

1896年12月30日の夜明け、彼の処刑の2~3時間前に、

リサールは 香港から来たアイルランド人の恋人ジョセフィン・ブラケンと

フォート・サンチャゴの礼拝堂で、カトリックの儀式にのっとって結婚した。

結婚式は ヴィンセント・バラクエル神父(イエズス会)によって

執り行われた。 

午前6時、リサールはルネタでの公開処刑の準備が出来ていた。

30分後に、フォート・サンチャゴからルネタへの死の行進

始まった。 リサールは、黒いスーツを着て、腕は後ろ手に

肘から肘に縛られ、厳重な警護の中を、太鼓の鈍い音の中へ

行進した。 フィリピン人と外国人の大きな群衆が その死の行進を

見つめた。 ルネタに到着すると、リサールは静かに、銃殺執行隊

に背を向けて立てと言われたその場所へと歩いた。

7時30分丁度、銃殺執行隊は彼を背中から銃撃した。

超人的な力を持って、彼は銃弾だらけの身体を翻して、

地面に倒れ落ちた。 ―― リサールの顔は昇る太陽に向かって

上を向いた。 こうして、リサールは、彼が辞世の句に描いた

ように、最期をとげた。 

我は死す。 夜明けに天国が絢爛たる時に。 

そして、最後の日はその夜の上に昇り、 

朝がそのあかね色を深めるならば、 

我が生ける血を受け取れ、そして広めよ 

呼び覚ますおぼろげな光を受けとめよ。 

=== 一応 上のように翻訳はしましたが、

    私には詩歌を翻訳する才能はないので、こちらのサイトで

    邦文訳をご覧ください 

今日の辞世の句 - 新・立命館大学戦史研究所

http://ufononatu.blog10.fc2.com/blog-entry-503.html

「空が朱に染まるのを見る時私は死ぬ
 
夜の暗い闇の後で私はこう言おう
 
もし朝の光を染めるために色が必要ならば
 
我が血潮を注ぎ正しい瞬間に散らして
 
君の旭で金色に輝かしてくれ!」

 

p242 

「リサール受難の重要性」 

リサールを処刑したことは、フィリピンでスペインが行なった

大きな失敗のひとつであった。 フィリピンの人々は彼を

自由の殉教者として喝采を送り、フィリピンの国民的英雄となった

のである。

スペインの銃殺隊の銃弾はリサールの息の根を止めたが、

スペイン帝国を破壊するという愛国者たちの思想を止めることは

出来なかった。 例えば、偉大なフィリピンの叙事詩人である

セシリオ・アポストルは スペイン語で熱狂的に歌い上げた 

おお、奴隷とされた国の救い主よ! 

その墓の神秘の中で、泣くのではない 

スペイン人のつかの間の勝利を気にかけることはない; 

もし銃弾が汝の頭蓋骨を破壊したというのなら、 

同じように、汝の思想は帝国を破壊したのだ。

 

=== 上の詩も私の翻訳なので、あてにしないで下さい。

    残念ながらこの詩の翻訳はインターネットでは

    探し出せないのでご勘弁ください。

    要するに、ホセ・リサールという人物を

    わざわざスペインから呼び戻して、公開処刑に

    しちゃったのは、火に油を注ぐ 結果になって

    しまったということですね。

 

    キューバの医者の仕事をやらせときゃ、こんなこと

    には成らなかったかもしれないのにねえ。

    まあ、いずれにしても、フィリピン革命は時間の

    問題だったのでしょうが。 

・・・ では、次回 シリーズ 111 でお会いしましょう・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月13日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 106  革命前夜 ホセ・リサールとボニファシオ

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

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p231

「リサール博士とカティプナン」 

1896年6月、ピオ・ヴァレンズエラ博士はボニファシオの特使

として、ダピタンに向け出航し、来るべき革命へのリサール博士の

支援を求めた。 スペイン当局の眼から本当の使命を隠すため、

彼はリサール博士の専門的サービスが必要な盲目の男を連れて

行った。ダピタンに到着するや、直ちに、彼は追放された英雄

に相談した。  

ヴァレンズエラによれば、彼の回顧録の中で、リサールは反乱を 

開始するカティプナンの計画に賛成しなかったとされる。

それは、人々は未だ準備が出来ていないとの理由だった。

また、リサールは、カティプナンが彼を救出するという計画にも

反対した。 リサールは、当局に対し、逃走しないと約束し、

その約束を守るとしたからであった。

ヴァレンズエラは、革命的な策略にリサールの支援を確保すると

いう使命に失敗し、マニラに戻った。 ボニファシオがその特使の

報告を聞いた時、かっと怒り、強い調子で言った:

「まったく!  リサールはどこを読んでいるんだ。  

革命の為にあなたが最初に船と武器を持つべきじゃないのか? 

どこを読んでいるんだ?」

(このボニファシオの怒りの言葉は、イマイチ翻訳の自信は

 ありません。)

 

「カティプナンと日本」

革命を計画中に、カティプナンはその眼を日本に注いでいた

その当時、日本は西欧からの圧迫に対抗してアジアの解放を

すべき見込みのある擁護者としてぼんやりと浮かび上がって

いたからである。

1896年5月、カティプナンの代表団が、ジャシントと

ボニファシオに率いられて、訪問中の日本海軍将校と日本領事

マニラのジャパニーズ・バザールで相談をした。

通訳は モリトリ・タガワで、ブラカン州ボカウエの

フィリピン人女性と結婚していた。

彼はヴァレンズエラの友人でもあった。

p232

通常の挨拶を交わした後、ジャシントは日本の天皇へのカティプナンの 

覚書を提出した。 その中で、「日本を照らす解放の光が、フィリピン 

の上にもその光線を及ぼすように」、企画された革命の中で、日本の

助力をフィリピン人は祈っていた。

 

それは、カティプナンが日本の助力と同盟を懇願する良い理由で

あった。 その国はフィリピン人に対してずっと友好的であった

スペインの圧政から逃げた多くのフィリピン人たちは、日本で

歓迎され、日本の法律の下で完全に保護された。 ボニファシオは

日本で武器弾薬を購入しようとしたが、資金不足で失敗した。 

=== さて、日本がかなり期待されていたようですが、

    残念ながら上手くいかなかったようです。 

ここで、その当時の日本はどういう時代であったのかを

ちょっと振り返ってみましょうか。

1896年ごろ・・・・

日本はイケイケで軍事力を増強していた時代だったんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB#.E5.B9.B4.E8.A1.A8

 

1883年(明治16年) 陸軍大学校開設。鹿鳴館開館。

1888年(明治21年) 海軍大学校開設。

1889年(明治22年) 大日本帝国憲法発布

1895年(明治28年) 下関条約で日本が台湾・澎湖諸島

遼東半島を獲得

1902年(明治35年)日英同盟締結

1904年(明治37年)日ロ戦争―1905年

1905年(明治38年)日本海海戦 

一方、フィリピンの年表は:

http://pichori.net/Philippines/history/philipino_chronology.html

1892年、ホセ・リサール帰国。「フィリピン同盟」を結成。
同年、ホセ・リサール、ダピタン島へ流刑。
同年、独立革命をめざす秘密結社カティプーナン結成。

1896年、カティプーナン機関誌「カラヤーン(自由)」創刊号発行。
同年、日本海軍練習艦金剛マニラに入港、カティプーナン代表が支援要請。
同年、ホセ・リサールの流刑生活が終わり、スペインに到着。
    カティプナンの独立闘争が開始され逮捕。
同年、アンドレス・ボニファシオ、武装蜂起(バリンタワクの叫び)
同年、エミリオ・アギナルド、カビーテで武装蜂起。
同年、ホセ・リサール、ルネタ(Luneta)で銃殺。

1897年、 米西戦争勃発、米軍マニラ占領。
エミリオ・アギナルド
、カビーテでフィリピン独立を宣言。  

「カティプナン 戦争を準備」

1896年の中旬までに、カティプナンは自由の為のストライキを

準備していた。 そのメンバーは設立いらい増えて、1896年

までにおよそ20,000人に到達していたと見積もられた。 

戦争の計画もボニファシオとジャシントによって準備され、

カティプナンの軍事オペレーションの戦略とされた。 

「カティプナンの発覚」

カティプナンが革命の準備に忙しくしていたころ、その存在に

ついての様々な告発がスペイン当局に届いた。

・・・・

1896年8月19日に、カティプナンはついにスペイン当局に

よって発見された。

・・・・

警告をされた、特にボニファシオ、ジャシント、そしてその他の

者たちはなんとか逃げて隠れることができた。

 

=== さて、さて、ホセ・リサールさんは ボニファシオさんと

    意見が合いませんでした。

    バギオの地元の若い人に聞いたことがあるんですけど、

    最近の人はどうもボニファシオの方が偉かったと

    思っているようです。

    学校なんかで学ぶ本としては、やっぱりリサールさんの

    方が圧倒的だと思うんですが。

    私は随分前にホセ・リサールの有名な二冊の本を

    読んだ時には、「今のフィリピンにもホセ・リサールが

    5人ぐらい必要だな」と思ったものでした。

 

    それはともあれ、今の日本は 他の国から期待される

    ほどの力と技量がありますかねえ?? 

・・・では、次回は 「第18章 フィリピン革命」 に入ります・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月25日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 95 終焉に向かうスペイン支配と改革

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第十五章  スペインによる統治の黄昏」

 

 

 

p203

 

19世紀は、フィリピンのみならず、スペインの海外の植民地

でも、スペイン統治の黄昏であったと特色づけられる。

Siglo de Oro(16世紀)には、スペインは世界の女王であった。

―― 地球規模の権力を持ち、その世界に拡大された領土は

「太陽の沈まぬ」ものとされた。

・・・・時の風とともに、スペインの征服者としての勇敢な

精神、伝道へのローマ教皇の熱意、そして、文明教化の輝かしさ

は、去っていった。

 

スペインの退廃は、スペインの政治的混沌と、経済的停滞

反映され、また、植民地の官吏社会での汚職と国民の幻滅

ともなった。

 

 

「スペインにおける政治的混沌」

 

19世紀は、スペインの歴史において、政治が荒れ狂った

世紀であった。 断続的に大臣達の入れ替わりがあり、

憲法が頻繁に変更された。

 

・・・・スペインでの政治の混乱は、フィリピンの政治的

及び社会経済的状況にも影響した。

いかなるマドリッド政治の大変動も、植民地政策に新しい

動向をもたらし、そして新しい総督とより多くの

求職者がマニラに到着した。

 

1835年から1879年までに、フィリピンは50人の

総督に統治され、それぞれの任期は平均で1年3カ月であった。

 

・・・不安定な任期のため、総督は管理の永続的な計画を

実施することは出来なかった。

 

 

p203

「スペイン議会におけるフィリピン代表」

 

スペインに公平であるために、特筆すべきことがある。

スペインは19世紀に、ある再編成を導入することによって、

フィリピンにおける植民地制度を改善しようとしたことである。

 

p204

その再編成のひとつが、スペイン議会におけるフィリピン

代表の容認であった。・・・・

 

最初の代表の期間中は、フィリピンからスペイン議会への

最初の代表は、Ventura de los Reyesであった。

彼は、南イロコス州ビガン生まれの混血で、マニラで

裕福で有名な商人となっていた。・・・・・

 

不運なことに、スペインは1837年6月18日に、

スペイン議会へのフィリピン代表を廃止し、それ以降は

特別法によってフィリピンは統治されることになった。

このフィリピン代表への抑圧に、フィリピンの人々は

憤慨した。 その復旧が、プロパガンダ活動で主張された

決定的な改革策のひとつであった。 そして、その

プロパガンダ活動は、M.H. del Pilar、 Graciano Lopez

Jaenaホセ リサール、その他のフィリピン人愛国者たち

によって開始された。

 

 

p204

「総督に対するふたつの審議会の発足」

 

スペイン人総督を、フィリピンを管理する場面で支えるために

ふたつの助言を与える機関が創設された。

 

 

p205

「司法制度の変更」

 

1584年に王立大審問院(最高裁判所)が創設されて以来、

総督がその裁判長(主席判事)であった。

1861年にその王立大審問院の構成が変更された。

――総督は最高裁から外されたのである。・・・・

 

マニラの王立大審問院の下に、1893年、ふたつの地域の

審問院が創設された。 セブとビガンの地方審問院である。

 

 

「スペイン法のフィリピンへの拡大」

 

有名なLeyes de Indias 及び 国王令の他に、

多くのスペインの法律がフィリピンにも拡大適用された。

 

 

「1884年の税法改正」

 

スペインが19世紀に導入した良い改変のひとつは、

1884年3月6日の国王令で与えられた、税法改正である。

この税法改正には二つの重要な条項が含まれていた:

(1)憎まれている年貢の廃止と、cedula tax証明書税

への変更。

(2)40日の強制労働の15日への短縮

 

=== ここで、cedula taxというのは、

 Community tax certificateと言うもののようですので、

    住民税ではないかと思われます。

    この証明書が身分証明書のように使われるようです。

 

Cedula tax(証明書税)は、フィリピンの全ての住民に

課税されました。 ―― 地元民、スペイン人、そして両性

(男と女)の18才以上の外国人に適用。

中国人は、別の種類の人頭税の支払いを要求されたので、

この税金は非課税とされた。

 

p206

 

このcedula taxには、16の段階があって、その経済状況

によって、男女ともに支払わなくてはいけなかった。

最下位の貧困層は無税で、一番高い富裕層は37.50ペソ

であった。

 

 

「地方政府の改革」

 

フィリピンでのスペイン統治が作りあげられて以来、

地方の州はスペイン人の alcaldes mayorsとよばれる知事

によって支配され、この知事は行政および司法の権力をもち、

さらに交易に携わる特別な特権も欲しいままにしていた。

この知事はほとんどが素人であり、法律の知識はなく

総督の友人、親戚あるいは仲間たちであった。

彼らは、従って、地方の知事としての能力がなく、悪いことには

汚職にまみれていた。 彼らは、自分たちの私服を肥やすために

交易の特別な権限を乱用していた。

 

1844年9月23日、女王イサベラ二世は、資格のある

法律家だけが知事に指名されなければならないという

国王令を発布した。それはさらに、alcaldias治安判事市長(知事)は

3つの職級にするという条項もあった。

・・・・

 

それに続いて、同女王は、1844年10月3日の国王令で、

すべての知事が行なっていた交易の特権を廃止した。

 

 

「地方自治体の改革」

 

1847年までは、町の市長?及び他の地元の職員・・・・・

の選出の方法は、良い政府の条例というもので規制されて

いた。

 

1847年10月5日の国王令、あるいは1847年市町村

選挙法と呼ばれたものは、町の職員の選出方法を変更した。

 

 

p207

 

この法律は一般には「1893年のMaura」と呼ばれた・・

・・・それは、フィリピンの地方自治体の著しい改革であった。

 

この法律の下、新しい市町村政府が、1894年1月1日に

開始された。 しかし、残念なことに、それはもう既に

遅かった。 フィリピンはその時 革命が起ろうとしていた

からである。

 

 

・・・・

 

それでは、この続きは 96号で お願します。

 

 

 

 

 

 

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2016年11月23日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 89  トンドの陰謀 日本との同盟?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3312

 

「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

p181

 

「トンドの陰謀 1587-88年」

 

=== トンドと言えばフィリピンの中でも治安が悪いとか

汚いなどと不名誉なことで有名な場所ですが、

    ちょっとどんなところなのか、こちらで復習:

    (かなり由緒正しい、歴史のある町なんです)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%89

                   

 

卓越したフィリピン人によって、スペイン統治を転覆し、

失われた自由を取り戻そうという初めての陰謀は、1587-1588年

の有名なトンドの陰謀である。 それはボニファシオのカティプナン

の革命的構想の先がけとして認識されるかもしれないし、さらに

1892-1896年にトンドで再度発生している。

 

この自由主義運動の指導者は、Lakan Dula の甥であり、ブルネイの

スルタン(イスラム君主)の義理の息子であった Augustin de Legazpi

であった。 1578年の初期に、彼は、・・・・などに対して、

武装蜂起によって先祖が謳歌した失われた自由を取り戻す

秘密の計画を打ち明けた。

 

 

p182

陰謀に参加した日本人のキリスト教徒、Dionisio Fernandez, を通じて、

Augustin de Legazpiと彼の共謀者は、定期的にマニラで交易を

していた日本人の商船の船長 Juan Gayoに接触した。

秘密の合意が結ばれた。 それはGayo船長が武器と日本人兵士

フィリピン人愛国者を助けるために提供し、Augustin de Legazpi

フィリピン王国の国王として認めるということであった。

そのような支援の引き換えに、彼と彼の日本人兵士たちは

フィリピンで集められる年貢の半分を与えられるというものだった。

 

=== じぇじぇじぇじぇ・・・・

    なんと、日本人とは思えない名前の日本人が

    このスペイン支配を転覆する陰謀に加担していたとは!!

    この日本人、Juan Gayo と Dionisio Fernandez とは

    一体ぜんたい何者で日本名はなんでしょうか?

 

こちらのサイトにこんなことが書かれていました:

https://en.wikipedia.org/wiki/Conspiracy_of_the_Maharlikas

 

日本及びブルネイとの同盟

 

Allies from Japan and Brunei

The mestizo, Augustín de Legazpi and a group of conspiring Rajahs had contacted the Japanese captain, Juan Gayo, through a Japanese Christian interpreter, Dionisio Fernández, who had also joined the conspiracy. A secret meeting ended with an agreement in which Gayo would supply arms and warriors to help in the rebellion and recognize De Legazpi as king of the entire Philippines. In return, Gayo and his men would receive half of the tribute to be collected from the Philippines. A significant group of merchants known only as the "Sakai Merchants", with their leader Luzon Sukezaemon, had also been known to conspirate with the royal families against Spanish rule.

=== なんとなんと、英文サイトには、堺商人の呂宋 助左衛門

(るそん すけざえもん)とあるじゃあないですか。

 

 じゃあ、こっちのサイトもチェック:

 「本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。

堺の貿易商・納屋才助の子。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%AE%8B%E5%8A%A9%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80

 

 

日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったともいう]。慶長12年(1607)、スペインカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。」

=== 日本語サイトでは、フィリピンのこの「トンドの陰謀」に

    関与したという記事は見つかりませんが、フィリピン側

    にはもしかしたらもっと詳しいものがあるかもしれない

    ですね。

    しかし、昔から日本はいろんな形で、フィリピンとの

    「軍事同盟」をやっていたんですねえ・・・

 

p182

・・・・1588年10月26日、彼は、マニラに急行し、

Santiago  de  Vera総督にスペイン統治に反抗する陰謀が 

あることを通報した

 

この恐ろしい陰謀のニュースに警鐘を鳴らされ、

15か月も知らなかったスペイン当局は、ただちに

革命計画に関与したすべての人物を逮捕するよう命じた。

その中には、日本人通訳 Dionisio Fernandezも含まれて

いた。

 

p183

 

失敗した自由への反乱の二人の指導者Augusttin  de Legazpi

およびMartin Panganは、残忍にも絞首刑となった。

 

日本人通訳でありAugustin de Legazpiの友人でもあった

Dionisio Fernandezは絞首刑となり財産は没収された。

 

・・・・Dionisio Capolo(Kapulong)は、Candaba(パンパンガ)

の族長であったが、彼の町から追放され、重い罰金を課された。

総督Santiago  de  Veraは彼を赦免した。 その後、彼は

スペインに協調し、1591年と1594年のイゴロットの 

地域へのスペイン派遣軍のガイド及び通訳として働いた。

 

最後に、「トンドの陰謀」の指導的メンバーであった5名は、

メキシコの追放された。・・・・

彼らは、メキシコに定住した最初のフィリピン人となった。

 

===  おお、日本人の通訳さんは、絞首刑にされちゃいまし

     たか。

     しかし、二人の日本人の日本名が分からないってのも

     寂しいですねえ。

     日本人兵士ってことは、侍がいたってことですよね。

     ルソン助左衛門の船に乗っていた侍がいたんでしょ

     うか。

     織田信長や豊臣秀吉の時代だから・・・

 

 

 

こちらのサイトにもっと詳しい研究論文がありました:

http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/bitstream/iyokan/1542/1/AN10579404_2012_32_05.pdf

 

(こちらでも、日本名は分かりませんが、長崎県平戸との関係が書いてあります。)

 

日本船の船主は、肥前平戸

の松浦鎮信(15491614年)の下にあった日本人キリシタンのジョアン・ガ

ヨであり、日本のイエズス会からマニラの上長アントニオ・セデーニョに宛

てた書簡を携え、また貿易関係の確立を希求した。ガブリエルと名乗る日本

人も乗船し、航海中にガブリエルの感化を受けた日本人8名は、

マニラにおいてサラサール司教により受洗し、ベラ総督を初めとしてスペイン人高官が洗礼親になった。ガヨはベラ総督に対して中国や周辺諸地域への遠征に必要とあれ6,000名の傭兵を提供できる用意があると申し出たが、ベラ総督は、中国征服に意欲を燃やした前任のサンデ総督やロンキリョ総督とは異なって、フィリピン統治の充実を優先し中国人商人との友好関係を重視していたBR 6: 308310)。ガヨはマニラで失意の日々を過ごしたが、間もなく、日本人のディオニシオ・フェルナンデスの仲介によりスライマンの甥かつ養子のアグスティン・デ・レガスピを知ったのである。」 

 

こちらのサイトでは、さらにジュアン(ファン)ガヨが 

吉近はるたさと同一人物ではなかったかとの記事もあります。

http://proto.harisen.jp/hito1/fan_gayo.html

 

「1587年のこの謀議の時点ですでにガヨは、日本から輸送していた武器をイスラム系原住民勢力に供与し、協力の印とした。実際、別の史料には1587年に大勢の日本人と商品を乗せてマニラに到着したガヨ船長の船が記録されている。またガヨと同時期にマニラを訪れていた吉近はるたさの船が武器を搭載していたという記録もある。

 

 計画は1588年十月に発覚し、スペイン側によって未然に防がれたが、発覚数日前には日本からの武器や火縄銃を供与されたボルネオ勢力がマニラ湾に迫っていたという。

 

吉近はるたさ:平戸の松浦氏の家臣。商船と渡航団を率いて平戸とマニラを往復した。」

 

 

==== 我が故郷 長崎県の平戸の話なんで、ぐっと身近に感じます。

 

・・・・・・・・

 

では、次回 90号 をお楽しみに。

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月14日 (月)

日本語との関係? 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その12

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・

一旦 「あとがき」までで終わったんですが、
日下公人氏の「解説」にヒントになる言葉なんぞが
あったので、 その12 として追加します。

Img_3357

p236

日本では一神教的思想に由来する各種の概念が
いかに好い加減に用いられているかの立証に筆を
進められる。 
たとえば個人主義、たとえば合理主義、例えば原理・原則
たとえば科学的証明、たとえば論理的考証などの用語が
日本ではいかにもそれらしく用いられながら、最後のところ
では日本化されて本来の切れ味を失っている状況が
克明に語られる。

=== 私も以前から 日本の民主主義というのが
    なんとなく日本人の体形に合わない服みたいな
    感じをもっていたんです。
    それは、おそらく民主主義や自由主義というのを
    理解しているつもりになっているだけで、
    実際のところは根本のところで何かが違う
    という程度の浅い考えなんですが・・
    この本を読んでみると、キリスト教という
    一神教の思想に根差した個人と神との契約と
    言われるような個人主義の考え方が分かるような
    気がします。
    
    「空気の研究」では、日本の場合は汎神論的な、
    おそらくは八百万の神・自然崇拝的信仰に根ざした
    臨在感に基づく絶対的把握によって、その対象に
    感情移入をして、空気が醸成され、それに支配され
    るから事実が見えなくなり、仲間内での隠し合い
    が行なわれ、事実を見てそれを口に出す いわゆる
    KY君は村八分にされてしまう 集団主義の社会
    だと言っているように思います。
    そして、そこからは科学的合理性なども排除される
    という結果になってしまうと。

    一神教の場合、厳格な派では、偶像崇拝を禁止
    していて、死にも値するような厳しいことにも
    なるようですが、日本の場合は 仏像に代表
    されるような習慣もありますしね。
    おまけに八百万の神々だから偶像崇拝は気楽に
    やっているってことでしょう。
    ちなみに、お釈迦さんも偶像崇拝をするなと
    言ったそうで、仏像も作らなかったそうですから、
    仏教とは言っても お釈迦さんの時代からは
    かなり変遷があって、日本的解釈になってからは
    さらに別物になったんでしょう。

歴史は繰り返されるのであって、戦中戦前の日本人の
思想様式や行動様式が今も変わっていないことが・・・

大正族や昭和ヒトケタ族には その伸縮しない物差しの
重要性と必要性はよく分かるのである。
その世代は理由がよく分からない戦争に捲き込まれて、
ひどい苦労をさせられたからである。

=== この部分は 非常に恐ろしい話で、
    私は戦後生まれですが、原発事故と放射能の
    問題や、立憲主義をなし崩しにされている政治的
    情況を考えると、この本は33年前に書かれたとは
    言え、益々その傾向が加速しているような感覚を
    覚えます。

    ただ、この本では、戦後の憲法が絶対化された為に
    欧米の考え方とは違って、憲法改正は一切まかり
    ならんという雰囲気にも言及しています。
    私個人は、憲法改正には原則賛成ですが、
    自民党が進める内容には疑問があるので、野党が
    理想とする、立憲主義を確保するための改正が
    あってしかるべきと考えているんですけどねえ。
    今までにも十分に、野党の責任もあって、なし崩し
    にしてきましたから。
    反対、反対ばっかりじゃあ、何に反対してんのか
    さえ分かりません。
    自分が政権を担うという前提での改正をやって
    もらいたい。

p237

それは「空気」の力が原因だったと教えてくれる。
水を差しても無効な程の「空気」の力が開戦の原因で、
同じことは今も繰り返されていると教えてくれるので
恐怖を感じるほどの迫力がある。

さらに本書は ユダヤ人は紀元前からそうした「空気」
の存在を自覚していて、その克服手段を種々工夫を
凝らしていたとも教えてくれる。

=== 「空気に支配される」ということは、いわば
    洗脳されるということなんだろうと思うんですが、
    それに関して 下のリンクのような記事が
    ありました。

【コラム】洗脳されやすいのはどんな人
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/11/11/2016111101576.html?ent_rank_news

「なぜこういう行動を取るのか。それは、他人に頼らな
ければ自分は生きていけないと信じているからだ。ひとたび
依存し始めると、その人がいなくては駄目だという思いに
とらわれる。自分を過小評価し、実際には能力や魅力に優れ
ていても、独りでは生きていけないと信じるようになる。
さらに、重要な決定を自分で下すことができず、依存する人に
任せてしまう。困難なことが起こると、すぐにその人のところ
へ行って相談し、その人がさせる通りに行動する」

「同書の契機となったのは狂信的なオウム真理教の教祖・
麻原彰晃の存在ですが、・・・」

自尊心。自慢と誤解してはいけませんよ。洗脳や暗示に
あまりかからない人の、第一の条件です。」

=== つまりは、主体的な生き方が出来ているかどうかが
    自尊心という言葉になっていると思いますが。
    この点から判断すれば、
    「空気の研究」の中で 「江戸時代のサムライは
    「空気に呑まれることを恥としていた」という
    部分と繋がるように思います。
    
    
==== さて、ここで、話は飛ぶんですが、
     そもそも私が この「空気の研究」という本を
     読みだしてから考えていたのは、
     日本語教師として この「空気」と「日本語」
     間には何か関係があるのだろうかという
     ひとつの些細な関連付けの可能性です。

・・・と言うのは、過去にいろいろ日本語関係で読んだ
本の中に、日本語は「外交に向かない」とか、
バイリンガルは 「日本語で考える時と、英語で考える時
とでは性格が変わる」とか、そういう言語学的な影響が
隠れているのではないかとの疑問があったからです。

そこで、たまたま最近日本に一時帰国した時に持ってきた
下記の本に、「主体的」という観点と、「日本語のプロ」
という観点から 国語学で有名な 大野晋の人となりを
描いた「国語学者 大野晋の生涯 - 孤高」
次に読んでいこうと思います。

・・・・・

では、又、改めて お付き合いください。

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2016年8月 9日 (火)

沖縄からのバギオ・ベンゲット移民は どうなったのか

先日 沖縄からのお客様がバギオ市にいらっしゃいまして、
沖縄からフィリピンに渡った移民のことを 色々と教えていただきました。

その話の中で、沖縄からの移民も 当初はバギオを切り開く為に
建設されたケノン・ロード(当時はベンゲット道路)の建設に
携わったことを聞きました。

そして、その道路工事で亡くなった沖縄の人たちの慰霊碑
ケノン・ロードの ライオン・ヘッドの少し下の道路脇にあって
今でも数年に一度は慰霊団の皆さんが沖縄からいらっしゃるのだそうです。

キャンプ3にある 鹿児島歩兵71連隊の慰霊碑の黒光りする
大きな石柱とは異なり、沖縄式の屋根と柱のある慰霊碑だそうです。

私は バギオ市に住んで11年目なんですが、この話は初耳でした

 

・・・ところが、さらに・・・

沖縄からフィリピン・バギオへの移民。
この移民の話は 現在の北ルソン比日基金(アボン)が移民100周年に制作した
「Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highland」
の本には掲載されていません。

Img_6713

なぜバギオの日系人の記念誌に沖縄からの移民のことが
記録されていないのか・・・不思議に思い検索してみました。

沖縄県の歴史学習 「海外移民
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~yamauchi/08-fuzoku02.pdf

沖縄フィリピン協会 会長の話:

「フィリピンへの沖縄移移民第1号は1904年(明治37年)、
ルソン島中部の高原都市バギオと低地を結ぶベンゲット道路の建設工事に雇われ、
バシー海峡を渡った出稼ぎ労働者360人。翌年道路の完成にともない、
移民らは新天地を求めてミンダナオ島のダバオへ流れ、マニラ麻栽培の開拓に乗り出す。
言葉や習慣の違いよる現地人との衝突、マラリア風土病などに戦いながらの開墾であった。」

「麻栽培の全盛期には年間2千人の県人移民がダバオへやってきた。
当時日系人は約3万人いた。その7割が沖縄県出身者だった。」

「特にフィリピンに関しては「宜野座村史」が充実している。」

・・・確かに、話に聞いたとおり、ベンゲット道路建設の為に 
沖縄から360人の労働者がやってきたと書いてあります。
そして、その後 ミンダナオへ渡った。

それにしても、上記の記念誌に一言もふれてないのは何故なのか・・・

こちらのサイトに こんな記事がありました:

琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著
http://kousyou.cc/archives/11106

バギオへの1900年代初頭の日本人移民の記録の中に
沖縄からの「ベンゲット移民」の記録がないのは
この辺りに理由がありそうです・・・

「本書で紹介される1944年の部外秘とされた米国海軍省資料の記述が興味深い。


『日本人と琉球人(沖縄人)とのあいだの、たいへん近い民族的関係や、
言語の類似性にもかかわらず、琉球人は日本人からは民族的に平等だとは
みなされていない
。日本人は、琉球人たち特有の粗野なふるまいから、
かれらを、いわば田舎から出てきた貧乏な親戚みたいなものだと見下し、
いろんなところでかれらを差別してきた。ところが一方、琉球人の方は、
自分たちが劣っているとは全然感じておらず、自分たち自身の伝統や、
中国との長期にわたる文化的紐帯に誇りをもっている。そのため、
このような琉球人と日本人との間の動かしがたい関係は、潜在的に
不和の種をはらんでおり、そこから政争の具とするものをつくりだすことが
できるかもしれない
。ほとんどたしかなことは、この琉球においては、
軍国主義や狂信的な愛国心は、たとえあったとしても、それは大きくなる
とはとても思えないことである。』(鳥越P159)」

・・・・ これだけの記録では、実際に当時の様子は推し量ることは
できませんが、沖縄とアメリカの当時の関係、沖縄と日本の関係が
影響しているようです。

当時の沖縄は やっと日本による統治が始まったころですので、
同国人としての意識が まだなかったのかもしれません。

では、当時の記録では、この360人の沖縄からの移民は
どこで どのように 記録されているんでしょうか・・・

ちなみに、英語のサイトを読んでみると、

Kennon Road
https://en.wikipedia.org/wiki/Kennon_Road

The project was begun in 1903 and opened for travel on January 29,
1905. It was originally called the Benguet Road and later renamed
in honor of its builder, Col. Lyman Walter Vere Kennon of the
U.S. Army Corps of Engineers.

The construction of the road commenced in 1903 by cutting across
the mountains of Benguet with the combined efforts of Filipinos,
Americans, Filipino-Chinese and Japanese nationals.

ここには、大雑把に フィリピン人、アメリカ人、中国系フィリピン人、
そして日本人が関わったとされています。

More than 2,300 foreign and local workers worked on the road.
Aside from Filipino engineers and construction workers and U.S.
Army Corps of Engineers headed by Col. Lyman Kennon, foreigners
from 36 countries were recruited to work on the road; the
majority, about 1,500, were Japanese.

海外からの労働者を含む 2,300人が関与し、36カ国の労働者
働いたとあり、日本人が1,500人ほどだったと書いてあります。

研究者などのデータによって、数字はいろいろとありますが、
日本人が割合としても多かったことは間違いないようです。

こちらのサイトの文献には 沖縄からバギオへ渡った移民のことが
もうすこし詳しく書いてあります:

Johanna O. Zulueta
Living as Migrants in a Place That Was Once Home
The Nisei, the US US Bases, and Okinawan Society
http://philippinestudies.net/ojs/index.php/ps/article/viewFile/4000/4595

1903 Okinawans, along with Chinese and Japanese, migrated to the
Philippines to work on the construction of the Benguet Road
(now known as Kennon Road), the major thoroughfare leading to
Baguio City. Upon completion of the road, some Okinawans decided
to settle in Benguet,
while others moved to Manila and other provinces.
Most of them settled in Davao, which earned the moniker Dabaokuo,
owing to the significant population of Japanese and Okinawan
migrants in the province. During

・・・これを読むと、1903年に沖縄人が ベンゲット道路建設に
参加して、建設終了後に幾人かはベンゲット州に落ち着くことを決めた
とありますね。
ほとんどがミンダナオ島のダバオに定住したともあります。

Prejudice among Okinawans toward the locals, among the locals
toward Okinawans (ibid., 92–93), and among mainland Japanese
toward Okinawans was also prevalent. These Okinawans, at that
time, were called Otro Hapon (the other Japanese) (Yu-Jose 1999,
91; Ohno 2006a, 7; Ohno 2006b, 92–93).

・・・ ここでも、労働者の間での偏見のことが書かれていまして、
沖縄人の地元民への偏見、 地元民から沖縄人への偏見、
本土日本人から沖縄人への偏見も 一般的だったと書いてあります。

そこで 念のために バギオの日系人団体が出版した
本を もう一度見直しましたところ、一家族だけ 沖縄出身者が
見つかりました。

Img_6702a


Img_6709

大城昌康 シズエ 雑貨商

Img_6714a

・・と 一世の名簿にありました。

幾人かがベンゲット州に落ち着いたというのは事実だったようです。

・・・ですが、以前 バギオの日系人団体の役員の方に
「沖縄出身の日系人はいませんか」と尋ねたところ
御存じありませんでしたので、非常に少なかったのは間違いなさそうです。

さらに、このサイトの論文は続きます:

The prejudices between Okinawans and the mainland Japanese stem
from the fact that Okinawa was historically not part of the
country
now known as Japan but was part of a group of islands
formerly known as the Kingdom of the Ryukyus, with its own cultural
traditions and distinct languages. At present Okinawans, despite
their Japanese nationality, still experience discrimination for
being not truly Japanese, or being “a different kind of Japanese,”
due to perceived cultural and ethnolinguistic differences.

つまり、元々 沖縄は 歴史的に日本ではなく 琉球王国だったので
現在でも 国籍は日本だが 文化や伝統が異なるので「他の日本人」と
見られていると書いてあります。

おそらく、360人が沖縄から バギオの道路工事にやってきたけれど、
ほとんどが纏まってダバオへ行ったというのも この辺りの理由が
あったのかもしれません。

///////////////////////

ちょっと 時間をおいて またまた検索をしてみたところ
下のサイトに さらに興味深いことが書いてありました:

「ダパオ国」の沖縄人社会再考
本土日本人,フィリピン人との関係を中心にー
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/123456789/6447/1/No2p001.pdf

「しかし,これらの研究は,Kaneshiroなどを除けば,邦人移民社会を
単一のエスニック集団であるとの前提
で議論し,日本本土出身者(以後, 「本土日本人」と表記) と沖縄県出身者
(以後,「沖縄人」と表記)の関係や両者の間にあったサブエスニックな溝
についてほとんど触れていない」

「ダパオに定住する最初の邦人移民のコア集団は,いわゆる「ベンゲット移民
である。ベンゲット移民とは,バギオというルソン島中部の高原の避暑地
(夏の首都)に通じる「ベンゲット道路」工事のために導入された日本人建設労働者
のことで,1903年から道路が完成する1905年初めまでの間,一説には延べ約2,800人
が工事に従事した(東亜経済調査局1936:212)。この中心は,沖縄人と九州人だった
(米田1939:31)。沖縄からのベンゲット移民は,本土日本人移民より1年遅れの
1904年4月に現地入りした。『琉球史料』によると,この年,計360人の
沖縄人がベンゲット移民としてルソン島に渡航した(金武町史編さん委員会1996a:265)。」

・・・ なるほど・・ベンゲット道路に関わったのは 主に沖縄と九州から
の出稼ぎ者だったんですね。
しかし、沖縄人は1年遅れで入っている。

「ここで重要な役割を果たしたのが,沖縄で「海外移民の父」と言われる
常山久三と「フィリピン開拓の父」と言われる大城孝蔵である」

・・・関係があるのかどうか分かりませんが、「大城」という名字ですね。
上記の 雑貨商の大城さんとどういう関係でしょうか。

「,大城はベンゲットへの先遣人になり,300人以上の沖縄人労働者の「監督
として工事現場に赴任した(金武町史編さん委員会1996a:562)。ベンゲット
道路は1905年1月に完工しているから,沖縄人移民は9カ月間しか工事に従事
しなかったことになる」

「道路完成とともに,ベンゲット移民の多くは日本に帰国したが,百人単位
の労働者がそのままフィリピンに居残った。その主な理由は,帰国したくて
もそれだけの所持金がなかったからのようだ」

・・・そして、ダバオへ移動した・・・

「。バギオ周辺には最盛期,千人余りの日本人が居住していた。このうち
沖縄出身者は極めて少数だったようである3)。バギオ市には現在,
二世と三世を中心とする日系人団体「北ルソン比日友好協会」があるが,
戦前の沖縄移民を祖先に持つ日系人の会員はいない

「多民族・多言語の中で生きる地元住民からみれば,在留邦人社会は2種類の
エスニック集団で構成されると理解された。本土日本人と沖縄人である」

「。その点において,Codyの論文は光る。彼女は,ダパオの在留邦人を
非沖縄人」(本土日本人のこと) と「沖縄人」に分け,非沖縄人は知的
職業人,会社幹部,事務職,技術者が多かったのに対して,沖縄人は
「より頑丈な体格で,ひげや体毛が濃く,勇敢,機知に富み,優秀な労働者」
「無教育で,言葉も行動も粗野」という傾向があったという。そして,
本土日本人は,自分たちが沖縄人より優越だと考え,キリスト教徒
のフィリピン人が非キリスト教徒の先住民を差別したのと同じように
沖縄人を差別した,と指摘している(Cody1959:174)。」

・・・ これで どうやら バギオ市の北ルソン比日基金の
日系人団体に沖縄の人たちがごく少なかったことが分かりました。

上記の雑貨商の一世の大城さんですが、
JAPANESE PIONEERの本で 2世、3世の名簿を探しても
大城さんの名前は出てきませんから、その後ダバオへ移ったか、
あるいは子供がいなかったか・・・はたまた日本へ帰ったか・・・

・・・と言うことで、ケノン・ロードに沖縄出身の道路工事犠牲者の
慰霊碑がありながら、バギオの日系人の人たちや、私を含む在バギオの
日本人はこのことを知らなかったということになります。

======= おわり ===

 

 

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2016年1月21日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 84 英国による侵略・ヨーロッパの七年戦争

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

Img_3566

さて、日本との関係は一旦終わりまして、

今日からは英国との関係に入ります。

31章まである この教科書の、やっと13章なんです。

先が思いやられます。

まともに全部翻訳をすると、ヨーロッパの歴史みたいに

なっちゃいそうなので、フィリピンに関係の深いところだけ

つまみ食いします。

 

 

13 THE BRITISH INVATION

「第十三章 英国による侵略」

 

 

p171

 

スペインによる征服の後にやってきた最初の成功した外国

による侵略は英国によるもので、1762年から1764

まで、英国のマニラ占領という結果になった。

マニラの外では、英国は前進できなかった。

それは、闘う法律家である Simon de Andaが、

愛国的聖職者や忠誠を誓うフィリピン人達の支援を得て、

英雄的な抵抗によって、地方におけるスペイン体制を

維持したからである。

 

=== 英国もフィリピンを狙って、占領したっていうのは

    日本の世界史の授業じゃあ、勉強することもない

    でしょうね。

    フィリピンは、スペイン、英国、アメリカ、日本と

    次々に侵略を受けてきた国なんですねえ。

    その間、日本は鎖国を謳歌していた。

 

 

「英国による初期のフィリピン植民地化計画」

 

 

1762年の英国による侵略よりもずっと前に、フィリピンが

東洋の中において戦略的な地理的位置にあり、天然資源が豊富

であるという理由で、フィリピンを植民地化するという 

ある英国の帝国建設者たちの計画があったということを記する

ことは興味深いことである。

それは、例えば、帝国主義の熱心な主唱者であり英国の東インド会社

のエージェントであったAlexander Dalrymple(1737-1808年)

の壮大な妄想である。

 

アレクサンダー・ダリンプルについては、こちらのサイトで:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB

 

1779年から東インド会社のために水路学者として働き、多くの水路図を作成し、後にイギリス海軍最初の水路学者となった。」

 

 

p171

彼が東南アジアの海を調査の船旅をして、1759年にマニラを

訪問した後、彼は友人の東インド会社のマドラス評議会の長官に

有望な中国交易における拠点として、スールーのイスラム教

君主国に足場を獲得することの必要性を提案した。

その後、彼は「南フィリピンの征服の為の遠征隊計画」を

著し、英国政府に送っている。

 

 

(中略)

 

p171

 

「スペインと英国の戦争の勃発」

 

18世紀における世界植民地化のふたつの伝統的ライバル

であるスペインと英国が、荒れ狂うヨーロッパでの

七年戦争に突入した。

 

(中略)

 

p172

 

フランスの敵である国王ジョージ三世は、1762年1月

2日に、スペインに対して宣戦布告し、アメリカと東洋

のスペインの植民地を攻撃するために、遠征軍を準備した。

 

七年戦争については、こちら:

http://www.y-history.net/appendix/wh1001-122.html

 

 

=== フィリピンは植民地であったために、

    ヨーロッパ列強の植民地争いに巻き込まれて

    いったわけですね。

    まあ、日本の、なんとも平和なことよ。

    平和ボケってのは、徳川時代からの日本人

    のDNAに刻まれた特徴なんでしょうかねえ。

    明治維新で大逆転しますけど・・・

 

 

=== シリーズ 85 に続きます ===

 

 

 

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